長尾景信
◆長尾景信
Wiki 最終更新 2013年10月28日 より本サイト内に取り込んだもの
長尾 景信(ながお かげのぶ)は、室町時代中期の武将。上杉憲実の家宰・長尾景仲の子
として生まれた。寛正2年(1461年)に父が高齢を理由に隠居したため、その跡を継いで
山内上杉氏の当主・上杉房顕の家宰となった。
◆山内・越後上杉家相関図 I
Wikiと長尾景仲(黒田基樹氏著)より編集して作成
凡例 ─は実子
=は養子
・-上杉房朝 ↑↓は移動先
|(越後守護)
(越後守護)|(越後守護)↑(房朝養子)|(越後守護) (為景傀儡)↓
| ↑ ・-上杉顕定-・-上杉頼房 ↓
| ↑(越後へ) |(関東管領)| ↓
| ・-上杉房定-・-上杉定昌 ・-上杉定憲 ↓
| | (越後守護)↓ ↓
| ・-上杉定顕 ↓ ↓
| | | (顕定実子説)(定実の子)
|(管領代行) (上条上杉) (房能養子へ)
|
| |(関東管領) |(関東管領)|(関東管領)
(関東管領)|(関東管領) (関東管領)↑(関東管領) (関東管領)
※数字は関東管領就任の順 ・--周清--・-上杉憲房→・
・-長尾景総-
|
(高津長尾) ↑(忠景の子) (惣社継ぐ)|
↑ ・-長尾景房-・
(惣社長尾) ↑(山内家宰) (山内家宰)↑(山内家宰) ↓
(山内家宰) ↑ 弥五郎-・ ↓
景守娘・ ・-長尾忠景 ↓
| |(惣社へ) ↓
(白井長尾)↑(山内家宰)|(山内家宰)
↑ ・-長尾景頼-・-長尾景連-・=長尾景義?
↑ |(大学介) |(岸将監) (沼田憲義子)
↑ |(出雲守) ・-長尾景衝
↑ ・-道真妻 |(刑部介) ※長尾景頼からの系図は「平井城探訪」
↑ ・-長尾景致 執筆・編纂 矢島勇氏より
白井娘・ ・-長尾景仲(白井へ) (岸和泉・上杉憲房家臣)
| |
●伯耆守・-・-長尾実忠
(鎌倉長尾)|
・-小五郎 ・-白井景英妻
|
(鎌倉長尾)↑(山内家宰)↓(足利長尾)|(山内家宰) (山内家宰)
↑(犬懸より)↓ |
| ↓ ・-長尾定景
| ↓
●長尾満景-・-長尾憲景=・=長尾景住 ・=長尾出雲守
(犬懸長尾) (出雲守) |(鎌倉より)|
・=長尾房清-・-六郎
(鎌倉より)
・-藤王丸(母は顕忠の娘)
|
・-上杉顕房 ・-憲房の室 ・-業政の室
| | |(方業の室?)
(扇谷) (扇谷) |(扇谷) ↑(扇谷) ↑(扇谷) (扇谷)
(一時逃亡)
(道真)| (道灌)|
(扇谷家宰)|(扇谷家宰)↑
(図書助) (資常説あり)
文正元年(1466年)に房顕が嗣子無くして死去すると、将軍足利義政の命を奉じて、越後
の守護大名であった上杉房定の次男・上杉顕定を房顕の養子として迎えた上で山内上杉家
を継がせ、文正2年(1467年)には関東管領にしている。そして景信自身は守護代として
山内上杉家の実権を掌握し、陰の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。
文明3年(1471年)4月には自らが総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見
城や樺崎城を落としている。同年5月には下総に攻め入って、遂に成氏の居城・古河城を
も陥落させた。
しかし文明4年(1472年)に成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総
に攻め入り、足利軍と対峙する。戦いは優位に進めていたが、その最中である翌年6月23
日、五十子陣において陣没した。享年61。
家宰職は弟の忠景が継いだが、これに不満を抱いた嫡男・景春が主君顕定に対して反乱
を起こす事になる(長尾景春の乱)。
- 最終更新:2017-04-13 00:09:28