結城合戦
◆結城合戦(ゆうきかっせん)
(Wikiと初心師のサイトより編集してまとめたもの)
永享12年(1440年)
関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。
結城氏朝が足利持氏の遺児:春王丸、安王丸を擁して挙兵した。
足利幕府は、上杉憲実に出陣を命じた。
足利持氏の自害の図(結城合戦絵詞より) 縄張り図は余湖くんのホームページさまより
●結城合戦時の長野氏の活躍
・永享13年(1441) 『結城戦場記』
「上州一揆分取頸・・・
長野周防守・長野宮内小輔相討頸・・
不知名字多賀谷彦太郎頸・臼井五郎頸、彼の二ッは、
長野左馬助取之・・・」
※久保田先生・・・一揆は武士のものであり、「強い者に就く。」
というものである。百姓一揆は後のもので、命のやり取りを意味していた。
★思わず、そうなのか?
●結城合戦時の10代:里見家基とは?
箕輪初心●里見一族シリーズ③「4代義秀~10代家基」 より
・小原郷の管理45年(1396~1441)・・・・佐竹氏と連携。
・結城の合戦・・・足利持氏の子ども2人が下総国結城(茨城県結城市)
結城氏朝 VS 幕府・上杉氏
結城方・・・下野の宇都宮氏・常陸の佐竹氏・小田一族の筑波氏、
上野の岩松氏などが参加里見修理亮家基も鎌倉公方側近の
奉公衆であったが、里見家基(いえもと)
上杉方・・・安房・上総越後などの軍・下総の千葉氏・幕府軍。
関東全体を巻き込んだ8ヶ月に及ぶ戦いは、結城城の
落城で足利方が敗戦。
足利持氏の遺児:春王丸・安王丸方についた里見修理亮家基の討ち死に。
→結城氏朝と里見家基が戦死。
・・・長男:里見義実は常陸太田城の佐竹に逃亡?
○家基は永享の乱で鎌倉で討死した刑部少輔説
○結城合戦で討死した修理亮説。・・・2説あり。
○結城の合戦の終結 長野周防守・宮内少輔・左馬助等が活躍、「守」がつくので本家筋。
- 永享7年(1435年)
鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領上杉憲実が対立した。
- 永享10年(1438年)
永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍足利義教が実子
を鎌倉公方として下向させようと画策する。
- 永享12年(1440年)
持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、
室町幕府に対して反乱を起こす。
幕府方は総大将上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のた
めに派遣して、12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。
結城氏朝は敗北し討死、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景
によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。
●合戦その後
戦火は鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火し、持氏の叔父でありながら永享の乱
で幕府側に寝返った篠川公方足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれ、翌年には京都
において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍義教が家臣の赤松満祐に暗殺された
(嘉吉の乱)。
文安3年(1446年)に関東諸将の要請で持氏の遺児成氏の鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活
したが、成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。結城合戦は永享の乱の延長線上
の出来事であるが、合戦の規模は永享の乱よりも大きい。
結城合戦を描いた『結城合戦絵詞』も存在する。
なお、読本『南総里見八犬伝』は父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、
死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。
- 最終更新:2017-03-13 15:34:04