群馬の古墳時代

群馬の古墳時代

群馬の古墳時代・・・「しのぶ毛の国ふたご塚」これにあるように群馬県は、東国において有数の古墳文化を誇る県である。神話の昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、遠征の帰りに失った妻のことを思い出しては、東の方を向いて嘆き悲しんだ。そして、碓日坂においてその東側の土地を「吾嬬(あづま)」と呼んだと云う。後になって東海道足柄峠、東山道碓氷峠の坂より東の地域を「坂東(ばんどう)」と呼ぶようになり、蝦夷征伐の後方拠点としての役目を果たすようになった。

 景行天皇55年に彦狭島王(ひこさしまおう、豊城入彦命の孫)が「東山道十五国都督」に任じられた。しかし途中で没したため、子の御諸別王(みもろわけのおう)が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったと云う。これをもって、御諸別王が実質的な毛野経営の祖(毛野氏の祖)と考えられていて、上野国は佐位荘(さいのしょう)の権現山にあるお社に祭られた伝承がある。

 毛野地域は、のちに渡良瀬川を境として上毛野(かみつけの/かみつけぬ)と下毛野(しもつけの/しもつけぬ)に分けられた。そして御諸別王の後の時代には、朝鮮半島や蝦夷への軍事・外交に携わった、おおくの毛野氏たちの活躍が見知られている。

 また、東山道諸国の中にあって上野は信濃に次ぐ馬の産地であり、おおくの官営の牧が設置された。それゆえ軍事においても多く用いられ、古墳時代の乗馬姿の豪族を表現したとみられる騎馬埴輪(はにわ)も出土している。古き時代、この東の地に生まれた馬を巧みに操る武人たちの血は、やがて坂東武者へと受け継がれて行ったのである。

上毛野氏の歴史 

箕輪初心:生方▲群馬『豊城入彦命の子孫:上毛野氏の歴史』 より

  • 東国へ移った近江毛野氏は荒河刀辧―豊城入彦命と『日本書紀』に出てくる 系譜は次のようになる。豊城入彦命→八綱田命→彦狭島命→御諸別命→大荒田別命→上毛野君→(分家の車持の君)となる。
    • 太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系
    • 前橋大室古墳を中心に上毛野小熊の子孫系がその地域を支配した。上毛野氏族は朝鮮外交で活躍した。
    • 上毛野氏はヤマト王権の一員として外征に度々参加した。(★『日本書紀』)
    • 軍編成には上毛野全域に及ぶ支配権があった。(★ウィキペディア)

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1)毛野氏の系譜

  • ①磯城県主の支流で彦坐王と同祖:多芸志比古命→
  • ②○→
  • ③孫:豊城入彦命(能登国造の祖大入杵命)・崇神48年 豊城入彦命が東国に派遣された。(★日本書紀)墓は太田天神山古墳か?古墳の説明書きには豊城入彦命の子孫・・・そう書いてあった。

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(★赤城神社・・・豊城入彦命を祀る)

  • ④八綱田命(吉備氏族の祖:彦狭島命) 八綱田命の兄弟が能美津彦命→能登国造:彦忍島命(大矢命)? なお、彦狭島命=吉備下道系の祖:稚武吉備津彦命である。・景行紀55年 彦狭島(豊城入彦命の孫:群馬県の歴史山田武麿著)東山道15国の都督(かみ)任じられた。途中で死亡。・・・上毛野で葬られた。
  • ⑤御諸別命の父?
  • ⑥御諸別命 景行紀56年 御諸別命が東国に派遣され蝦夷を討った。(豊城入彦命のひ孫説:群馬県の歴史山田武麿著)★信憑性に欠ける。(★群馬県の歴史山田武麿著)

2)毛野氏族

  • 毛野氏族の分布 毛野は吉備の分流であることが分かってきている。毛野氏族の姓氏・分布など・・・
  1. 茅渟(ちぬ)地方・・・起源地である。和泉(いずみ)国の沿岸の古称。現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。
  2. 摂津・河内 (磯城・葛城)→近江→北陸道(能登)→信濃→毛野地方(上野・下野)に到る経路をとって、畿内から東国へ勢力広げた。
  • 大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族は両毛地方(上毛野・下毛野)の主要神社の祭神として大己貴命が祀られている。賀茂・三輪神社・・・渡良瀬川流域にある。★旧山田郡大間々~桐生である。(★尾崎喜左雄)毛野氏族の系譜は、三輪氏族を含む海神族の東国での支流分とみられる。旧山田郡大間々地区

  • ⑦上毛野氏の祖:荒田別(あらたわけ)・・御諸別命の子
    • 応神紀15年  荒田別は百済の学者:王仁(わに)を招聘し、百済に渡った。
    • ※荒田=新田を開墾した。 (★尾崎喜佐雄説)荒田別(あらたわけ)は「あらた」の読みから新田郡と関連づける説である。
 
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(★新田万福寺古墳) 台源氏館の近くで、新田一族の墓が後世に造られた。★新田郡衙も関係していると思われる

  • ⑧竹葉瀬:荒田別の子
    • 仁徳紀53年  新羅に渡った。弟:田道だけが渡って苦戦した。(★関口説)
    • 仁徳紀55年 弟:田道が蝦夷で戦死。(★『日本書紀』)
  • ⑨竹葉瀬2世
  • ⑩竹葉瀬3世
  • ⑪竹葉瀬4世
  • ⑫竹葉瀬5世:上毛野久比
    • 上毛野久比は呉(中国)に行き、権(はかり)を渡した。渡来系の上毛野氏は、豊城入彦命(第10代崇神天皇第1皇子)の5世孫:竹葉瀬(たかはせ)を祖と称している。
    • 「上毛野君(公)」→「上毛野朝臣」姓を称した。『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には「豊城入彦命5世孫・多奇波世君の後」と注記されている。支配権を象徴する天神山古墳の築造もこの頃と推測されている。

  • ●太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系
 
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 (★太田金山城から見た天神山古墳)  (★女体山古墳から天神山古墳を望む)
 

  • ●前橋大室古墳を中心に上毛野小熊の子孫系
 
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  • ⑬上毛野形名
    • 637年 蝦夷攻撃   妻の励ましの逸話・・
 

3)大化の改新と上毛野稚子(わくご)

  • ⑭上毛野稚子(わくご)
    • 645年 大化の改新
    • 中央貴族として奈良に戻って活躍した。★車持の君のよしこいらつめも采女に上がったかも?
    • 天智天皇2年(663)、上毛野稚子(わくご)は新羅討伐の副将軍として、新羅に渡った。
    • ①前将軍:阿曇比羅夫連・川辺百枝臣・上毛野稚子・間人連
    • ②中将軍:巨勢神前臣・三輪君根麻呂(大間々?)
    • ③後将軍:阿部引田比羅夫臣・物部連球磨・守君大石・大宅臣鎌柄

  • 白村江の戦い・・・海戦で百済&日本連合軍は、新羅&唐連合軍に壊滅させられた。
    • 王:豊璋は北方へ逃げ百済は完全に滅亡した。
    • 新羅に大敗した。
    • 倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が戦果を収めた。
    • 日本軍の生き残りは百済の亡民を保護して日本に戻った。その後も百済から日本への亡命者が絶えなかった。近江・上毛野の吉井などに多くの百済人が住み着いた。百済寺・多賀大社など。

  • ※防人・・新羅の来襲を恐れて。北九州に防塁を築く必要があった。・・・太宰府を守るための
    • ①博多湾の防塁 
    • ②大野城~水城~基い城の要塞&巨大防塁
 

  • ●防人の歌
    • ◇3567: 置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも
    • ◇3568: 後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを
    • ◇3569: 防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも
    • ◇3570: 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ
    • ◇3571: 己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間

4)国史『帝紀』と上毛野三千(みみち)

  • 天武天皇9年(680) 上毛野三千は国史『帝紀』を編纂した。
  • ⑮上毛野三千(みみち)
    • 下毛野氏・・・現栃木県佐野市・三かも・栃木市
    • 上毛野氏・・・
    • ①太田天神山古墳を中心に・・・上毛野久比の子孫
    • ②前橋大室古墳を中心に・・・・上毛野小熊の子孫、上毛野氏族は対朝鮮外交で活躍した。(★『日本書紀』)
    • 大野氏・・・・旧大間々
    • ※三輪族・・・旧大間々~桐生
    • 池田氏・・・・現玉村
    • 佐味氏・・・・藤岡
    • 車持氏・・・・旧榛名町・箕郷町
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  • その他の豪族
    • 長柄族・・・・館林
    • 朝倉の君・・・前橋の天川付近 前橋天神山古墳
    • 有馬の君・・・渋川八木原・有馬・渋川・子持・伊香保
    • 物部の公・・・倉賀野 浅間山古墳・鶴巻古墳
    • 佐野屯倉・・・高崎佐野
    • 緑野(みどの)屯倉・・・藤岡・鬼石
    • 碓氷の君・・・高崎八幡  
    • 磯部の君・・・安中
    • 坂本の君・・・安中市松井田
    • 新羅人・・・・吉井~下仁田
 
  • 天武天皇13年(684) 八色の姓
    • 1)間人・・・13人
    • 2)朝臣・・・50人
    • 3)宿弥・・・50人
    • 4)忌寸・・・11人

  • 第2ランクに朝臣に
    • 上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜りった。中央の中級貴族として活躍した。君姓から朝臣(あそん)姓に改姓された。
    • 部民は河内,伊賀,上総,近江,越前,越中,播磨,豊前など全国に分布している。(★古事記)
    • ほかに、群馬県は、胸方朝臣・綾君・坂本君なども朝臣になった。(★古代上毛野をめぐる人々:関口功一著 P110)

5)上毛野小足は吉備惣領

  • 7C末期 上毛野小足は吉備惣領として活動した。
    • 毛野氏族から出た地方の国造としては、上毛野国造、下毛野国造、針間鴨国造、浮田国造(及び能登国造)があげられる。
    • 下野国河内郡宇都宮の二荒山神社(宇都宮大明神)及び豊城入彦命を祭る示現太郎宮がある。
 
  • 8C  700年代
    • 743年 律令下で2文字、【上(毛)野国】となった。上毛野→上野となった。
    • 例・・・井→井伊(現浜松市)・・後井伊共保→井伊直政→井伊直弼

  • 上毛野小足・・・・従4位下陸奥守
    • 上毛野安麻呂・・・従5位下陸奥守
    • 上毛野広人・・・・陸奥按察使(718年)

  • 後半には
    • 上毛野馬良・・・・出羽介・出羽守
    • 上毛野稲人・・・・陸奥介に任じられた。蝦夷に対する活動が行われた。(★群馬県史通史編2P299)
    • 下毛野石代・・・副将軍、
    • 大野東人・・・・陸奥按察使兼鎮守府将軍・参議
    • 池田真枚・・・・鎮守府副将軍に任じられた。

  • 後に陸奥国の豪族に「上毛野陸奥公」や「上毛野胆沢公」等の賜姓がなされた。俘囚の多くが上毛野氏系の部民に多い「吉弥侯部」を名乗った。
    • 上毛野広人・・・蝦夷の反乱に遭い殺害された。
    • 上毛野宿奈麻呂・・・長屋王の変に連座して配流された・
  
  • 後は没落した。以後は、代わって田辺史系の上毛野氏が中核を占めるに至った。(★群馬県史通史編p303)

6)田辺史は上毛野公と改姓

  • 天平勝宝2年(750)  田辺史から上毛野公と改姓した。
    • 「田辺史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣らの祖、思須美(しすみ)、和徳(わとく)の両人、大鷦鷯天皇(おおさざき-、仁徳天皇)御宇の年、百済国より化来す。しかして言うに、おのれらの祖、これ貴国将軍上野公竹合(たかはせ)なりといえり。天皇、矜憐して彼の族に混ず。しかして、この書に諸蕃人(= 渡来人)というなり。」
    • ※田辺史→上毛野公
    • ※池原朝臣→住吉朝臣

  • 天平勝宝7年(756) 上毛野駿河は防人の歌を掲載された。
  • ◆上毛野の豪族の詠んだ防人(さきもり)の歌、上毛野牛甘が上毛野の豪族の歌を12首提出したが、4首が採用された。
    • 1)『難波道を 行きて来までと 吾妹子が 着けし紐が緒 絶えにけるかも』上毛野牛甘=駿河※国司4等官として、防人引率を任された。
    • 2)『我が妹子が しぬひにせよと 着けし紐 糸になるとも 吾が解かじとよ』朝倉益人※朝倉益人は前橋天神山古墳の主?・・伊勢崎那波まで中央に采女を差し出した。蝦夷への軍事物資輸送に携わった。
    • 3)『我が家路に 行かも人もが 草枕 旅は苦しと 告げ遺らまくも』大伴部節麻呂※大伴部は続日本紀で15人がなった。甘楽・邑楽など
    • 4)『ひなもくり 碓日の坂を 越えだにし 妹が恋しく 忘らえぬかも』他田部小磐前※池田部は『東国六腹朝臣』の1人である。『金井沢の碑』にでてくる「目頬刀自(くろめとじ)」の可能性もある。

  • 神護景雲元年(767)~承和8年(841)12回にに渡り、上毛野公関係は一族を連れて陸奥へ移住した。官位は従五位下~従8位。

7)坂上田村麻呂の東征

  • 坂上田村麻呂の東征
    • 延暦11年(791) 蝦夷東征、大伴弟麻(正使)呂+坂上田村麻呂(副使)に任じられた。
    • 延暦12年(793) 蝦夷東征、「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たした。
    • 延暦15年(796) 坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任する官職になった。翌年には征夷大将軍に任じられた。
    • 延暦20年(801) 坂上田村麻呂は蝦夷のあてるいを降伏させた。高崎に清水寺を建てた。(伝)
    • 弘仁元年(810) 「上毛野朝臣」を賜姓された。以降は朝廷の要職に就き、東国系氏族に代わり上毛野氏の中核をなした。
    • 弘仁2年(811) 上毛野朝臣穎人(かいひと)『 新撰姓氏録』の編集に関わった。
    • その後、上毛野公道信・上毛野公諸兄・上毛野公藤野・上毛野公赤子など男女7人が朝臣を賜った。★群馬県史通史編2P446)

  • 貞観3年(861)~寛平9年(897)上毛野朝臣滋子は従5位下→典侍 従3位で死んだ。
    • 清和源氏の祖:清和天皇の母:藤原明子(めいし)であり、藤原良房が外戚として摂関政治行っていた。
    • 上毛野朝臣滋子は皇太后明子の力で官位が上がって行った。

  • 平安時代 やがて、上毛野氏は中級~下級の貴族になっていった。
    • 康平5年(1063) 上毛野宿弥安国は備後じょう従7位上となった。

  • 12C 武士の台頭してくる頃、やがて、消滅したのか? 上毛野氏は歴史に見られなくなる。

◆参考図書・文献
・群馬県史通史編2
・榛名町誌
・箕郷町誌
・みさと散策:斉藤勲著

  • 最終更新:2016-05-29 22:33:55

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