長享の乱と上杉憲房
◆長享の乱と上杉憲房
●上杉憲房(うえすぎ のりふさ) (Wiki最終更新 2014年6月1日 より本サイト内に取り込んだもの)
戦国時代の大名。上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。
正室:上杉朝昌の娘
憲房と箕輪長野氏との関わり合いは深く、戦国物語を綴るうえで重要な位置にある。
又従兄弟にあたる関東管領上杉顕定の養子となる、だが、その立場は必ずしも安定し
ておらず、長尾景春の乱の最末期には長尾景春らによって山内上杉家当主に擁立されて
いた時期が存在していたことが知られている。関東管領就任時は平井城主であったが
知られている。
●長享の乱が勃発 (長享元年(1487)~永正2年(1505))
顕定と実兄の定昌(越後守護)は扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国足利庄勧農城
(現在の栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発したのである。
●今回は 左衛門五郎を房業にあてて方業を業政と同一人物として考えてみる
宗春は今のところこれがしっくりくる。
長野入道⇒為業⇒房業⇒方業(業政)⇒氏業 (間に誰か入るかもしれない)
以下仮の系図
足利長尾景人娘・ ・-長尾景広
| |
長尾景信-・-長尾景春-・-長尾景英-・-長尾景成-・=長尾憲景-・-長尾輝景
(山内家宰) | |(惣社景房より)
| ・-業政の姉-・-景成の娘-・
| 長野房業-| |
| 左衛門五郎・-長野業政-・-長野吉業-・-菅谷筑前守
| (長野方業)| (菅谷福田氏)
| |
・-景春の娘-・-顕泰の娘-・=出羽守業親・-伝蔵
| |(新六郎?)
| |
沼田顕泰-・ ・-長野氏業-・-亀寿丸
(新五郎)
◆憲房の手勢を考えてみる
・『長尾忠景書状』に見る【長野左衛門五郎】とは、長野左衛門五郎房業である。(仮説)
・『長尾忠景書状』は、景春の乱中に上杉氏と足利成氏の間で和議が成立した文明10年から、
尭恵の北国紀行に平顕忠(忠景嫡子:長尾修理亮)陣所とあり、翌年には家宰を顕忠へ
譲っているので文明18年までの間に出されたと推測される。
・文明13年(1481年)に上杉憲房(14才)元服する。長尾景春は、憲房を「屋形」と称して
被官したとされている。文明14年に足利成氏と両上杉家との間で和議が成立し、成氏は幕府
から赦免された。(都鄙合体)この時期に憲房より一時拝領して房業と名乗りを変えたと考
えたらどうだろうか。景春と為業は親密な関係にあったが、房業は為業の子か孫にあたる。
景春と共に乱に加わった長野氏は上杉家(憲房)に復帰した。
●『当国(上野)中一揆旗本長野左衛門尉為兼(業)--討死、』(高崎市史 資4-223)
『上州白旗一揆の時代』(久保田順一氏著)のなかに「当国(上野)中一揆」の解釈を
当国中の一揆でなく当国の『中一揆』と、上野府中周辺に広がる中小領主たちからなる
一揆であると説を唱えられている。これらの武士団について考察してみよう。
結城戦場記(長野氏の活躍)永享13年(1441)
上州一揆分取頸 ・二十四
そのうち
・長野周防守(長野入道か)・長野宮内小輔相討頸・・不知名字
・長野左馬助取之 ・・・多賀谷彦太郎頸・臼井五郎頸
実相院諸国旦那帳 ???年 「享徳の乱後」の長野氏の分立と考えられる
「上野国まえはし殿 名字なかのと御なのり候えどもいその上氏也、
みのわ殿・大こ殿・・」(★那智大社文書)
※これにある長野氏についての宗春私見
まえはし殿・・・上野長野氏(長野入道・左衛門尉為業・顕業)
みのわ殿・・・・上野長野氏(長野入道の系統・左衛門五郎房業)
大こ殿・・・・・上野長野氏(長野入道の系統・後の大胡長野氏)
(むろた殿)・・・榛名神社領を任されて上杉被官となった尚業の系統(別家)
以上長野三家を中心に、周辺小領主を抱えて一揆を形成したのが上州中一揆
なのではなかろうか。地域的には箕輪城以東の榛名山麓に広がる、現高崎市北部と
吉岡・榛東・渋川南部あたりまでと、赤城山西麓の旧北橘・冨士見・宮城・大胡まで
の南麓と前橋市。これらの地域は、長野業政の時代の長野家の支配領域と重なる。
だが、業政の時代にまえはし(厩橋)・大胡長野氏は、室田長野氏同様に庶家として
独自の行動をとるようになったようだ。
※以上の厩橋・箕輪・大胡長野氏は、景春と共に上杉家(憲房)に復帰した。
・長享2年(1488年)長享の乱のい真っ只中3月24日に上杉定昌は、白井で従者共々自害した。
越後上杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房は白井城を引き継いだ。房業とその後継者に
当たる方業(業政)は白井衆として配下に加わる。後に業政は憲房の計らいで、扇谷上杉家
より室をもらい受ける。
・問題は房業が箕輪にあったかどうかである。箕輪城は業尚・憲業により1500年ごろ築かれた
とされている。室田長野氏と最近になって呼ばれ始めた、業尚・憲業父子はむしろ長野庶家
であって、榛名神社領を任されて上杉被官と成っていたという説があるのだ。
よって景春の乱で上杉方であったため、恩賞として宗家の箕輪を任されたのかもしれない。
しかし方業は憲房に付いて、憲房が関東管領になるとその働きにより箕輪城主となる。
つまり方業と憲房は共に宗家の座に返り咲いたという事かもしれない。
以上宗春の左衛門五郎と方業と上州中一揆に関する仮説です。
- 長享元年(1487年)
長享の乱が勃発(長享元年(1487)~永正2年(1505))
上杉顕定は定正に対して道灌の才能はやがて上杉一門を危険に陥れると警告して定正の
猜疑心を煽る一方、古河公方足利成氏との和解に踏み切って秘かに定正との戦いの準備を
進めていた。その後道灌は定正の配下によって暗殺されてしまう。
翌長享元年(1487年)、顕定と実兄の定昌(越後守護)は扇谷上杉家に通じた長尾房清
の下野国足利庄勧農城(現在の栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発し
たのである。
山内上杉家の上杉顕定(鉢形城) VS 扇谷上杉家(河越城)の上杉定正→甥・朝良
長尾顕忠は山内上杉家の家宰として軍を率いて
上杉朝良・伊勢宗瑞(北条早雲)らと戦った
晩年・・・武蔵国杉山城を居城にした可能性がある。
「武蔵目代大石定重」とあり定重は武蔵守護代であったと思われる。
高津長尾定明も兄の顕忠が家宰になった時に上野守護代であったか?(上杉顕定 森田氏)
9月『北国紀行』尭恵が鎌倉から越後府中への途中、上野府中長野陣所小野景頼が許に
おいて歌を詠む 『誰袖の秋のわかれのくしのはの
黒かみ山そまなくしくるゝ』
閏11月 上杉定昌は、赤堀氏等と扇谷上杉方であった下野国勧農城を攻めた。
12月14日、同26日扇谷上杉方の長尾蔵人・佐野周防守は、山内方の膳・山上城を攻めて
きた。勧農城へ向かう上杉軍への牽制らしいが、赤堀氏らの活躍により撃退された。
この下野方面への作戦は、越後上杉・上杉定昌等の軍勢を中心に行われ、赤城山南麓の諸氏
が動員されたのであって、上杉顕定・憲房父子は鉢形方面に在って扇谷上杉氏に備えていた
のではなかろうか。長野顕業以下後の厩橋衆は上野にて定昌勢、長野房業以下箕輪衆は憲房
と共に鉢形在陣とか、勝手に想像しておきます。長野憲業はどうしたかって?府中お留守で
- 長享2年(1488年)
上杉顕定(34年才)定昌(35才)憲房(21才)
2月5日 ①実蒔原の合戦 「関東三戦」 山内方敗走
鉢形城を出陣した関東管領山内上杉顕定(34才)・憲房(21才)〔顕定養子〕は、
扇谷上杉氏の本拠地・相模糟屋に押し寄せました。顕定は糟屋の館の北を守る七沢要害
(七沢城、厚木市)を攻略し、扇谷定正と城の南に位置する実蒔原で激突しました。
江戸時代の戦記物である『北条記』によると、顕定父子は一千余騎、これに対して定正は
二百騎で河越城(埼玉県川越市)から、一日一夜で駆けつけたといいます。
その戦いは「原野血に染まって野草緑を替えにける」といった激戦でしたが、「山内の大勢
わずかの小勢に懸負けて、四方に乱れ落ち行く」といった結果となりました。実蒔原の地形
を熟知した定正の作戦勝ちともいえるようです。しかし、薄氷を踏む勝利だったようです。
定正もその書状で、かろうじて勝利したと述べています。(いせはら文化財サイト様より)
3月24日に上杉定昌は、白井で従者共々自害した。享年35。
原因について上杉房能を擁立しようとする長尾能景らの陰謀であるとする説や、扇谷上杉氏
による謀殺とする説、扇谷上杉定正方についていた白井城の旧城主である長尾景春ないしそ
の与党によって襲撃されたとする説がある。父・房定と同様に音に聞こえた風流人であり、
文化人らとの交流も厚かった。訃報に触れた連歌師宗祇は定昌のことを「無双の仁慈博愛の
武士」であったと三条西実隆に語っている。
※越後上杉房能一派や扇谷上杉定正双方の意を酌んだ景春の仕業という説はどうだろう?
その後担がれていた憲房は景春と絶縁することになるのであるが、憲房は利を得た形だ。
※長野業尚、室田に築城、浜川より移り鷹留城と称す
6月 ②須賀谷原の合戦 山内方敗走
8月11日 房定,中条定資らを率いて上野白井城にあり,顕定を助ける。
この時景春とともに降ってきた中一揆に加えて、定昌の率いていた越後・北上野衆も憲房の
配下に加わったのであろう。しかしこの時景春は憲房と決別していた?
11月 ③高見原の合戦 山内方敗走
- 延徳2年(1490)
12月 山内・扇谷上杉氏は一旦停戦する
伊勢宗瑞+扇谷上杉定正は、武蔵・相模にて山内上杉顕定+茶々丸と戦う。
- 明応3年(1494) 山内・扇谷両上杉氏の抗争が再発。
9月上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。
10月2日定正は、高見原(小川町)・塚田(寄居町)と進出し、荒川を挟んで対陣した。
ところが、荒川渡河中に落馬して上杉定正が急死したため、伊勢軍は撤退した。
●上杉顕定は足利政氏の弟(顕実)を四郎と名付け養嗣子として迎えた
上杉顕定は東国における「古河公方&管領体制」の再構築を図っていた。
特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎え、密接な関係を築いた。
鉢形城に入れた。これにより、古河公方は一転して山内上杉方となった。
上杉顕実は憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
定正と結んでいた成氏が顕定と和睦すると、あくまでも顕定と戦おうとする景春と成氏
の意向に従って顕定と和睦しようとする嫡男・景英が対立、最終的には成氏に従った景英
は帰参を許されて顕定から白井長尾家の当主に取り立てられ、景春は当主の座を追われる
と共に親子で敵味方に分かれて戦うことになったとみられる。
- 明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
7月 伊勢宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を攻略した。
この事により、相模の西郡は「一変」した。
榛名神社安堵状
※これ以降に、長尾景春と上杉顕定は和睦していた可能性がある。
顕定は、古河公方:足利政氏を招いたが、数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能した。
長野信業は、緑野郡永源寺四世幻室違伊蓬を開山として、下芝に長純寺を建立した。
- 明応7年(1498)8月25日 明応の大地震 伊豆半島に大津波が押し寄せた。
伊勢宗瑞は善政を敷いて、伊豆における人心の把握を行ったとされる。
- 明応八年(1499)
長野信濃守業政の生誕 永禄4年没(1561)63才
- 文亀元年(1501) 長年寺が創建:長野業尚
長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。
閏6月29日 長尾忠景死没
- 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)
長野憲業が家督を継承。
- 永正元年(1504)
長享2年(1488)杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房は白井城を継いでいた。
9月6日 上杉顕定は、仙波から白子へと江戸城攻略のため陣を移した。
この動きに対して宗瑞・氏親が進軍してきたため、顕定は西方へ退却した。
※長尾景春はすでに、上杉氏と和睦後に嫡子景英へ家督を継いでいたと考えられる。
9月27日立河原の戦い 長野孫太郎房業(房兼:憲房の房?)討ち死に
父顕業の子であるとすれば、孫太郎房業は嫡子だったのであろうか?それならば憲房より
房の字を拝領したことにうなづける。またこれにより長野賢忠が厩橋長野家を継いだの
かもしれない。
VS
結果・・・山内上杉連合軍 2,000人余りの死者を出して大敗。鉢形城へ敗走した。
「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」(★近藤先生の群馬県史)
仮説 業政の父の兄弟又は、賢忠・方業の長兄である房業が亡くなった。
の援軍を受けて反撃に転じた。
11月 武蔵椚田要害
12月 相模実田要害を山内上杉軍は攻略した。
- 永正2年(1505) 山内&越後上杉氏が上杉朝良の河越城を攻撃。
結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に和睦した。
山内&越後上杉氏は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。
上杉顕定は菅谷館に上杉朝良を幽閉して出家させ、甥の上杉朝興
を当主に立てることを扇谷上杉家臣団に強要した。
しかし、扇谷上杉家臣団の反発が強く、諦めた。
上杉顕定は上杉朝良が解放し河越城に戻した。
長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。
上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。
- 永正4年(1507年)
古河公方・足利成氏の次男・顕実が顕定の養子になると、顕実は顕定の仮名である「四郎」
の名のりが許される。これにより上杉憲房は、後継者から外されて庶流としての地位が確定
してしまう。その一方で、顕定-顕実とは別に有力な一軍を率いる存在として各地を転戦す
ることになった。
※上杉定昌の死後に憲房は、白井城へ入り定昌の代わりに関東での軍事的役割を担っていた
のではないだろうか。
- 大永5年(1525年)
3月25日 上杉憲房は、59歳で死去した。
- 最終更新:2018-08-12 22:58:02