箕輪城の歴史

箕輪城の歴史

  • 箕輪城の歴史・・・箕輪初心●箕輪城シリーズ②「箕輪城の歴史概略」 より
◆箕輪城は、文明8年(1477)応仁の乱が終わった頃から明応6年(1497)頃の間に、高崎市の浜川にいた長野業尚かその子信業(憲業)が築城したと言われている平山城です。現在の城跡は井伊氏の時代の遺構だと考えられています。

 ここでは、長野氏のルーツや業政に至るまでの歴史、長野氏に関する地域の史跡・城館などを探っていきます。

  1. 近藤先生は「1190年に石上=長野氏が国衙領に入ったが、鎌倉時代に無用の長物になり、東山道ぞいの浜川に館を作って、・・安全な場所:鷹留城→箕輪城を造った。」という説を述べた。
  2. 山崎一先生は、古城の研究で、「高崎浜川の寺内館→乙業館→隆業館→鷹留城→箕輪城」と考えているようである。
  3. 高崎市史では「長野氏は、大胡長野氏を含め4つの流れがあった。」という。
  4. 山田邦明氏は「大永7年(1527)、箕輪城に長野方業が在城した。(上杉文書)」と発表した。この説を受け、飯森先生は、4つの流れのうち、「名前&押印から、長野方業(まさなり)=長野業政(なりまさ)であり、厩橋(前橋)長野氏が本流となった。」というような説明をされていた。
  5. 久保田先生は、「長野郷は上野国最大の摂関家:藤原氏の荘園であり、石上氏=長野氏は交通の要所:現在の箕輪城の東近くを本拠とした。結果的に浜川は長野郷の一部で、鎌倉時代に長野氏は御家人となった。室町時代に所領が上杉家に没収された。危機的状況から脱出し、復活した。」という説を展開している。
  6. ※諸先生方、もし、説に間違っているようならば、お知らせ下さい。
箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田 より

古代上毛国と石上氏・・・「上毛かるた」の中に「昔を語る多胡の古碑」があることは、上州生まれの人にはなじみ深く知れている。さて、この碑文について戦国期の連歌師宗長は、その記録「東路の津登」にて「長野氏の姓は石上であり、多胡碑に見える石上尊がその祖である」と語っている。

阿保親王と在原業平 ・・・「上野長野氏の研究」のところにある、石上氏については古墳時代にさかのぼって上野との係り合いを見てきた。では以下におさらいを載せてその後、在原業平について調べてみよう。 
 
 
  
  • ここでは長野氏の出自や歴史に関することを、長野業政登場以前の事を取り扱う。
  • それと長野氏に関する史跡城館もここで取り扱う。長野氏以外のものは、各城主・城代の時代で取り扱うか、別枠の史跡・城館編にて取り扱う。別枠のものは、本サイトに乗せた全項目を掲げる事とする。

  • 最終更新:2016-06-08 23:49:43

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