鉢形城

武蔵鉢形城
Wiki最終更新 2016年4月24日より本サイト内に取り込んだもの

   埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡である。
   構造は連郭式平山城。
  文明8年(1476)長尾景春は、上杉家家宰職の継承に異を唱え、武蔵国鉢形の地にて城を
   築城した。そして古賀公方足利成氏側に立って関東管領上杉顕定に叛旗を翻すに至った。
   これが鉢形城の始まりである。※築城に関しては文明7年説あり
   この頃の鉢形城は、河岸段丘を利用した小規模な城郭であったと想定される。
   その後に後北条氏の北関東侵攻に当たり、当地方の拠点的城郭とすべく、北条氏那に
   よって拡張整備された。北条氏那は永禄年間頃に鉢形城を改修して、天神山城から移り
   住んだと考えられている。

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   復元された門             縄張りは余湖くんのホームページ様より

  鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、
   その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの
   郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪
   (本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、
   三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
  初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。
   その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国
   支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに
   廃城となった。

  文明5年(1473)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信
   古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において
   陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、
   山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。
  文明8年(1476)長尾景春はこの人事に異を唱え、武蔵国鉢形の地に城を築城し、古賀公方
   成氏側に立って関東管領上杉顕定に叛旗を翻すが、これが鉢形城の始まりである。
  文明10年(1478)扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、上杉顕定が入城した。
  長享2年(1488)扇谷上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めるため兵をおこし、城の近く
   で両軍が遭遇して高見原の戦いが起こった。このとき、定正は戦闘には勝利したものの
   鉢形城は落とすことができず撤退した。
  明応3年(1494)上杉定正は再度鉢形城の顕定を攻めようと伊勢盛時(北条早雲)ととも
   に高見原に打って出たが、定正はこのとき荒川渡河中に落馬して死去した。
   以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実
   (実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。

  永正9年(1512)上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は
   落城、顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。
  永正12年(1515) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも
   継いだ。そして、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模
   の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争が続いた。
  大永5年(1525)3月に病没した。後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、
   実子の上杉憲政が継いだ。

  天文15年(1546)北条氏3代北条氏康が上杉朝定上杉憲政の拠る川越城を攻略する
   河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。
  永禄7年(1564)氏康四男北条氏邦が鉢形城へ入城し、以後、鉢形城は北条氏の北関東支配
   の拠点となった。その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となった。
  永禄12年(1569年)には武田信玄による攻撃を受けた。
  天正2年(1574)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
  天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝
   ・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍
   (35000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を
   戦ったのち、開城した。その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好
   が代官となって周辺の統治を行った。

鉢形城訪問紀

   本日初めて鉢形城へ行ってきたわけだが、想像していたより遺構の残りは悪かった。
   まあ市街地にこれだけ近ければ、普通もっと破壊されて宅地化していただろうから
   仕方ないとは思う。下図に数字を入れて置いたので、順に見て行こう。

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   1.右は本曲輪から猪俣方面を望んでいる。眼下には荒川が流れていて、高所恐怖症の
   私には、下半身が寒くなる高さだ。こんな所昇ってくるやつは居まい、多分。


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   2.左は本曲輪西北端の、おそらく楼台が置かれた土塁の上から南方を見ている。
   3.右は本曲輪直下の伝御殿曲輪から、2.の楼台方向を見上げている。

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   4.左は楼台を荒川河川敷の西方から見上げているところ。
   5.右は本曲輪直下の荒川河川敷から見上げているが、ちょうど釣り人がいたので高さ
   比較になると思う。15~20メートル位はゆうにあるのが見てとれるが、ほんとこんな所
   よじ登って攻め入ろうなんて奴はいないだろう。
 
   平野部の河岸段丘に築かれた、崖端城は皆似たような造りになるのだろうが、なんか
   白井、平井、鉢形と長尾氏が重要拠点として築いたこれらの城は同じような匂いがする。
   きっと厩橋城とか石倉城とかも顕定の時代は、似た作りだったのだろうかと考えちゃう。
   え!どれも上杉の城だって?そうだとも、上杉の命令で、長尾氏が陣頭指揮をとって
   河西の領主たちが人を集めて作ったのさ。惣社の長尾忠房は城造りの名人だったらしい。

   白井長尾氏って、歴史を学んでいくと何かその呼び方に違和感を感じるようになる。
   黒田先生が、その事をはっきり指摘してくれてすっきりした。景春の子景英の時代に
   なって初めて、白井を領する国衆らしく振舞うようになると言う。それまでは、上杉
   株式会社の重役で、赴任地が時代によって変わるため領地のほとんどがその役職に
   伴った、その時限りの物だったとか。       宗春 2017.4.15

  • 最終更新:2017-04-15 00:44:39

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