訓閲集

  • 訓閲集概要
 ・『訓閲集』(きんえつしゅう)は大江家と多田源氏に伝わったとされる軍学書。軍学流派の
  上泉流、源家古法で用いられた他、甲州流にも影響を与えた。
 ・後三年の役の際、勅命により大江家は源義家に対して『訓閲集』を伝えたが、後に代々小笠
  原家が相伝する事となる。
 ・上泉信綱伝の『訓閲集』巻四「戦法」の中の船戦の項に、「熊手、投げ鎌を用いる事、船戦
  の古法なり」と記述されていることからも、水軍において用いられる武器と認知されていた
  ことがわかる。また、『訓閲集』には、熊手の先だけを縄筒に取り付け、鉤縄のようにした
  武器が絵図に記されている。 また、唐に留学して中国の兵法『三略』を学び、それを
  『訓閲集』という120巻の書物に記している。 また、川中島の戦いにおいて、「上杉謙信が
  武田本陣に斬りかかり、武田信玄がこれを軍配団扇にて防ぐ」といった後世に広く知られる
  演出が記述されたのも、信綱伝の『訓閲集』が初見とされている。
 ・また、小笠原家の『源家訓閲集』の内容も陰陽五行的な占いの要素の方が強く、これが氏隆
  から信綱へ伝えられ、その子である秀胤から岡本半介に相伝されたため、この系統は陰陽思
  想の面が強いが、一方で、信綱から疋田豊五郎に伝えられた※疋田伝の『訓閲集』は実戦的要
  素の方が強い内容となっている。 ※著書:新陰流軍学『訓閲集』上泉伊勢守伝にて書籍化
 ・上泉信綱伝の『訓閲集』巻四「戦法」の夜戦の項に、「合詞定め置くべし」と記述があ
  る。上泉信綱伝の『訓閲集』巻十「実検」の中の、帰陣祝いの規式の法、の項に、「勝凱を
  つくることは、軍神を送り返し、奉る声なり」と記述されており、信仰的な面と繋がってい
  たことをうかがわせる。
 ・なお『訓閲集』の表記では、「えい」も「おう」も異なり、「曳」「叡」「王」の字を用い
  ており、また、軍神を勧請する際、「曳叡王」と記し、大将が「曳」と発した後に、諸卒が
  「叡王」とあげるとしており、声に関しては、「初め低く、末高く張り揚げる」と記してい
  る。 用例、JP様より
  • 構えというのは守りの固いところと、弱いところがあって、ぶっちゃけ相手を弱いところに誘ってる訳ですが、構えに拘って居ついてしまうと弱いところを打たれる時に応じられなくなります。構えの中に動きがあるのではなく、動きの中に構えがあるのです。ツイッターより



  • 最終更新:2018-10-27 14:17:18

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