車持君与志古娘(よしこのいらつめ)

車持君与志古娘(よしこのいらつめ)

箕輪初心:生方▲2015高崎『車持神社』&車持与志古娘の子:藤原不比等? より

  • 村一番の歴史教養人・佐久出身の箕輪城城番→高崎根小屋城城主の子孫友達のHT君が「藤原不比等の母は車持君だった。」と教えてくれた。Hしゃんの話がきっかけで『車持の君』・『娘:車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ) 』・『息子:藤原不比等』などについて調べてみた。車持与志古娘の子:藤原不比等はどこで生まれたのであろうか?相手は誰だったのだろうか?①孝徳天皇説、②天智天皇説、③藤原鎌足説があるが・・・。また、車持塚古墳の掲載は私だけである。福島さん、案内ありがどうございました。
 
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 (★イメージ写真TVより)         (★月波神社)
 

毛野氏の時代と豪族

  • ◆◆ 車持氏のいわれと群馬 ◆◆
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    • (★群馬の歴史)より
・下毛野氏・・・現栃木県佐野市・三かも・栃木市
・上毛野氏・・・①太田天神山古墳を中心に・・・上毛野久比の子孫
        ②前橋大室古墳を中心に・・・上毛野小熊の子孫
・大野氏・・・・旧大間々
※三輪族・・・・桐生
・池田氏・・・・現玉村
・佐味氏・・・・藤岡
・車持氏・・・・旧榛名町・箕郷町

 その他の豪族
・長柄族・・・・館林
・朝倉の君・・・前橋の天川付近 天神山古墳
・有馬の君・・・渋川八木原・有馬・渋川・子持・伊香保
・物部の公・・・倉賀野 浅間山古墳・鶴巻古墳
・佐野屯倉・・・高崎佐野
・緑野(みどの)屯倉・・・藤岡・鬼石
・碓氷の君・・・高崎八幡
石上部の君・・・むしろこっちが板鼻・八幡じゃないかなと?
・磯部の君・・・安中
・坂本の君・・・安中市松井田
・新羅人・・・・吉井~下仁田
 

  • ①車持の君は、榛名山の南麓一帯の、旧榛名・旧箕郷町など、高崎北部から東は榛東村までの支配者であったらしい。

    • 東国へ移った毛野氏は荒河刀辧→豊城入彦命の『日本書紀』に出てくる 系譜は次のようになる。豊城入彦命→八綱田命→彦狭島命→御諸別命→大荒田別命→上毛野君→分家の車持の君となる。
    • 車持の名は居住地の名ではなく職掌に基づく姓である。天皇に近侍として儀礼に出かける時の興の供御輿を担いだり、牛の越車を引いたりする時の管理=重要官僚ポストであったと考えられる。
    • 天皇の乗輿を製作、管理することを職業とした氏族である。職務を果すための費用を貢納する車持部であった。雄略天皇の時、乗輿を作って献納した功により、車持の姓を賜わった。車持氏は天皇と深く結びついた氏族であったと推測できる。
    • ★個人的には9牧を管理したり、1牧=総社の牛池(国府隣の輿用の牛を飼うための池)を管理していたりしていたと考えている
 
 
 
  • ②車持氏は、越(北陸)、および上野国群馬(くるま)郡、筑紫、摂津 の4地域に関わりが見られる。

    • 『和名類聚抄』は「久留末(くるま)」と訓んでいる。従って、この地域は『車の里』と呼ばれていた。
    • 群馬も『くるま』から由来している。近くには箕郷町善地『駒寄』には『群馬の松』が『車川』沿いにある。群馬発祥の地と伝えられている。
    • 下流の善地地区には『車持の君の子孫:勘解由』が善地入田(車川中洲)にいたと伝わっている。
    • 上野には9牧あったが、『治尾(はるお)の牧』3説のうち、中善地~下善地は治尾の牧だと考えている。東山道&国府に近いので最有力であると思う。
    • 大宝年間の藤原宮木簡でも、「桃井郷車評(くるまのこほり)」とある。平安時代中期の『上野国神名帳』には、従五位車持明神、正五位車持若御子明神がある。
    • 明治時代、群馬県となった。昭和時代まで群馬郡には久留馬村(旧榛名町高浜・本郷)・車郷村(くるまさとむら:箕郷町車川・浦川の西半分)があった。
 

 6つの『車持神社』

  • 6つの『車持神社』、ちなみに車持神社は中善地・下善地・白岩・高浜・本郷・十文字にある。

    • ◆①高崎市旧榛名町十文字に『車持神社』・・・創立年月日は詳らかではないが、上野国神名帳所收の従五位上「車持若 御子明神」は現在の車持神社である。当社は、車持公の遺徳を追慕し、縁の地に崇祀勧請したものと伝えられている。車持公は上毛野君豊城入彦命の後裔射侠君の末裔で榛名山東麓一帯を統治されていたことから、この地は車の里と呼ばれていたのである。雄略天皇の時乗輿を作り献上したことにより、車持の姓を賜り、以後子孫はこの地に居住し、善政を施したのでやがて地名にまでなったという。また、榛名神社には豊城入彦命を祀る国祖殿があり、神南備の山の榛名神社大神を合祀したものである。
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  ●石碑          祭神:火産霊命、波途夜麻混売命、車持公

    • ◆②高崎市箕郷町善地の月波神社の西の『車持神社の祠』・・・・安閑天皇元年(531) 月波神社が創建された。(伝)上野国神明帳には従4位下とある。『車持神社の祠』はかつては、『治尾の牧』の湧き水『治尾の泉』の上に建てられていた。上野国神名帳所收の従五位上「車持若御子明神」とある。隠居神であるという。
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    • ◆③『治尾の泉』・・・湧き水である。今は水神様:龍神様が祀られている。かつては、「車持若御子明神」が祀られていたという。※20m~50m離れた場所の出土品★治尾の牧&写真左が治尾の泉。
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    • ③の2・・・縄文前期・中期の土器が多い。縄目も着いている。黒曜石・・・今日は1個だけ。長野県男女倉からか?平安時代の須恵器
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    • ◆④『治尾の牧』・・・平安時代・・・天皇の牧は上野国の9あった。甲斐3、武蔵4、信濃16、上野9・・・計32牧。上野からは年間50頭の馬が納められた。『治尾の牧』は吾妻の羽根尾、渋川・吾妻旧東村付近という説があった。しかし、近くの地名から、牧場・駒寄・駒隠谷も地名が残っている。★泉から200m下流の滝の上の石碑・・・明治時代)また、治(ハレ)は山の尾根を表す意味であり、文書も残っている。
    • ④の2・・・ 「東西6丁50間、南北4丁42間・・・」、つまり650m×約450mとなる。現中善地~下善地の車川と浦川の間のV字型の地域となる。
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    • ◆⑤車持の君の子孫:『勘解由屋敷』善地入田・・・上野君:豊城入彦命の後裔:彦狭島君の末裔:車持公は代々榛名山の南麗の一帯の地を領地とされ、古くから「車の里」とよんだ。雄略天皇の時、乗輿を作って献納した功により、車持の姓を賜わった。子孫は「風の三郎」を名乗り、善地の地に住んだ。勘解由として、屋敷を善地入田に構えた。勘解由は国司が交代するときに、安全を管理する役目である。延暦年間・・坂上田村麻呂に三郎は蝦夷遠征に上野勢の総帥として従った。戦功により、「善知」の姓を賜った。やがて「善地」という地名となった。しかし、善知三郎は京に行ったきり戻らなかった。(★みさと散策:斉藤勲著)
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   (★車川中洲は今はない。・・・月波神社の100m程西か?)

    • ◆⑥群馬の松&十文字堰&十文字朝日の原・・・『豊城入彦命は、人皇第10代崇神天皇の長皇子で、東国統治の大任を帯び詔を奉じて遙かに東国に下向、上野朝日の原の地を相し、居城を築いて東国統治の根城とし、久しく統治されておったが、遂に此の地におかくれになったという。築城の際、此の地に用水の便がなかったので、北方久留馬川より新たに水路を開き、それを引いて飲料に供せられた。命は水神の加護を祈って御神木とし、一本の松をお手植えあそばした。この松こそ名勝「群馬の松」の起源である。』★しかし、非常に怪しい伝承である。
    • ⑥の2・・・十文字は榛名の軽石土が多く、農耕に適さない土地であった。長野業政の要請ににより、旧榛名町本郷の本郷景忠(★景忠寺は館)に頼み、後閑氏が開削に携わった。富岡丹生城の新田景純が、武田信玄の要請を受けて安中の依田氏のいる後閑城を攻め、依田氏を追い払って、新田氏が入城した。依田氏は安中の板鼻城に移ったが、新田氏は後閑姓を名乗った。この一部の後閑姓が榛名町の本郷に滞在し本郷氏とともに本郷堰を開削した。従って、1530年の長野業政の榛名の制札以降であることは疑う余地もない。弘治3年(1543) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町原山)を再建した。(★長純寺文書)★十文字堰=本郷堰(黒沢川)の旧榛名町十文字東地区から、長純寺堰を開設した。
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    • ⑥の3・・・●本居豊穎の句碑、本居 豊穎(とよかい)は本居宣長の義理の曾孫である。
    • 明治維新、東京帝国大学・國學院・東京女子高等師範学校などで国学の講師として招かれた。古今集の研究の大家である。
    • 明治後期・・大正天皇の皇太子時代には東宮侍講を勤めた。この頃、群馬の松に来た。 
    • 明治42年(1909 ) 文学博士号を授与された。孫:本居長世を後嗣とした。★しかし、本居長世は作曲家になってしまった。『七つの子』などが有名である。後日、沼津の時に、紹介したい。
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古墳と車持氏

  • 高崎市旧榛名の古墳・・・的場古墳群・本郷のしどめ古墳(車持氏の墓?)・高崎市七曲1・3・4号墳


  • 高崎市箕郷町の古墳・・・律令制の初期には、国司(長官=守)次官(介)は朝廷の任命された。上毛野氏の支流:車持の君は判官(掾)や主典(目)は現地の豪族を登用で採用されている。

    • 0)中善地の古墳・・・月波神社第1鳥居前円墳・・・径5m・高さ2m
    • 1)車持塚古墳=車郷第9号墳・・・ 下善地下ノ原 車沢山・・通称天神山、車持氏の墓である。「円墳・・・径30尺(10m)・高さ十二尺(4m)のである」と記載。実際には山の斜面で径15m×12m程、高さ4m程か?石室も現存する。
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 (★案内は箕輪城祭りの司会・シナリオなどの担当福島氏である)。「明治17年の発見御届」に埴輪が出土したとある。」近くに車川が流れ、車持神社もある。(★箕郷町誌)
    • 2)椿山古墳・・・西明屋春山170
    • 3)行人塚古墳
    • 4)上芝古墳=箕輪町3号墳=・・・松山寺境内鐘楼の東南20m★出土品は国立博物館1階に展示されている。
    • 5)和田山古墳群・・・田口先生発掘。青銅製の水瓶出土。
    • ◆保渡田古墳群も車持の君の勢力範囲である。

上毛野氏の歴史&車持氏

  • ⑭上毛野稚子(わくご)
    • 645年 大化の改新、中央貴族として奈良に戻って活躍した。
    • 天智天皇2年(663)、上毛野稚子(わくご)は新羅討伐の副将軍として新羅に渡った。
    • 白村江の戦い・・・海戦で百済&日本連合軍は新羅&唐連合軍に壊滅させられた。新羅に大敗したが、上毛野君稚子が戦果を収めた。

  • 車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)
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   (★イメージ写真)
  • 中臣(藤原)鎌足の妻
    • ①天智天皇より賜った:鏡王女
    • ②定慧&不比等の母:車持与志古娘と記されている、(★藤氏家伝) 記録ではこの2人だけである。
    • ③多分妻は系図上、上記以外9人の妻がいた。(★群馬県史通史編P53)
    • 斉明天皇5年(659) 藤原不比等(ふひと)が生まれた。通常は藤原鎌足の2男。文献によっては史(ふひと)と記されている。

  • ◆0『公卿補任』の不比等の項・・・※車持与志古娘説、「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」
    • ★ちなみに・645年大化の改新、大化の改新以来、藤原(中臣)鎌足は、日本の外交責任者の地位にあった。上毛野稚子(わくご)が大化の改新後、中央貴族として奈良に戻って活躍した。
    • ★となると、推測であるが、車持の君(公)も一緒について行った可能性もある。 何故なら、当時、「妻問(訪)婚(つまどいこん)」が一般的であった。当時は今の結婚と異なり、女性は実家にいて、男性がが女性の元に通うのが普通である。基本的には夜這いで・・・。娘はOKしても、万葉集に見られるごとく、娘の母親がNOであると結婚はできない。
    • 藤原鎌足が藤原で生まれ育ったとしたら、大和から上毛野は遠く、上野豪族の車持氏との縁はないはずである。藤原鎌足が来た記録もない。簡単には行けない場所である。従って、母が車持与志古娘であるとすれば、ヤマトに車持の君は行っていたはずである。
    • しかしながら、一方で藤原不比等の出身地が上毛野国である可能性も考えられる。幼少年期もしかしたら、上毛野国にいたかもしれない。名前は何と呼ばれていたのだろうか?田辺氏系上毛野氏と車持氏など東国の豪族達との関係がどういうものなのか、知る史料はは今のところないようである。
    • 藤原不比等に関しては群馬の多胡碑にその名が見える。(右大臣:正二位藤原(不比等)尊)

  • ◆1『大鏡』 ※天智天皇の落胤:藤原不比等説・・・藤原不比等は実は中臣鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。
    • 天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説が伝わっている。実際に生まれのは男子=不比等が生まれた。
  • ◆2『大鏡』によると藤原不比等は天智天皇の落胤であることになっているが、大鏡は「物の怪」も出てくる書物である。平安時代後期の作品なので300年後の作品であるので、信憑性は低い。
しかしながら、藤原不比等の母:与志古娘は中大兄皇子の采女で、母:国子(車持の君の妻)が差し出したという記録もあるらしい。
  • ◆3『興福寺縁起』・・・「母は鏡王女」とある。 鏡王女(かがみのおおきみ)と天智天皇の間に生まれた子であるとする後胤説があった。
  • ◆4『尊卑分脈』・・・「母は車持君与志古娘(よしこのいらつめ)」とある。
  • ◆5『帝王編年記』・・・天智天皇の御落胤と書かれている。(★ウィキペディア)

車持与志古娘

  • 車持与志古娘は孝徳天皇の采女として後宮にあがり、天皇の寵愛を受けて身籠もり、その後、藤原鎌足に下されたという話もある。定慧&不比等との母である車持与士古娘は采女である。
    • ★群馬の地方豪族である車持氏は、与士古娘をヤマト王朝に人質として差し出さなければならなかった。藤原鎌足が身籠もった采女:与志古娘を貰った可能性もある。

  • 幼少時代・・・藤原不比等が住んでいたのは、父:藤原鎌足の邸宅ではなく、田辺史大隅の家だった。大隅の家は山科で滅多に父に会うこともなかったと一般的には言われている。
  • 青年時代・・・藤原鎌足は長男:定を僧侶とした。次男:不比等を史(フミヒト:書記官)として育てた。★将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図があった。
    • 娘・水上娘・・天武天皇の后
    • 娘:五百重娘・・天武天皇の后
  • 定慧で11歳で留学僧として唐に渡り、23歳で帰国すると直ぐに変死した。お家騒動の元凶にもなりかねないので、暗殺されたであろうと多くの研究者がいう。

竹取物語と車持の君

  • 平安時代までは天智天皇落胤説=伝説はかなりの信憑性を持っていた。例えば、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人の車持皇子がいる。母が車持氏出身の皇子=藤原不比等がモデルとされる。竹取物語は日本最古の物語である、奈良時代の話で、作者が誰かは不明である。確かに成立は平安時代と【古典文学全集のはじめに】書いてあった。AUのTVコマーシャル「かぐちゃん&おとちゃん」のため、かぐや姫は平安時代の十二単を着ているイメージが強くなってしまった。

  • ●物語の概要・・・ひとりの老人が竹を取りに行くと光輝く竹があり、怪しく思って切ってみた。すると中には、小さなお姫様がいた。光はそのお姫様から出ていたの。このお姫様は老夫婦に育てられ、・・・やがて美しい女性に成長した。するとその噂を聞きつけて、たくさんの求婚者があらわれた。最期に5人の貴族が残った。5人は石作皇子、車持皇子(★古典文学全集では「くらもちの君)」、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂である。実在の人物は3人である。
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    • ①車持皇子(くるまもちのみこ)=右大臣:藤原不比等とする説。
    • ②納言大伴御行・・・伴大納言絵詞がある。
    • ③中納言石上麻呂=左大臣:石上麻呂
    •  ★長野氏の先祖という説もある。長野氏は石上寺。石上神社を祀る。在原業平の末裔でもあるという系図が2~3ある。

  • 車持皇子はかぐや姫から自分と結婚する条件として、東方海上にあるという「蓬莱の玉の枝」を取ってくるようにいわれた。しかし、車持皇子は出航せず、綾部内麻呂ら職人たちにそれらしきものを作らせ、帰航を偽装してこれをかぐや姫に献上した。竹取翁は本物だと思い込み、寝床の支度まで始めた。しかし、職人が報酬をもらっていないと訴え出たために偽物と判明してしまった。かぐや姫は職人たちには褒美を与えた。車持皇子は職人たちを逆恨みし、お仕置きしたという。
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(★古典文学全集)(★『全訳注竹取物語』上坂信男著:講談社学術文庫)

上毛野三千(みみち)

  • 上毛野三千(みみち)・・・天武天皇9年(680) 三千は『帝紀』国史の編纂
  • 天武天皇13年(684) 上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜った。中央の中級貴族として活躍した。部民は河内,伊賀,上総,近江,越前,越中,播磨,豊前など全国に分布している。(★古事記)
  • 大宝元年(701) 下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに『大宝律令』の編纂に関わった。
  • 大宝年間頃 藤原京(694~710)跡より発見された木簡には、「上毛野国車評(=郡)桃井里 大贄鮎」とある。献上された鮎は、美味しい魚である。鮎を傷つけないために鵜によって捕獲した。

  • 和同4年(711)多胡碑設置
  • 【銘文】
  弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
  良郡并三郡内三百戸郡成給羊
  成多胡郡和同四年三月九日甲寅
  宣左中弁正五位下多治比真人
  太政官二品穂積親王左大臣正二
  位石上尊右大臣正二位藤原尊
  • 【現代語訳】・・・朝廷の弁官局から命令があった。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を作り、羊に支配を任せる(★熊倉先生は羊を給ふ)。郡の名前は多胡郡とせよ。和同四年(711)三月九日甲寅。
    • 左中弁:正五位下多治比真人(三宅麻呂)による宣旨である。
    • 太政官:二品穂積親王、
    • 左大臣:正二位石上(麻呂)尊

  • ★1509年、宗長の『東路の津登』で、浜川の松田宅に泊まって長野氏の先祖なんだってねえ。と記した。左大臣:正二位石上(麻呂)尊

  • 『続日本紀』
    • 和同四年(711)三月六日 上野国甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美・片岡郡の山等の六郷を割いて、別に多胡郡を置く
    • 養老4年(720) 8月3日(9月9日))藤原不比等は死亡した。

  • 743年? 【上野】となった。
    • 天平勝宝2年(750)  田辺史から上毛野公と改姓した。
    • 延暦11年(791) 蝦夷東征、大伴弟麻(正使)呂+坂上田村麻呂(副使)に任じられた。
    • 延暦12年(793) 蝦夷東征、「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下田村麻呂は四人の副使(副将軍)のながら中心的な役割を果たした。
    • 延暦15年(796) 坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任する官職になった。征夷大将軍に任じられた。
    • 延暦20年(801) 坂上田村麻呂は蝦夷のあてるいを降伏させた。高崎に清水寺を建てた。(伝)
    • 延暦年間・・坂上田村麻呂に三郎は蝦夷遠征に上野勢の総帥として従った。戦功により、「善知」の姓を賜った。やがて「善地」という地名となった。しかし、善知三郎は京に行ったきり戻らなかった。(★みさと散策:斉藤勲著)

◆参考図書・文献
・古代上毛野をめぐる人びと:関口功一著
・群馬県史通史編2
・榛名町誌
・箕郷町誌
・みさと散策:斉藤勲著

















 

  • 最終更新:2016-09-15 23:59:12

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