過去のトピックス

どんだけ頑張って作ったんだろうね~~? ジオラマ  20160624

 ◆シティギャラリーのジオラマ・・・今日は休みだったので見に行ってきた。お目当ては
  残念ながら長野堰ではない、井伊直政以降と思われる江戸期以降の和田城ジオラマだ。

   ※平成28年(2015)6月24日~28日まで高崎シティギャラリ ー 急げ!!

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新五郎ちゃんは、父の言いつけをよく守った。頑張りすぎだよ・・・ 20160620

 ◆4代目箕輪城主:長野業盛  (1544~1566年)
箕輪初心★箕輪城136【長野氏業=業盛】:永禄9年箕輪城落城。

  ・天文13年(1544) 長野業政の子として生まれた。
   父:長野業正
  ★母:保渡田氏腹とある系図もある。
   幼名は松代。新五郎、左衛門大夫、左京亮、右京進、信濃守、弾正忠である。

  ★永禄9年(1566)、武田信玄の攻撃で箕輪城落城。長野業盛は持仏堂に籠もり

   辞世は「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」

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   または「陽風に 氷肌(むめ)も桜も散り果てて名のみ残れる みわの郷かな」
 

憲業・信業・方業 色々説があり 憲業=信業&方業=業政説が優勢 20160620

 ◆2代目箕輪城主:長野憲業 (のりなり)    (???~1530年)
箕輪初心●箕輪城シリーズ④「長野業尚と箕輪城築城説」
  ※長野憲業=信業説&父子説がある。
   文亀3年(1503) 長野業尚が死亡、長野憲業が家督を継承。(★みさとの歴史)
  ★長野尚業:業尚の長男である。:長野憲業である。系図によっては、
   ①長野憲業=信業説&②父子説がある。①の長野憲業&信業父子説では、
   永正11年(1514)長野憲業が討死し、家督は弟:長野信業が継いだとする系図である。
   しかし、通説は享禄3年(1530)吾妻の戦いで長野憲業がで戦死し長野業政40歳?が
   家督相続したとする。何れにしても長野憲業が箕輪城を居城としたことは間違いない。

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箕輪城っていつ頃造られた?色々説があって、こんがらがってます 20160620 

 ◆初代箕輪城主:長野業尚(なりひさ?・尚業とも) (?~1503年)
箕輪初心●箕輪城シリーズ④「長野業尚と箕輪城築城説」

  ※応仁の乱・関東では享徳の乱で戦国時代に突入した。
  ★箕輪初心私見・・・「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性もある。」
   理由は下記で説明したい。写真は、蔵屋敷下の三の丸から発掘された長野時代の遺構。
   つまり、本郭堀が2ヶ所で発掘されたことにより、今の本丸の形と違う変形三角形と
   判明した。サングラスの田口先生(現高崎市教委)に説明をいただいた。

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   確実に言えるのは、「1497年前には築城?1477年~1497年長純寺の間だ。」

地元だけあってどっかで聞いた事ある人多いけど、苦労したんだろうね  20160619

 ◆龍門寺
箕輪初心★箕輪城117【長野家侍大将:安藤九郎左衞門】
 ◆安藤九郎左衛門の墓:菩提寺「龍門寺」

  ★永禄4年(1561)、長野業政が病死した。武田信玄による上野
   =西上州攻撃が本格化した。永禄9年(1566)、武田信玄の先手:那波無理之助(宗安)
   が高浜砦(高崎市旧榛名町)を攻め落とした。長野家の家臣:安藤九郎左衛門勝道は、
   那波宗安の進軍を食い止めるために兵百を率いて箕輪城から出陣した。

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   上州治乱記巻之三には、「然る所に、箕輪より安藤九郎左衛門、百騎ばかりに助け来り
   白岩山にて、那波と大いに戦ひ、三度まで敵を追崩し、深入りして安藤終に討死にす。

   直垂の裏に血にて一首あり。

  『老いの身は 何国の土に なるとても 君が箕輪に  心留まる』

   是を見る人、感賞せずといふことなし。  (★箕郷町誌の近藤義雄先生P1158)
 

長野業盛の遺児:亀寿ちゃんは、家臣におんぶされて城を出た   20160619

  ★永禄9年(1566)長野業盛の子:亀寿丸は和田山の極楽院
   (箕郷町西部病院南西1km)に家臣に連れられて避難した。
   亀寿丸(永禄6年説2歳・永禄9年説では5歳)は、後に鎮良と名乗り、
   極楽院2代目の院主となった。

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   2つの極楽院のさかさ梅伝説
   1.永禄6年(1563)2月26日、・・・実際は永禄9年(1566)箕輪城の落城時
    家臣:藤井忠安・阿保清勝・矢島善兵衛友房らに連れられ箕輪城を脱出した。
    この時、2歳であった。実際は5歳である。

   2.業盛の家来藤井孫蔵忠安、青柳弥左衛門忠勝らが護衛して、暗夜に乗じて城を
    脱出し落ちのびたのです。それに、菅谷城主長野吉業の丸千代御前も付き添いました。
   ※両方に共通して出てくるのは、執権藤井豊後守の子息:孫蔵忠安。信憑性あり?

長野業政の鉄砲方:町田兵庫賞賛碑 この頃鉄砲?と突っ込まれそう 20160619

 ◆金龍寺
箕輪初心★箕輪城№122【金龍寺】=長野業政の鉄砲方:町田兵庫賞賛碑

 ◆金龍寺=長野業政の鉄砲方:町田兵庫賞賛碑

   大田山良悟院金龍寺は、群馬県高崎市箕郷町にある寺である。
   長野業政の家老:下田邸(=現箕郷支所)の隣にある。
   寺伝では、金山城主:由良国繁の創建であると言われている。
   箕輪城の城主:長野氏の有力家臣:町田兵庫の賞賛碑もある。
   しかし、由良国繁の菩提寺とあるが、私には未だに謎である。
   太田の大田山金龍寺とどんな関係があるのであろうか?

   永禄7年頃に、武田氏の改修を受けた和田城に大量の鉄砲が配備された。
   謙信の軍勢を追い払った。こんな話があるから、数十丁くらいは最低でも
   長野氏は、所有していたと思われる。

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  ●四ッ谷バス停・・・★バスだとここで降りる。前が金竜寺である。
  ★四ッ谷・・・井伊直政が付けた徳川流の地区名である。
 

長野氏はその昔石上(いそのかみ)を名のっていた。ゆかりの寺 20160618

箕輪初心▲箕輪城№148【①石上寺:箕輪長野氏の最初の菩提寺】

   高崎市箕郷町東明屋に布留山石上寺がある。在原業平の草創と伝えられている。
   実際には文明6年(1474)に石上寺&八幡神社が造られた。
   石上寺は長野氏の菩提寺で箕輪城の鬼門に造られた。館あるいは城より、お寺を先に
   造る人はまずいないだろう。つまり、文明6年(1474)には既に、箕輪館あるいは
   箕輪城が造られていたことになると考えた。
   従って、私は箕輪城築城を文明6年(1474)と考えている。
   しかも石上寺は、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。

  ※つまりだな、車を持ってないのに車庫つくったり、金もないのに金庫作るようなもの!
   更に言えば、尻を拭いてから○んこするようなものだ、完全に順番が違ってる。
   だから箕輪城(○んこ)を先に作り、鬼門にお寺を建てた(ふいた)。つうわけだ 棟治
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結構古い時代の長野氏ゆかりのお寺      20160618

箕輪初心▲箕輪城№149【②来迎寺:長野氏の寺】

   来迎寺は高崎市浜川町にある時宗の寺である。長野氏累代の墓と伝えられる
   墓石群がある。五輪塔・宝篋印塔合わせて35基?が並んでいる。
  ※来迎寺の墓石は1380年以降のものである。

   室町時代に長野氏の信仰をうけた。長野一族の隆盛と共に栄え、
   永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃によって箕輪城が落城した。
   これによって衰退した。長野氏が滅亡して後、畑の中に崩れ落ち埋没していた。
   大正12年の墓地整備の際に発掘された。
   近くには、北北東150mに乙業館&南南東150mに隆業館 &北西150mに
   長町館が南東100mに高田館、約300mに矢島砦などがある。

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長野家中興の祖、長野伊予守業尚と長年寺、だれ?この人    20160617

長年寺 
箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
曹洞宗室田山長年寺
   長尾景春が関東管領上杉顕定に謀反を起こしちゃった。今風に言うと3代目社長
   になれなかったので、やけを起こして親会社に反抗したってところかな。
   長野家内部にも似たようないざこざがあり、上杉顕定について活躍したので業尚は
   長野株式会社の社長に抜擢されたのであった。たぶんこう・・・自信ないけど 棟治

  ・明応2年(1492)長野伊予守業尚が建立。 長年寺を開基?
                    (★「長年寺縁起ならび由来記:高崎市史4」
  ・文亀元年(1501) 曇英恵応が入寺
                    (★日本洞上諸祖伝等)

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                      余湖くんのホームページ様より
  ◆室田長野氏と鷹留城を語る
   平成26年(2014)11月9日(土)、群馬県高崎市榛名町下室田の曹洞宗:長年寺で
   久保田順一先生の【室田長野氏と鷹留城を語る】の講演会があった。
 

長野業政が長純寺を再建、本郷堰より寺に水を引いた 20160617

箕輪初心★箕輪城121【長純寺】=長野業政の木造&供養塔&箕輪亭(きりんてい)

   明応6年(1498)長純寺が榛名白川の洪水で流出した。しかし我らの業政じいちゃんは
   頑張って箕輪城の南西、原山に再建したのだ。水も引いてくれた。

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  ★金富山実相院長純寺
   金富山実相院長純寺は高崎市箕郷町にある曹洞宗の寺院である。
   箕輪城主長野氏の菩提寺である。
   箕輪城主:長野業正公の墓や木造がある。・明応六年(1497)長野

   業政の父:長野信業が現高崎市箕郷町上芝(水草)に創建した(伝)。
   現在の箕郷町下芝の第五保育園付近である。しかし、明応6年(1498)長純寺が
   榛名白川の洪水で流出した。
 

十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)青柳金王忠家と滝沢寺・万福寺 20160616

十二家客分大身小身知行地方持衆(高家) 青柳治部正金王忠家 滝沢寺と万福寺
   青柳さんて長野と群馬にそのルーツがあり、どっちやねん?と思ってしまった。

  • 滝沢寺(曹洞宗大嶽山検点院滝沢寺) 
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   入口右手の白い蔵は、滝沢寺の巡り経蔵といって高崎市指定重要文化財になっている。

  • 万福寺墓碑 (天台宗下柴山竜学院万福寺)
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 ●万福寺の宝塔・・・ ・高崎市指定史跡    青柳家供養塔
   これは万福寺歴代のご住職の墓碑と聞いている。ふつうお寺のもっとも奥まった位置に
   立てられるそうだが、青柳一族の方に聞いた話では、そのさらに後ろの奥まった所が
   歴代青柳家の墓所だと云う。

武田四天王のなかで最も目立たなくて、身近な内藤昌豊公ゆかりの寺 20160615

善龍寺 
箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩

   善龍寺は高崎市箕郷町生原にある。長野業正が先代:長野憲業と碓氷峠の
   戦没者慰霊のために顕山敬応を迎えて開山した。神明山 善龍寺を創立した。

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 ●善龍寺の内藤塚:高崎市指定史跡    五輪塔は寺の南にある。
   「永禄九年(1566)箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理之亮昌豊に
    領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改号させ再建に当たらせた。

   昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に出陣して戦死した。
   「最早これまでにござる」時に天正五年五月であった。

   長野氏を滅ぼしてくれた、いわば憎き武田であるが、是非もなし。
   その後供に戦い供に散って行った事であろう。かえって昌豊公には
   親近感を覚えるのはなぜだろうか・・・
 

箕輪城主長野業政の娘婿 木部駿河守範虎 20160614

  ・永正7年(1510)?~天正10年(1582)
   箕輪城主長野業政の娘婿。
   「箕輪衆」の一員として長野業政の同心であった。
   長野業正は武田信玄の6回の上州侵攻を食止め続けた。

   今までの通説では、箕輪城落城後に武田氏へ臣従したとある。
   だが、どうやら違うようだ。永禄4年ごろにはすでに武田氏へなびいていた
   裏切ったのではない、頼れる主君を選んだのだ!それが戦国時代だ・・・

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棟治の戦国探求はここから始まった
  ・ミヤマクワガタと武田信玄・・・ふるさとでミヤマクワガタの事を
   「タケダ シンゲン」と呼ぶのは普通のことだったが・・・
  ・思いを伝える・・・以前書きかけてあった小説のようなものは、
   あまりに思いつきで書き始めたので続かなかった。 今度はがんばってみようと思い
   戦国当時を忍び、いろいろ調べて回っている。・・・
 

【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)+α 】 里見河内守宗義 20160612

里見河内守宗義・・・この方も里見一族であるが、安房里見氏とは別流であると云う。
   戦国中期、父祖の地に戻った2つ目の里見氏であったが・・・
   その歴史については、不明な点が多い。もしかして石井信房と大いに関係ありかな?
   114年の仁田山(仁田山城)を捨て、
  ・天文24年(1555) 現高崎榛名に手勢30騎で逃亡。
   長野業政の娘?を妻とする。
  ※長野一族の有力家臣の娘説(★里見義弘氏説)
  ・永禄5年(1562)雉郷城を修築
  ・永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃
   ①高浜城攻撃。
   ②雉郷城攻撃・・・高橋隼人正勝則が城代が守り。
   ③長谷砦・・
   ④箕輪城総攻撃→落城。
       ・・・里見宗義は自刃・討ち死に?

十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)筆頭 石井左京大夫讃岐守信房 20160612

石井左京大夫讃岐守信房・・・この人が里見義堯の次男だなんて、どこにも書いてないよね?
 まして長野業政の甥御で養子で、鷹留城主として武田勢とやりあったとか、ありえん?
             ~~~  中略  ~~~
  ◆戦国武将・石井信房
戦国武将・石井信房 「里見の郷再発見伝」発行人  中嶋 講二 (高崎市金井渕町)より

   長野氏は、関東管領上野国守護、山内上杉氏の下で台頭し、業尚(なりなお)が
   室田鷹留城(高崎市下室田町)を築きました。軍師、鷹留城主でもあった戦国武将
   石井信房(左京大夫讃岐守)は幼名を文悟丸、いみなを義樹(里見義樹)といいました。

   里見氏始祖義俊より16代目で房州稲村城主(館山市)の里見義堯(里見氏全盛期の大名)
   の次男で、母は箕輪城主・長野信業の娘。信業の子、業政の養子となり(長野信房)
   鷹留城主になりました。

業政ってその若い頃どんな活躍があった?    20160607

長野信濃守業政の登場・・・業政ってその若い頃どんな活躍があったかは、まったく知られていないのだ。だって記録が残ってないからなのだが、最近になって方業=業政と言う説があり、これを元に色々想像してみた・・・生誕から享禄の内乱まで
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得体の知れないスーパー爺ちゃん「長野信濃守業政」とは  20160603

  • 長野信濃守業政とは・・・もともと長野氏に関する履歴は知られていない。江戸時代の軍記物で、信玄を数度にわたって撃退したとか伝わっている。それって本当なのだろうか?しかしこれら長野業政について少しづつ明らかにされてきている。
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インターネットで検索したら出てきた画像「信長の野望」ではなさそうだ。感謝

  • ◆長野業正の生誕説は、以下のの4説がある。

  ①延徳2年(1490)説
  ②延徳3年(1491)説
  ③明応8年(1499)説
  ④永正10年(1510)説

  • ◆長野業正の父親説は、江戸時代に書かれた系図によって6通りが考えられる。

  ①長野憲業説、
  ②長野信業(憲業弟説)
  ③長野憲業=長野信業説、
  ④長野賢忠説
  ⑤厩橋長野顕業の子、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)
   つまり先代(長野憲業・信業?)の養嗣子と成って箕輪長野家を継いだ。
  ⑥長野憲業の養子:長野方業説がある。
   つまり、方業の子どもが長野業正であるとする説(黒田基樹説)である。

国衙の役人「石上氏」を探る  20150531

  • 多胡の碑と竹取物語りに見る石上氏・・・物語の概要・・・ひとりの老人が竹を取りに行くと光輝く竹があり、怪しく思って切ってみた。すると中には、小さなお姫様がいた。光はそのお姫様から出ていたの。このお姫様は老夫婦に育てられ、・・・やがて美しい女性に成長した。するとその噂を聞きつけて、たくさんの求婚者があらわれた。最期に5人の貴族が残った。5人は石作皇子、車持皇子(★古典文学全集では「くらもちの君)」、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂である。かぐや姫のお話
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群馬の長野氏って、あんま知られていないよね! 20150530

上野長野氏の研究・・・近藤先生は「1190年に石上=長野氏が国衙領に入ったが、鎌倉時代に無用の長物になり、東山道ぞいの浜川に館を作って、・・安全な場所:鷹留城→箕輪城を造った。」という説を述べた。「むかしを語る多胡の古碑」
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なんとかまとまったので、初トピックス! 20150529

群馬の古墳時代・・・「しのぶ毛の国ふたご塚」これにあるように群馬県は、東国において有数の古墳文化を誇る県である。神話の昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、遠征の帰りに失った妻のことを思い出しては、東の方を向いて嘆き悲しんだ。そして、碓日坂においてその東側の土地を「吾嬬(あづま)」と呼んだと云う。後になって東海道足柄峠、東山道碓氷峠の坂より東の地域を「坂東(ばんどう)」と呼ぶようになり、蝦夷征伐の後方拠点としての役目を果たすようになった。

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  • 最終更新:2016-07-17 18:39:39

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