箕輪城と石上の里を探る

箕輪初心▲箕輪城№148【①石上寺:箕輪長野氏の最初の菩提寺】

   高崎市箕郷町東明屋に布留山石上寺がある。在原業平の
   草創と伝えられている。実際には文明6年(1474)に石上寺&八幡神社が造られた。
   石上寺は長野氏の菩提寺で箕輪城の鬼門に造られた。館あるいは城より、お寺を先に
   造る人はまずいないだろう。つまり、文明6年(1474)には既に、箕輪館あるいは
   箕輪城が造られていたことになると考えた。
   従って、私は箕輪城築城を文明6年(1474)と考えている。
   しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
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箕輪初心▲箕輪城№149【②来迎寺:長野氏の寺】

   来迎寺は高崎市浜川町にある時宗の寺である。長野氏累代の墓と伝えられる
   墓石群がある。五輪塔・宝篋印塔合わせて35基?が並んでいる。
  ※来迎寺の墓石は1380年以降のものである。

   室町時代に長野氏の信仰をうけた。長野一族の隆盛と共に栄え、
   永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃によって箕輪城が落城した。
   これによって衰退した。長野氏が滅亡して後、畑の中に崩れ落ち埋没していた。
   大正12年の墓地整備の際に発掘された。
   近くには、北北東150mに乙業館&南南東150mに隆業館 &北西150mに
   長町館が南東100mに高田館、約300mに矢島砦などがある。

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長年寺 
箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
曹洞宗室田山長年寺

  ・明応2年(1492)長野伊予守業尚が建立。 長年寺を開基?
                    (★「長年寺縁起ならび由来記:高崎市史4」
  ・文亀元年(1501) 曇英恵応が入寺
                    (★日本洞上諸祖伝等)

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                      余湖くんのホームページ様より
  ◆室田長野氏と鷹留城を語る
   平成26年(2014)11月9日(土)、群馬県高崎市榛名町下室田の曹洞宗:長年寺で
   久保田順一先生の【室田長野氏と鷹留城を語る】の講演会があった。


箕輪初心★箕輪城121【長純寺】=長野業政の木造&供養塔&箕輪亭(きりんてい)

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  ★金富山実相院長純寺
   金富山実相院長純寺は高崎市箕郷町にある曹洞宗の寺院である。
   箕輪城主長野氏の菩提寺である。
   箕輪城主:長野業正公の墓や木造がある。・明応六年(1497)長野

   業政の父:長野信業が現高崎市箕郷町上芝(水草)に創建した(伝)。
   現在の箕郷町下芝の第五保育園付近である。しかし、明応6年(1498)長純寺が
   榛名白川の洪水で流出した。

善龍寺 
箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩

   善龍寺は高崎市箕郷町生原にある。長野業正が先代:長野憲業と碓氷峠の
   戦没者慰霊のために顕山敬応を迎えて開山した。神明山 善龍寺を創立した。

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 ●善龍寺の内藤塚:高崎市指定史跡    五輪塔は寺の南にある。
  「永禄九年(1566)箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理之亮昌豊に
   領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改号させ再建に当たらせた。

  昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に出陣して戦死した。
  時に天正五年五月であった。

  長野氏を滅ぼしてくれた、いわば憎き武田であるが、是非もなし。
  その後供に戦い供に散って行った事であろう。かえって昌豊公には
  親近感を覚えるのはなぜだろうか・・・

十二家客分大身小身知行地方持衆(高家) 青柳治部正金王忠家 滝沢寺と万福寺
  • 滝沢寺(曹洞宗大嶽山検点院滝沢寺) 
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   入口右手の白い蔵は、滝沢寺の巡り経蔵といって高崎市指定重要文化財になっている。

  • 万福寺墓碑 (天台宗下柴山竜学院万福寺)
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 ●万福寺の宝塔・・・ ・高崎市指定史跡
   これは万福寺歴代のご住職の墓碑と聞いている。ふつうお寺のもっとも奥まった位置に
   立てられるそうだが、青柳一族の方に聞いた話では、そのさらに後ろの奥まった所が
   歴代青柳家の墓所だと云う。


  ★永禄9年(1566)長野業盛の子:亀寿丸は和田山の極楽院
   (箕郷町西部病院南西1km)に家臣に連れられて避難した。
   亀寿丸(永禄6年説2歳・永禄9年説では5歳)は、後に鎮良と名乗り、
   極楽院2代目の院主となった。

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   2つの極楽院のさかさ梅伝説
   1.永禄6年(1563)2月26日、・・・実際は永禄9年(1566)箕輪城の落城時
    家臣:藤井忠安・阿保清勝・矢島善兵衛友房らに連れられ箕輪城を脱出した。
    この時、2歳であった。実際は5歳である。

   2.業盛の家来藤井孫蔵忠安、青柳弥左衛門忠勝らが護衛して、暗夜に乗じて城を
    脱出し落ちのびたのです。それに、菅谷城主長野吉業の丸千代御前も付き添いました。
 

 ◆金龍寺
箕輪初心★箕輪城№122【金龍寺】=長野業政の鉄砲方:町田兵庫賞賛碑

 ◆金龍寺=長野業政の鉄砲方:町田兵庫賞賛碑

   大田山良悟院金龍寺は、群馬県高崎市箕郷町にある寺である。
   長野業政の家老:下田邸(=現箕郷支所)の隣にある。
   寺伝では、金山城主:由良国繁の創建であると言われている。
   箕輪城の城主:長野氏の有力家臣:町田兵庫の賞賛碑もある。
   しかし、由良国繁の菩提寺とあるが、私には未だに謎である。
   太田の大田山金龍寺とどんな関係があるのであろうか?

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  ●四ッ谷バス停・・・★バスだとここで降りる。前が金竜寺である。
  ★四ッ谷・・・井伊直政が付けた徳川流の地区名である。

 ◆龍門寺
箕輪初心★箕輪城117【長野家侍大将:安藤九郎左衞門】
 ◆安藤九郎左衛門の墓:菩提寺「龍門寺」

  ★永禄4年(1561)、長野業政が病死した。武田信玄による上野
   =西上州攻撃が本格化した。永禄9年(1566)、武田信玄の先手:那波無理之助(宗安)
   が高浜砦(高崎市旧榛名町)を攻め落とした。長野家の家臣:安藤九郎左衛門勝道は、
   那波宗安の進軍を食い止めるために兵百を率いて箕輪城から出陣した。

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   上州治乱記巻之三には、「然る所に、箕輪より安藤九郎左衛門、百騎ばかりに助け来り
   白岩山にて、那波と大いに戦ひ、三度まで敵を追崩し、深入りして安藤終に討死にす。

   直垂の裏に血にて一首あり。

  『老いの身は 何国の土に なるとても 君が箕輪に  心留まる』

   是を見る人、感賞せずといふことなし。  (★箕郷町誌の近藤義雄先生P1158)

  • 最終更新:2016-12-10 23:45:16

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