箕輪城と上州戦国史

ごあいさつ

  1. ご訪問ありがとうございます。このサイト(ホームページ)は、FC2様の運営するWikiのシステムを利用して作成され、掲載されている内容は箕輪初心氏のブログから、許可を得て引用し、まとめたものです。更にWikiや他のサイト、並びに市販されている書籍からも書写して一時的に保存し、まとめて行く予定です。
  2. このサイトには目的があります、それは箕輪城を取り巻く上州の戦国史をドラマとして空想すること。言い換えるなら管理者である宗春が描いた物語書籍にしたり、映像化出来たら良いなと夢を見続けるための道具なのです。したがって、論拠を示した論文の体を成しておらず、宗春自身に都合の良い内容に傾斜しておることをあらかじめお詫び申し上げます。
  3. 榛名山麓に築かれた支城網や、なびく旗印がおぼろげながら見えて参りました。これからは箕輪衆のお侍さんたちが、如何にして武田勢に立ち向かっていったのか、新陰流軍学『訓閲集』を参考にして戦場に立つ一個人の目線で見て行こうかなと思っております。また、上野国・上州とは現在の群馬県のことです。
2018.08.29 宗春

  • 最近の独り言・・・長野業政の軍勢を研究するにあたり確信したことがある。それは久保田順一先生の著書『上州白旗一揆の時代』にあった『中一揆』という言葉。上杉家家宰である長尾景仲・景信・景春と共にこの中一揆はあった。この中一揆の旗頭は、長野為業・房業に連なる上野長野氏本流の人々と考えられる。やがて白井長尾氏が没落(景春の乱)して行くと中一揆の面々は業政の家臣団に編入されて行き永禄初年の着到帳に名が連なる。根拠うす!
2018.11.13 宗春
2016年5月23日作成開始 岡宗春(棟治改め) Twitter 登録してみた

トピックス

長野家の家臣団再編成(着到帳)は、対武田戦及び謙信越山にあった 2018.11.07

長野信濃守に宛てた文書 永禄元年(弘治4年) 1558年    県立文書館
  武田信玄は長野信濃守に服属を求める。
  ・武田信玄と長野業政
   武田信玄書状写(★『極楽院文書』)
   「去頃者上杉家諸将、於笛吹(★「うすい」と読む)」峠一戦之
    間、就其貴殿御同心無之段、小幡尾張守・真田弾正忠及聞御
    噂申、依旧縁味方於参令感心候、忠信迄可預御案内、猶可為
    本望候、  恐々謹言
              十一月十五日(永禄初年カ) 武田晴信(花押)
                                 長野信濃守殿 」
    img026s2.jpg  img026花押.jpg

 ●長野信濃守に宛てた文書は、天文15年から弘治2年までの11月15日付けで出されたと
  考えられる。更に絞ると、上杉憲政が越後へ立ち退いた天文21年から弘治2年までの
  11月15日であるが、宗春はずばり弘治2年としておきます。そして武田晴信は、業正が
  これに応じなかったため西上州へ侵攻したと考えられる。
  ただし、瓶尻(みかじり)の戦い(弘治3年)は軍記物にしか見られない。
  このため武田信玄書状写(★『極楽院文書』)は、偽文書の可能性があるとしている。
 

もしかしたら上杉謙信の兵種別編成に影響を与えたのかもしれない 2018.10.31

長野家の軍制再考 元祖兵種別編成がここにあったのか
 『訓閲集』(きんえつしゅう)は大江家と多田源氏に伝わったとされる軍学書。
  後三年の役の際、勅命により大江家は源義家に対して『訓閲集』を伝えたが、後に代々小笠
  原家が相伝する事となる。軍学流派の上泉流、源家古法で用いられた他、甲州流にも影響を
  与えた。
    戦国の陣形.jpg  伊勢守.jpg
                    ・-岡本半介(井伊家)-小幡景憲
                    |
             ・-上泉秀胤-・-上泉義郷…………池田藩
             |
  小笠原氏隆-上泉信綱-・-疋田豊五郎-上野左右馬助……細川藩(新陰流師範家・林家)

 ・新陰流軍学の行列の法には、兵種別編成(備え)が謳われている。


新陰流つっても、剣術だけじゃないよ。兵法だよ、合戦の虎の巻信綱伝 2018.09.10

  小笠原家の『源家訓閲集』の内容も陰陽五行的な占いの要素の方が強く、これが氏隆から
  信綱へ伝えられ、その子である秀胤から岡本半介に相伝されたため、この系統は陰陽思想
  の面が強いが、一方で、信綱から疋田豊五郎に伝えられた※疋田伝の『訓閲集』は実戦的
  要素の方が強い内容となっている。
 武者揃えの法
  国家無事の時、我が国の内にて武者を揃える場を定めて、法の如く備えを立て置き、その所
  より一里ほど先に陣場を定めて、その組々の陣所を取り、物頭〔軍の組頭〕どもの小旗を持
  たせ遣りて、我々が〔各々の〕陣所に立て置くべし。
 ・陣場に置く人数・坪割(旅の陣取り-500人)

    500人の陣場.jpg  aranamiraf.jpg
 ※箕輪支城網に北新波砦(規模は75m四方)があるが、周囲に2m程の土塁を持つが内部には
  これと言った遺構は見られないと言う。

最後の箕輪城主氏業の化名は新五郎、左衛門五郎は誰?『長尾忠景書状』2018.08.08

  『長尾忠景書状』に見る【長野左衛門五郎】とは、如何なる人物であろうか?
   これは、山内上杉家家宰の長尾忠景が、上野守護代として領国内に本貫を持つ
   落合氏(現藤岡市上落合か)に宛てた書状である。
   また長野家の家臣団の中に『落合又九郎』の名がみえる。
    nagaotadakage_shojou01.jpg  minowajou11.jpg
                           (縄張り図は余湖君様のHPより)
   これを読み下し文にすると、次のようになると思います。
    先忠に復さるるの由、長野左衛門
    五郎注進を披露せしめ、御書を
    申し成し候、定めて御本意たるぺく候
    この刻、御忠節簡要に候、
    恐々謹言、
    六月十五日 前尾張守忠景(花押)
    謹上 落合三郎殿
「長野市立博物館だより92号」森田真一氏著より引用してまとめたもの
まとめ
 ●今回は 左衛門五郎を房業にあてて方業を業政と同一人物として考えてみる
  宗春は今のところこれがしっくりくる。
    長野入道⇒為業⇒房業⇒方業(業政)⇒氏業 (間に誰か入るかもしれない)

上杉憲房が白井城主になった時、方業(16才仮)被官? かもしんない 2018.08.04

 ●上杉定昌(うえすぎ さだまさ)  (Wiki最終更新 2011年4月17日 より本サイト内に取り込んだもの
  室町時代の人物。上杉房定の子。上杉顕定、上杉房能の兄。
  父房定に代わり文明3年から五十子陣で、同9年からは上野白井城に在陣して弟の
  関東管領上杉顕定を補佐した。そして、定昌は上野国北部~越後魚沼郡にかけて政治的
  な影響力を有していた。
『上杉顕定』森田真一氏著より
    定昌支配領域01.jpg  siroijou32.jpg
    定昌の権力          白井城の縄張り図は余湖くん様のホームページより

 ●上杉憲房(うえすぎ のりふさ)  (Wiki最終更新 2014年6月1日 より本サイト内に取り込んだもの
  戦国時代の大名。上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
  正室:上杉朝昌の娘
まとめ
  • 文明13年(1481年)
  上杉憲房(14才)元服する。長尾景春は。憲房を「屋形」と称して被官していた。
  上杉顕定(27年才)定昌(28才)憲房(14才)方業(9才仮)
  • 長享2年(1488年)
  上杉顕定(34年才)定昌(35才)憲房(21才)方業(16才仮)
  3月24日に上杉定昌は、白井で従者共々自害した。享年35。
  越後上杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房白井城を引き継いだ。
  原因について上杉房能を擁立しようとする長尾能景らの陰謀であるとする説や、扇谷上杉氏
  による謀殺とする説、扇谷上杉定正方についていた白井城の旧城主である長尾景春ないしそ
  の与党によって襲撃されたとする説がある。
 ※越後上杉房能一派や扇谷上杉定正双方の意を酌んだ景春の仕業という説はどうだろう?
  その後担がれていた憲房は景春と絶縁することになるのであるが、憲房は利を得た形だ。
  長くなりそうなので一旦〆ます。
 

宗長の「東路の津登」に見る長野氏。顕定越後へ出張 宗春(棟治改め)2018.07.17

 ●宗長の「東路の津登」によると、永正六年(一五〇九)上野に足を踏み入れた時、
  「はま川並松(榎)別当にして」、「此別当、俗長野、珪石上也」とみえ、
  浜川の長野氏が並松(榎)の別当であったとしている。
  並松(榎)は天龍護国寺を指すと考えられる。
  榛名神社と天龍護国寺は一体の開係であり、同寺別当であった長野一族が榛名寺領の
  支配・管理にも関与し、木部氏の跡を継承して室田に入ったことも想定される。
     souchou01.jpg  北爪砦.jpg
    (★千葉市の戦国時代の城館跡より)   寺の内館(高崎市浜川町町東)

 ●永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立
  新田:岩松~大胡~青柳~荒蒔~浜川~大戸~草津~
  大戸~依田で句会~
  宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
  浜川松田氏の元で句会「多胡碑に石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」 
 

戦国後期の高津長尾氏はあまり知られていない。長尾定明が仏事奉行 2018.07.14 

 文亀二年(1502)八月二十八日
  二四0男 談柄
   卅三談
 ○関東管領上杉腐定、文亀二年壬戊八月廿八日、於上 以下略

   板鼻守護所.jpg   itahana08.jpg 
                       (★安中市教委)
〔解説〕
  この一三回忌法事には、鎌倉の建長寺・円覚寺から高僧が招かれ、読経している。
  仏事奉行は長尾能登守(総社(高津)長尾定明)、布施奉行は尻高左京である。
  そのほか、力石・大石などの上杉氏被官が事に当たっている。
  会場となった海竜寺の近くには、管領御館・顕定御館、更に板鼻道場のあったことがわかる。
  海竜寺は現存しないが、安中市板鼻の字名として残っている。
 

この時長野陣所におったのは、業尚・憲業・方業はたまた顕業・房業?2018.07.11

・文明十八年(1486)
 232北国紀行 九月未ごろ、尭恵が越後から鎌倉への旅の途中、佐野にて旅情にふける
  『~神無月廿日あまりに彼国府長野の陣所に至る事晡(夕方)時になれり、此野ほ
   秋の霜をあらそひし戦場いまだはらはずして、軍兵野にみてり、かれたる萩われもかう
   などをひきむすびて夜をかさぬ、~』   (下略)

   上野国府.jpg  蒼海城.jpg
  埋め込んだ縄張り図はイメージです   縄張り図は余湖くん様のHPより 
〔解説〕
   府中(前橋市元総社町)では長野氏の陣所にも寄り、長尾顕忠の陣所では連歌会を催
   した。また文明十九年(1487)にも上野府中長野陣所において歌を詠んでいる。
   さらに、小野景頼の屋敷にて連歌会を開いた。小野景頼については上野の武士と考え
   られるが他に資料がなく不詳である。 ※現在は木部氏の本姓が小野説あり。
新編高崎市史資料編4より

井伊直政旗下の長野民部業実に率いられて箕輪武士は関ケ原へ行った。2018.07.07

箕輪落城後の長野氏 中世部会専門委員 久保田順一(〇部会レポート)平成9年3月1日より
まとめ
【1.】箕輪落城は「受連覚書」によって永禄9年が通説となった。
【2.】静嘉堂文庫所蔵の『安藤藩臣親族記』に、長野信濃守の旗下であったとされる、
  長野(小鼻輪)若狭浜川右京の系図がある。
  落城後信玄によって、長野(小鼻輪)若狭は小鼻輪を浜川右京は浜川の地を安堵され、
  その他長野家旧臣達の多くが武田家に召し抱えられた。
  彦根藩の『侍中由緒書』に長野氏は、3席家老として4千石を与えられ幕末まで続いている。
  長野信濃守の子出羽守(業親)、その業親の子である嫡子十郎左衛門(業実・伝蔵)
  家康に召しだされて井伊直政の小姓に取り立てられた。
【3.】箕輪城主左衛門大夫氏業(業盛)の子極楽院陳鎮良は、落ち延びて後に西上野の
   年中行事職に補任されている。また来迎時塔頭善長院を回帰して子孫が住職を務めている。

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  写真は伝説の逆さ梅とされている    彦根城下には長野氏菩提寺:長純寺がある。

以前は「長野左衛門尉為兼ってだれだよ?」なんて言われていたのに 20180612

高崎市史やWikiを基に編集したもの
 ●足利義政御内書(感状)文明3年(1471)

   関東事、連々被忠節旨、上杉四郎註進之趣、被聞食之
   訖、尤神妙、弥々可抽戦功侯也、
     同日
    小幡右衛門尉とのへ
    長野左衛門尉とのへ

  解説
   享徳の乱中に館林城を落とした上杉軍は、更に古河を攻め、足利成氏を同地から追った。
   小幡右衛門尉・長野左衛門尉は、上杉軍に加わって活躍し、その結果上杉顕定の注進に
   よって将軍足利義政から、感状を下されたのである。なお、『松陰私語』には、この後
   に長野左衛門尉為兼という人物がみえ、関係が注目される。高崎市史より
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   幕末の前橋城の石垣部分(左)と復元図(右)

  さて、利根川を挟んで対峙する古賀公方と上杉連合軍が争う享徳の乱。
  この時代上野中央部に勢力を張る長野氏の重要拠点は何所であろうか?
  さほど考えなくとも、厩橋や大胡があげられると思うゆえ、一揆の旗頭である入道や為業が
  厩橋あたりに在陣するのは至極当然のように思えるが如何であろうか。

長野入道ってだれ? 長野と言えば石上氏 まえはし・みのわ・おおこ 20180609

長尾景仲と長野入道の時代(上野守護代と上州一揆旗頭)
高崎市史やWikiを基に編集したもの
  鎌倉公方足利持氏から古河公方足利成氏の時代に、長野氏の動きを示すものに
    「関東再興始当国長野入道於宿所長尾俊叟申出事
    (上野国長野入道の宿所において、長尾俊叟(景仲)は、関東の立て直し
     について申し出があった)
   という記事がある(県資5-松陰私語)。
   これは「松陰私語」の目録第五にみえるが、本文欠損のため具体的な内容は不明である。

    kagenaka001.jpg  松陰私語.png
  なお、別のところに
    「先年於長野宿所有御助言
    (先年、長野宿所において助言があった)
   との記述があり、同様のことを述べたものであろう。長尾俊叟とは白井長尾景仲のこと
   であり、文安3~5年(1446~8)当時の上野国守護代であった頃の様子と考えられる。
 

武蔵杉山城って憲房の叔父ちゃんが居たって本当? 管領奪還 2018.06.02

武蔵杉山城(埼玉県嵐山町杉山字雁城)
wIKIその他資料より抜粋して編集した物 宗春
  市野川左岸の山の上に築かれた山城である。築城主は不明。地元豪族の金子主水の築城
  によるとの伝承はあるが、文献資料にはあらわれない。従来、城の縄張りの観点から後
  北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもと
  づく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきた。

   sugiyamar01.jpg  sugiyamatyoukan.jpg
   左写真と縄張り図は余湖くんのホームページ様より

 「上州白旗一揆の時代 みやま文庫 図書 久保田 順一」を買ってきたので久しぶりに更新
  してみたくなった。一揆衆から上杉被官へと解説があったのが面白かった。宗春

  • 最終更新:2018-11-14 01:49:49

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