藤岡市本動堂

藤岡市本動堂の青柳氏

  • 藤岡市本動堂の青柳氏
   さらに、本日分ったことだが、藤岡市本動堂に数件見られる青柳氏がある。
   突然たずねていったところ1軒目は収穫なしだったが、2件目で情報を得られた。
   どこの馬の骨とも分らないと、いかにも怪しいと思われると気付き、
   仕事にはまったく関係ないのですがと断ってから名詞を渡した。

   するとお上さんは、いろいろ教えてくれた。驚いたことに、信州青柳城城主青柳頼長が
   小笠原氏に誅殺されたとき、嫁さんが子供を逃がしてくれてたどり着いたのが藤岡
   だったらしい。総本家は現在東京在住で今も続いているとの事。訪ねた家は分家
   でも相当古いらしく、本家のお墓を守っていると話してくれた。
   また、50mほど南にいったところが屋敷跡ですぐ隣が墓地との事。

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   山名・藤岡辺りには、信州の武田氏系家臣たちが入植しているのでそれを縁に
   逃れてきたのであろう。大井氏とか滝沢氏とか・・・

  • 一ノ瀬冶部大夫・・・「長野県の歴史を探し求めて」ていぴす様より
   天正12年4月小笠原貞慶が、旧領であった青柳の地を回復
   しようと兵を進め立峠を越えて、一ノ瀬冶部大夫の居城である。

   東条城を攻落した。彼は城を逃れて青柳城へ入り、城主青柳頼長
   と協力して貞慶の軍に当たった。貞慶は兵を分けて青柳城を一方で押さえて
   他は麻績城を攻めたが、上杉氏の臣島津左京亮の援軍が来て麻績城東の戦いに
   小笠原軍大敗して退くのを青柳城兵もまたこれを挟撃したので、小笠原軍の
   武将岩岡泥兵衛を始め二木重次、多田淡路などの死傷者が多く、貞慶は兵を
   治めてようやく深志城に帰ることができた。

   この戦いに一ノ瀬冶部大夫を始め森惣左衛門・石崎九郎左衛門・石崎八郎右衛門
   ・倉下善左衛門・宮沢庄衛門・瀬原田佐門等の七勇士が勇戦した。

   これを青柳七騎と呼んでいる。

   冶部大夫の娘白梅姫は青柳頼長の室となり、白梅山花顔寺の開基
   であると言われている。

  • 藤岡の青柳様の奥様は頼長の室は、高遠城主の娘と言っていた
   当時お部屋様は複数だろうからなんともいえない。
   いずれにしろ嫡男以外にあった男子が、逃れて藤岡にたどり着いたのであろう。
 

  • 最終更新:2016-06-11 22:01:42

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