金井沢の碑

金井沢の碑

  • 金井沢の碑・・・箕輪初心●群馬金井沢の碑=群馬の地名の由来、古碑は群馬県に4つある。

   ①山ノ上碑 ②金井沢碑 ③多胡碑 ④山上多重塔である。
    金井沢碑の碑文には、『神亀3年(726年)』に建立の銘があるので
    奈良時代のことである。
    また、『上野國群馬郡』とあるので、初の文字による「群馬」ということになる。
    そして、『下賛』(しもさぬ:現高崎市下佐野町)の朝廷の屯倉の関係者が先祖
    両親を供養する為に建碑した』とあるので、群馬への仏教の伝来が東大寺建立以前
    にあったことを意味している。→貴重な文化財なのである。
箕輪初心◆群馬「金井沢の碑=『群馬』の地名由来より 
 
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  • ■訪問記・・・平成20年7月? 金井沢の碑の場所は現高崎市山名町金井沢2334である。
   ・高崎駅方面から南西部の寺尾散策に出かけた。
    新田義重の築城の茶臼山城(伝)見学後、金井沢の碑に向かった。
    寺尾~藤岡線の金井沢川手前を右折した。
    金井沢川にかかる小橋を渡り、さらに金井沢川上流へ向かう。
    再び金井沢碑入口の案内がある。
    金井沢碑入口の案内と道が分岐する。
    トータルで、川伝いに500m程進むと、駐車場があった。10台ってとこかな?
    金井沢碑の覆屋があった。
    金井沢碑は覆屋の中にあり、ガラス窓越しに見ることが出来る。
 
  • ■「3月6日・・多胡碑シンポジウムP48より」

    【碑文】の写し・・・多胡碑博物館のパンフレット&高崎カルタ   
   上野国群馬郡下賛郷高田里
   三家子■為七世父母現在父母
   現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
   那刀自孫物部君午足次蹄※刀自次乙蹄※
   刀自合六口又知識所結人三家毛人 
   次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
   如是知識結而天地誓願仕奉
   石文
   神亀三年丙寅二月廿九日   
   (■は欠字  蹄の元の文字は「馬+爪」)  

    【銘文】・・・多胡碑シンポジウムP48より
   上野國群馬郡下賛郷高田里
   三家子■為七世父母現在父母
   現在侍家刀自■■(他田力=他男)君目■(=頬)刀自又児加(=加力)
   那刀自孫物部君午足次日 馬爪 刀自次乙■ 馬爪
       (※馬爪=ひづめ・・・で一字)
   刀自合六■又知識所結人三家毛人
   次知万呂鍛師礒ア君身麻呂合三■
   如是知識結而天地誓願仕奉
   石文
   神亀三年丙寅二月廿九日

    【読み方】
   上野国群馬郡(くるまごおり)下賛郷(しもさぬきごう)高田里(たかだのさと)
   の三家子孫(みやけのしそん)が、七世の父母現在の父母の為に、
   現在、侍(はべ)る家刀自(いえとじ)の他田君目頬刀自(めすらとじ)
   ・又児加那刀自(かなとじ)・孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、
    次に馬爪刀自(ひずめとじ)・次に馬爪刀自(おとめひずめとじ)の合わせて
    六■(ろくにん)、又知識(またちしき)結びし所の人、=三家毛人(えみし)、
    次に知万呂(ちまろ)・鍛師礒ア君身麻呂(かぬちいそべきみみまろ)、
    合せて三口、是(こ)の如く知識を結びて、しこうして
    天地に誓願し仕え奉る石文(いしぶみ)。
        神亀3年丙寅(ひのえとら)二月廿九日

    【現代文訳・・シンポジウム&多胡碑博物館】
   上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子■と他田君目頬刀自と
   その娘加那刀自が、孫の物部君午足ら3名を加えた計6名が行なう先祖供養の
   ための請願に、願主と同族3名の寄進者を加えて合計9人の人々が、
   神亀3年(726)2月29日に石碑を建てて神仏に誓った。
 
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   ・3月6日・・・「多胡碑のシンポジウム」
   ・3月7日・・・消化不良のため、上毛三碑をもう一度、調べ直した。
   ・3月8日・・・「高崎千年物語」(2011年3月1日の発刊)
    金井沢碑(高崎市山名町)・山上碑(高崎市山名町)・多胡碑(高崎市吉井町)
    の3古碑を総称して上毛3碑と呼んでいる。

■金井沢の碑の価値
   ①では、なぜ特別史跡なのだろうか?
    奈良時代の開始710年以前に建碑された石碑は日本中に約10例しかない。
    山上碑・多胡碑はそれに該当するのである。
    飛鳥時代に中国大陸の思想を取り入れ石碑を建て始めた頃の石碑なのである。

    でも、金井沢碑・・・神亀3年(=726年)2月29日である。
    しかし、石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。
    『知識『』(造寺・造仏に協力する人々)を結び、天地に誓願して建てた。  
    715年から740年頃までの郷里制の制度下にあったのである。
    754年、日本中に国分寺を建設する詔が発せられて、
    →仏教文化が日本中に行き渡たった。→仏教思想が浸透したのである。
    →石碑を建碑する文化が定着した。
    ★従って、東大寺や国分寺以前の仏教文化の信仰が伺えるのである。 

 ②9人の人物
○→○→①三家子■
              =三家(=屯倉)の娘:③加那刀自
      ②他田君目頬刀自    ↓ ・・・④物部君午足
                     ↓ ・・・⑤(物部君):ひづめ刀自
                      ↓ ・・・⑥(物部君):若ひづめ刀自
   
      ⑦三家毛人
      ⑧(三家)知麻呂
      ⑨鍛師:礒部君身麻呂・・・安中市磯部       

  碑文中の9名のうち5名(②③④⑤⑥)が女性である。
  ★当時の家族が女系社会であったことが分かる。

 
 ③上野国群馬郡下賛郷高田里
  ★群馬の地名の発祥を意味する。

■参考文献
   ①多胡碑シンポジウムの冊子
   ②「高崎千年物語」(2011年3月1日の発刊)・・・★若狭徹氏の本が最高だ。
    こんな分かりやすい高崎の古墳や史跡の説明書があるのか?と思った。
    →難しい内容をさらりと簡単に説明している。若狭氏の信奉者になった。
    若狭氏を群馬町時代から顔は見ているが、知り合いではない。
    でも、こんなロマンのある凄い人だったのかと思った。
 
    takasaki1000.jpg

★関東ふれあいの道“石碑の路”=高崎散策路山名編へGo~~。
   「金井沢の碑~根小屋城址~山名城址~山ノ上の碑~山名八幡宮~
   (光明寺=山名館)~(木部館)~(北館=玄頂寺)・・多胡碑」
   新しい発見があるかもしれない。
 

  • 最終更新:2016-05-31 16:21:49

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