石倉城

石倉城 

  • 石倉城の位置づけ 厩橋城の謎を追うー初代城主と利根川の変流、石倉城との関係 飯森康弘氏著より

 この城が注目される最大の理由は、厩橋城の全身なのかということにあるだろう。『上毛伝説雑記拾遺』では、石倉城の改修が利根川変流を引き起こしたと記されている。だが、利根川の変流を説明するには、大渡辺りから下流に、もともと八幡川が流れていたとするのが妥当である。伝説では変流した東岸に、石倉城3の丸が残ったというから、内部に河が流れていたことになる。皆無とは言い切れないが、あまり例のない形態の城となり、伝説の内容に無理を感じてしまう。
   furutone01.jpg
※まとめると厩橋城の全身であり利根川東岸にあったであろう「古石倉城」と付城や出城として利根川の西岸にあった「石倉城(砦)」の2つがあったと考えられる。以下にも今までの石倉城についての解説を載せておきます。利根川の西遷も参照されたし。

  • 石倉城   城と古戦場様より

石倉城(★群馬県前橋市石倉町上石倉)は、文明十七年(1485)上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。応仁の乱が終わって八年後のことである。
当時の利根川の水流は現在の広瀬川周辺より左岸側に巾広く流れていた。橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀は引き入れたという。

山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北条早雲が関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。一方総社長尾氏と白井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭してきた。長尾憲景は永正九年(1512)新井城の戦いで戦死、三男長景が城主となった。その後、享禄・天文・弘治年間(1528~57)にわたる数回の大洪水によって本流が久留馬川に移り、現在の利根川になった。永禄六年(1563)武田信玄の西上野への侵攻際し、長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、興左衛門の兄弟を置いた。永禄八年(1565)越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせた(『城址案内板』)

石倉城は関東の要衝であるため、永禄九年(1566)七月、再度信玄に攻め取られ、武田の武将で保渡田城主の内藤修理亮政豊及び外記親子が兼帯した。その後内藤政豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条丹後守高広に降り、北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部)が守った。
この間八十有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史をくりかえし、天正十八年(1590)五月、徳川勢の進攻に対し寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。攻めるは松平修理大夫康国であった。康国はこの戦いで戦死、弟の松平新六郎が一千有余騎で攻めまくった。左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち、左馬助を始め残る城兵ことごとく城炎と共に相い果て、ついに落城の運命となった。
この様に幾万の将兵が死闘を尽くして戦った城池をも、戦国の世と共にまぼろしの彼方に消え去り、今はただ「石倉」という地名を残すのみとなった。よって後の世にその名をとどめ伝えべく、石倉城の記とした(『城址案内板』)

城址は住宅地となっており、明瞭な遺構は無いと言える。石倉城二の丸公園に碑と案内板があるのみ。

   isikurajou01.jpg
「群馬県古城塁址の研究(山崎一氏著)」より

  • 石倉城(いしくら)   古城址探訪様より
 別称  : 崖端城
 分類  : 平城
 築城者: 長尾忠房・武田信玄
 遺構  : なし
 交通  : JR両毛線前橋駅よりバス
       「上石倉」バス停下車

<沿革>

この地に石倉城と呼ばれるものは、大きく2つあるようである。1つは、総社長尾氏の長尾忠房もしくはその子が、蒼海城に代わる新たな居城として築いたものである。現地の説明板によれば、築城は文明十七年(1485)のこととされる。この石倉城は、利根川の河岸に築かれた城であるが、当時の利根川は現在よりもかなり東側を流れていたと推測され、近世前橋城の一部もその城域に含まれていたと考えられている。

しかし、この石倉城は時期は不明だが利根川の氾濫によって崩落し、総社長尾氏は再び蒼海城へ居城を戻した。2つ目の石倉城は、対岸の厩橋城(前橋城の前身)制圧の拠点として、武田信玄によって築かれた。築城時期については定かでない。『日本城郭大系』では、永禄八年(1565)に厩橋城の上杉方が石倉城を攻め取ったとする『上州故城塁記』の記述を取り上げて、この年までに築かれたものと推測している。現地の説明板も、この記述にしたがっている。しかし、今日では箕輪城落城が同九年(1566)とされていることから、『大系』でも『城塁記』の同八年の記述に疑問を差し挟んでいる。いずれにせよ、箕輪城の長野氏を滅ぼし、次の狙いを厩橋城に定めた信玄によって、対の城として築かれたことは間違いないであろう。その後、厩橋城主北条高広が一時北条氏に寝返るなどし、石倉・厩橋両城は武田・上杉・北条の3氏の係争の地として攻防が繰り返された。天正七年(1579)、上杉謙信死後の御館の乱に乗じて武田勝頼が厩橋城を制圧した。このとき、石倉城は存在意義を失い、一度打ち捨てられたものと考えられる。同十年(1582)に武田氏が滅亡すると、滝川一益が厩橋城に入ったが、同年中に本能寺の変が起こり、一益は関東を去った。一益を逐った北条氏直は、厩橋城奪取のための対の城として、再び石倉城を取り立てたとされる。天正十八年(1590)の小田原の役で、徳川家康の家臣松平(依田)康国が石倉城を攻めた。守将寺尾左馬助(『大系』では小林左馬助)は耐え切れず康国に降ったが、城の明け渡しに際して康国を殺害した。左馬助は、その場で康国の弟康寛によって討たれ、城は落城した。ただし、康国は単に城攻め中に戦死したともいわれる。その後、北条氏の滅亡とともに廃城となったと思われる。

<手記>
上述のとおり、石倉城と呼ばれるものには2つありますが、総社長尾氏によって築かれた1つ目の石倉城は、今では利根川と前橋城の下に消滅しているものと思われます。信玄によって築かれた2つ目の石倉城も、利根川によってだいぶ削られてしまいました。現在、二の丸公園として整備された公園の一角に、石碑と縄張り図、そして地元愛好会による城の縁起を記した碑文(説明板)が建てられています。一部の用水路などに、当時の外郭をみることはできなくはないのですが、とくに遺構と呼べるようなものは残されていません。上図のラインは、それぞれ本丸と二の丸の堀、そして外堀を大まかになぞったものです

  • 最終更新:2016-07-21 16:40:39

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード