結城城
◆結城城
(Wiki最終更新 2017年2月10日 より本サイト内に取り込んだもの)
小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に
補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。
足利持氏の自害の図(結城合戦絵詞より) 縄張り図は余湖くんのホームページさまより
結城城は結城市役所の北東600m、田川に近い比高7mほどの広大な台地東北端部を
利用した城であった。城は堀で区画された5郭ほどから成っていたらしい。しかし、
それぞれの郭はとても大きく、現状から見ると実に大雑把な造りの城ということになる。
しかし本来はもっと細かい区画があってもいいはずで、実城と呼ばれる部分も、実際
にはもっと細かく区画されていたのかもしれない。
- 永享12年(1440年)
永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗
を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗し
たが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時
没落することとなった
- 文安4年(1447年)
足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が
旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用
いられた。
小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康
が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。
- 最終更新:2017-03-13 17:32:07