長尾忠景書状(落合氏)

長尾忠景書状
「長野市立博物館だより92号」森田真一氏著より引用してまとめたもの

   これは、山内上杉家家宰の長尾忠景が、上野守護代として領国内に本貫を持つ
   落合氏(現藤岡市上落合か)に宛てた書状である。
   また長野家の家臣団の中に『落合又九郎』の名がみえる。
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                           (縄張り図は余湖君様のHPより)
   これを読み下し文にすると、次のようになると思います。
    先忠に復さるるの由、長野左衛門
    五郎注進を披露せしめ、御書を
    申し成し候、定めて御本意たるぺく候
    この刻、御忠節簡要に候、
    恐々謹言、
    六月十五日 前尾張守忠景(花押)
    謹上 落合三郎殿

  ※ここにある『長野左衛門五郎』とは、如何なる人物であろうか?

この書状が出された背景を考察

 ●長尾景信の死去と景春
  文明5年(1473)
   6月 白井長尾景信が死去。
   白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
   山内上杉家家宰職は、白井長尾家の力が強くなりすぎることを懸念する、
   寺尾豊後守(高崎市)の助言により、景春に継がせなかったとする説がある。
   当時顕定は20(1454生)前後であり、寺尾豊後守(高崎市)の助言とする説もある。

   同年に長尾景春は、厩橋に橋林寺を開基する。
   厩橋城このころ築城ともいわれる 。
「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
  文明8年(1476)
   6月道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
   景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。
   顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していた。
   景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は
   他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。
   五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。

  文明9年(1477)
   1月 五十子の戦い
   長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。
   上杉顕定上杉定正は大敗を喫して敗走。・・・

   5月13日太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
   五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
   長尾景春は鉢形城にひとまず退却した。
   5月14日未明、太田道灌は上杉軍を率いて鉢形城へ向けて移動を開始した。
   長尾景春は「五十子の陣」を奪還した上杉軍を迎え撃つべく出陣した。
   景春は上杉勢の進路を防ぐため、用土原:針ヶ谷に移動した。

   用土原(埼玉県寄居町)の戦い

   長尾景春の戦いの中で「用土原の合戦」は最も激しい合戦であった。
   多数の死者を出して大敗した。長野為業(兼)も戦死した。

  文明10年(1478)  
   1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ和議を打診した。
   足利成氏は足利幕府の関東管領との有利な条件での和睦を望んでいた。
   上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。享徳の乱終結

   長尾景春は足利成氏の後ろ盾を失った

景春に同心した、西上野の領主達

   さて文明9年に景春勢として従軍し、用土原:針ヶ谷の戦いにて没した領主に長野為業
   見える。この人物は、文明3年の古河侵攻で戦功をあげ、時の将軍から感状を頂いている。
   西上野を代表する一揆の旗頭であった。他にも多くの領主たちが景春方へ参陣したと
   みられる。
  
   文明10年成氏と幕府との間で和議が成立して、景春は後ろ盾を失ったとある。
   当然これに与した領主たちは、次々と上杉さんかへ復帰していったと考えられる。
   長野房業もその一人とみられ、永正元年9月の立川原合戦で上杉方として戦没している。

  左衛門五郎とはだれ?
   長野業尚が文亀3年(1503) に死没。
   長野憲業は享禄3年(1530)に死没とされている。

   長野為業は文明9年(1477)に死没。
   長野房業は永正元年(1504) に死没とされている。

   ここに上げた4人は、上野長野家の惣領であったと考えられる人物である。
   景春の乱以降に、上杉家へ帰参した人物となると長野為業は除外される。
   景春側であったと考えられる先出の落合氏を、被官とするならば
   長野氏は、早い時期に上杉家へ帰参したと考えるのが順当と思われる。
   そうすると、文明10年(1478)以降すぐとなら長野業尚か長野房業が適当かなと思います。

  この時の箕輪城主は?
   久保田順一氏はその著書『長野業政と箕輪城』の中で、箕輪城と鷹留城はほぼ同時期に
   築城されたとみられる。また2つの城は、長野郷を東西に分けて支配する拠点であると
   している。さらに箕輪城は箕輪長野氏、鷹留城は室田長野氏の居城として築かれたと
   説を唱えられている。宗春もこの説を支持して考えると景春の乱前後には、鷹留城に
   長野業尚、箕輪城には長野房業かだれかがあったと考えられる。

  上野長野氏の惣領はどうなった?
   箕輪初心師によると、室町初期から箕輪には拠点が築かれ中ごろに至るまでには長野氏
   が入ったと説を唱えられ、文明年間には要害性を高めて城にふさわしい様相に発展して
   いたと考えている。
   ならば、長野郷の中心とも言える箕輪に上野長野氏の惣領が居住していたと考えられる。
   という事は長野為業は、景春の乱勃発時に箕輪長野家の惣領であったと考えられる。
   そして、室田長野業尚にその地位を奪われたのであろうか。

  敵と味方
   戦国の習いにて、一族が敵と味方に分かれて戦うことは、しばしば起こり得た。
   先出の箕輪・室田長野氏説をもう一度支持して考えてみよう。
   景春に与した箕輪長野氏と、上杉側に留まった室田長野氏と仮説してみよう。
   勝利した側の室田長野氏は、惣領の地位を得て箕輪城に入り拠点とした。
   敗者の為業の子の顕業と房業は、追われて厩橋へ入った。   

  もう一人の箕輪城主
   ところが、大永4年(1524)に箕輪城主の長野方業が厩橋の長野賢忠と共に、惣社長尾氏
   を攻めた。
   これを証かす文書(徳雲軒の文書)が発見されたのである。
   この方業なる人物が、箕輪・室田何れの家系にあるのかが注目を集めている。

   これはかなり信頼のおける資料であり、解明が望まれている。
   いずれにせよ、長尾忠景書状にある『左衛門五郎』なる人物は、この方業かその父親
   ある可能性が最も高いと宗春は考えている。

   宗春個人の見解として、この方業らは、為業の家系であると想定しているが、そうなる
   といろいろ物議をかもすことになりそうだ。

   長野左衛門尉為業と長野左衛門太夫方業の官途名が、それが正しいと物語っていると
   思えてならない。五郎は業政の子氏業(業盛)が、新五郎と称されていたこともあり
   『左衛門五郎』がここにまたつながり、頭の中を駆け巡っているのである。

   さて、ここからは研究者の先生方が、解決してくれるのを待つしかない
 

  • 最終更新:2017-04-14 16:38:24

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