赤岩城

  ◆赤岩城(群馬県邑楽郡千代田町赤岩字城山)
   赤岩光恩寺の東に高さ6m程の前方後円墳がある。
   その東北側と西北側に堀跡が残り、城はそこから東南に広がっていたが
   度々の利根川の洪水で殆ど消滅してしまった。
   佐貫太郎資綱の子次郎嗣綱ははじめ赤岩に居住して赤岩氏と称した。
   その子文治郎広嗣の時、青柳(館林)に移ったと言う。(群馬県古城塁址の研究)
   この文治四郎広嗣が館林の青柳に移った後、その裔綱政が青柳を名乗ったと思われる。

  ◆永亨十二年(1440)舞木駿河守持広は、上杉家臣長尾忠政に謀殺されてしまう。
   「持広の寄騎の侍赤井若狭守」は激怒し、長尾家中の士を多数討ち取るも、主君同様
   に討たれてしまう。以降、舞木氏・佐貫氏は衰退するが、赤井氏が最大勢力となった。

  ◆赤岩城は、鎌倉時代に佐貫太郎資綱は、佐貫城主(大佐貫館)であった。
   その子次郎太郎嗣綱は、赤岩に要害(赤岩城)を築き居住して赤岩氏と称した。
   その子の文治四郎広嗣は、赤岩城から青柳城に移ったという。
                         余湖くんのホームページ様より

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   追加写真 門前でポケモンを狩る子供たち、左下は門前に残るわずかな堀跡だが、すぐ
   上の写真と同じ場所です。下左の写真では、寺の裏にあるわずかな盛り土が確認できる。
   訪問時、お寺の植木の手入れをする地元の職人さんみ聞き込みをしたが成果は無かった。
   下手をすると千年前の話なので忘れ去られて当然と言えよう。残念だが・・・
写真・コメント追加 20160729 棟治

  ◆赤岩城は、現在の光恩寺が城跡で、周囲に土塁や空堀跡が残っているほか、
   境内北東に城山と呼ばれる大きな前方後円墳があり、物見台としていたようである。
   基本的には光恩寺境内を中心とした単郭方形居館であったのだろう。
   城山の上には、佐貫氏の後裔で館林城を築いたと言われている赤井照光の墓がある。
春の夜の夢様より

  • 最終更新:2016-07-29 18:49:13

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