箕輪城の歴代城主・城代

 

 ◆初代箕輪城主:長野業尚(なりなおひさ・尚業とも) (?~1503年)
箕輪初心●箕輪城シリーズ④「長野業尚と箕輪城築城説」
  ※応仁の・乱関東では享徳の乱で戦国時代に突入した。
  ★箕輪初心私見・・・「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性もある。」
   理由は下記で説明したい。写真は、蔵屋敷下の三の丸から発掘された長野時代の遺構。
   つまり、本郭堀が2ヶ所で発掘されたことにより、今の本丸の形と違う変形三角形と
   判明した。サングラスの田口先生(現高崎市教委)に説明をいただいた。

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 ◆2代目箕輪城主:長野憲業 (のりなり)    (???~1530年)
箕輪初心●箕輪城シリーズ⑤「箕輪城2代:長野憲業(=信業)」
  ※長野憲業=信業説&父子説がある。
   文亀3年(1503) 長野業尚が死亡、長野憲業が家督を継承。(★みさとの歴史)
  ★長野尚業:業尚の長男である。:長野憲業である。系図によっては、
   ①長野憲業=信業説&②父子説がある。①の長野憲業&信業父子説では、
   永正11年(1514)長野憲業が討死し、家督は弟:長野信業が継いだとする系図である。
   しかし、通説は享禄3年(1530)吾妻の戦いで長野憲業がで戦死し長野業政40歳?が
   家督相続したとする。何れにしても長野憲業が箕輪城を居城としたことは間違いない。

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 ◆3代目箕輪城主:長野業政 (1490~1561年)
箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を悩ませた人物

  ★長野業正の人物像は、非常に想像し難い。唯一残っている文書は、天文3年(1534) に
   長野業政が榛名神社の春祭りに禁令を出したのが長野業正の唯一の古文書である。

   小説に表れた長野業政は全て、虚構?あるいは、偶像であるにしても、凄い人物である
   武田信玄は長野業正を味方に引き入れようとした。でも、味方しなかった。武田信玄は
   「長野業正一人が上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ。」
   と嘆いたと言われる程、長野業正は武田信玄をてこずらせた。
   長野業正の死を知ると、武田信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然だ。」
   と述べたという。軍をすぐに上野に向けたという。

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   武田信玄は3年後に箕輪城を攻略した。攻略に9年もかかったのだ。
   長野業正は確実に上州の最大有力武将であったことには間違いないのだ。
 

 ◆4代目箕輪城主:長野業盛  (1544~1566年)
箕輪初心★箕輪城136【長野氏業=業盛】:永禄9年箕輪城落城。

  ・天文3年(1534) に、長野業政が榛名神社の春祭りに禁令を出したのが
   長野業正の唯一の古文書である。
  ※????年 里見義樹=石井義樹を養子にしたのかもしれない
  ・天文13年(1544) 長野業政の子として生まれた。
   父:長野業正
  ★母:保渡田氏腹とある系図もある。
   幼名は松代。新五郎、左衛門大夫、左京亮、右京進、信濃守、弾正忠である。

  ★永禄9年(1566)、武田信玄の攻撃で箕輪城落城。長野業盛は持仏堂に籠もり

   辞世は「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」

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   または「陽風に 氷肌(むめ)も桜も散り果てて名のみ残れる みわの郷かな」
   と詠み、自刃した。


   『地域文化233「みのわの歴史」』栗原修著・『戦国期上杉
  ・武田氏の上野支配』栗原修著2010年5月初版400部:
   岩田書院18000円には、武田氏の領国支配についての詳細が掲載されている。
   特に、箕輪城の武田時代16年の発給文書が詳しい。
   ①春日弾正忠+(真田幸綱+甘利昌忠+金丸虎義)の時代の歴史史料をまとめてみた。

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                        春日弾正忠 

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑬6代「甘利昌忠」
   箕輪初心:私説箕輪城主第6代:甘利源左衛門尉昌忠(→信忠) 
   天文2年 (1533年)~永禄10年(1567年)?4説あり?   
   「武田24将の一人で、信濃・上野攻略戦で活躍。騎馬100騎持の侍大将。」
  ★箕輪初心私見
   ・・箕輪城在城・・永禄9年(1566)9月29日~永禄10年(1567)3月7日まで?
   箕輪城の戦後処理のため、甘利・金丸・曽根が城番として残ったと思われる。

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                  上田原の戦いで散った父虎泰 NHK風林火山より

箕輪初心:●箕輪城シリーズ⑭「第7代真田幸隆(幸村祖父)」

  ■永禄10年(1567)3月8日 信玄が真田幸隆・信綱の白井城攻めをほめて、
   箕輪城の普請と知行割りを行うように指示。(秋本先生・群馬県地域文化233栗原修)
   「長野業政に義理がある武田24将の一人。」

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箕輪初心●箕輪城シリーズ⑯「第8代:浅利信種」
箕輪初心:生方▲箕輪城197●『武田氏の箕輪領支配』②浅利信種
   浅利信種の軍装は飯富虎昌の赤備えを受け継いでいた。
   「武田24将の一人で、信濃・上野攻略戦で活躍。騎馬120騎持ちの侍大将。」
   浅利氏は甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)に拠った
   一族で、信種の系統はその後裔のうち甲斐浅利氏と呼ばれる一族である。
  ★箕輪初心私見
   「箕輪城在城期間 永禄10年(1567)10月?日~永禄12年(1569年)10月

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箕輪初心:●箕輪城シリーズ⑰「第9代:内藤昌豊」
箕輪初心:生方▲箕輪城198●『武田氏の箕輪領支配』③内藤昌豊関係の古文書史料
  ●内藤豊後守昌秀の歴史
   「武田24将の一人で、信濃・上野攻略戦で活躍。騎馬250騎の侍大将。」
  ★箕輪初心私見・箕輪城在城期間 永禄12年(1569)10月?~天正3年(1575)5月

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   萩原のおじいちゃんのご先祖様は、木部50騎の内藤相備えで長篠へ出陣して行った。
   はたして帰ってこれたのであろうか?そんな思いをよそに陽は沈んでいった。

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑱「第10代内藤昌月」
箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配④不在時代、⑤内藤昌月~⑥北条家臣:内藤昌明】
  ■天正3年(1575)5月~天正5年(1577)まで
  ★箕輪初心私見「後継者選定が遅れ、箕輪城主が不在。瀬下(富岡高瀬)が城番では?」
  *天正3年(1575) @跡部大炊守奉書→瀬戸神十郎への書簡
   箕輪に在城命令。箕輪城主の名前と花押がない。(群馬県地域文化233栗原修)

  ・天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い・・三河国長篠城(現愛知県
   新城市長篠)で織田信長徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000
   戦うことになった。内藤昌秀は戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言。
   受け入れられず出撃した。内藤昌豊が戦死。壮烈な戦死。享年54歳。
   保科千次郎(昌月)が内藤昌秀の養子として、内藤家の家督を継承した。
   しかし、2年間は箕輪城は城代はいなかった。城番衆と番手衆はいた。

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   (★箕輪城)            (★保渡田城本郭・・公民館)
 

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑲「第11代:滝川一益」
   箕輪初心●箕輪城を人質の収容所にした滝川一益

  @天正10年(1582) 天正壬午の乱
   2月   滝川一益は織田信長に佐久・小県2郡を支配。信長より名馬を拝領。
   3月   滝川一益は、北条氏邦を追撃。
   3月下旬 滝川一益が箕輪城に入城。(織田氏)1か月入城管理。仕置きを実行。

   戦国時代にあって、この男は勇猛を馳せ一軍の将を仰せつかった。がしかし
   その男の想像を絶する事態が、この地を襲った。つう顔だねこれ!
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   写真は、初ボランティアの女性2人。   NHK大河 真田丸より

箕輪初心■箕輪城シリーズ⑳「第12代:北条氏邦」

   箕輪初心■「第11」代:藤田信吉=北条氏邦」
  ※写真は三の丸入り口=北条氏時代の石垣か?
  ★初めてのボランティアガイド・・・この方達も「歴女」と呼ばれる方なんだろうか?

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箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」

   箕輪初心■箕輪城「第13代:猪俣邦憲・・・豊臣秀吉の小田原城攻撃のきっかけ」
  ■天正15年(1587) 箕輪在番猪俣邦憲(沼田城と兼任)は林に命令
   「真田との戦闘態勢を強化せよ。」(唯一の文書)
  (※写真は、第7回箕輪城祭りの本丸入り口)

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箕輪初心■箕輪城シリーズ22「第14代:北条氏邦」

箕輪初心■箕輪城シリーズ23「第15代:多米長定」


箕輪初心■箕輪城シリーズ24「第16代:垪和信濃守」

箕輪初心■箕輪城シリーズ26「第17代:井伊直政」
  箕輪初心■「第17代:井伊直政」
  ・天正18年(1590) 井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
   {箕輪城の歴史・・・箕郷町教育委員会の冊子より}
   徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城・・・北関東支配の拠点?
  ★箕輪初心私見・・・「特に真田・上杉対策ではないだろうか?」
  ★箕輪初心私見・・・「井伊氏の時代に城の拡張工事(堀の深さ10m・3の丸と本丸へ
   の橋・二の丸と大堀切・2006年発掘の門・郭馬出・木俣・水曲輪・法峰口など)を
   したのでは。・・・・城下町が箕輪小の南に細長く、発展しているから。」
   (箕輪初心作成・・・参考:山崎一氏の立体模型・秋本太郎氏作成の鳥瞰図

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  • 最終更新:2016-09-09 00:18:41

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