長尾景春の乱

長尾景春の乱と享徳の乱は、互いが絡み合いながら同時進行形していった。

  • 文明5年(1473)
   6月 白井長尾景信が死去。
   白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
  ★長尾景春は、当然、家宰職も継げると思っていた。
   しかし、山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は
   叔父:長尾忠景(総社長尾氏)が継ぐことになった。
   
   上杉顕定は家宰を長尾景春の叔父:長尾忠景(総社長尾氏)に
   与えてしまったからである。
   つまり、上杉顕定は白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌ったのである。
   当時顕定は20(1454生)前後であり、寺尾豊後守(高崎市)の助言とする説もある。

   ★更に白井家が家宰職の占めた時期に同家と関係を結んで所領
   の給与や安堵を受けた山内上杉家傘下の武士の中には家宰職
   が白井家から惣社家に移る事で今までの権利を失うことを危惧
   して景春が家宰職を継いで従来通りの安堵を受ける事を望む者
   もいた。

   特に家宰職とともに継承されてきた所領では問題が現実化し
   白井家側の武士と惣社家側の武士との衝突も発生している。(Wikiより)

  ★長尾景春は 上杉顕定を深く恨んだ。憎んだ。
   長尾景春は扇谷家上杉家の家宰:太田道灌に同心(仲間)になるようを頼んだ。
   長尾景春の叔母は太田道灌の母だったのだ。(叔母は太田道灌の妻説あり)
   つまり、長尾景春&太田道灌は従兄弟だったのだ。
 
   しかし、太田道灌は拒否した。
   太田道灌は五十子陣にいた山内家上杉顕定と主君:扇谷家上杉定正のもとへ向かった。
   太田道灌は顕定と定正に
   「長尾景春を武蔵守護代に任じ、長尾忠景を一時退けて下さい。」
   と進言した。しかし、上杉顕定は受け入れなかった。
   「それならば、直ちに出兵して長尾景春を討つ方がよいのではないでしょうか。」
   と進言した。上杉顕定は
   「古河公方成氏と対峙している状況では、長尾景春を討つなどできない。」
   と断った。
 
  ★簡単に説明すると
   太田道灌は「これはマズイ事態発生。」と思った。
   上杉定正と上杉顕定に、「長尾景春と仲直りするか、それとも潰すか・・・
   早く手を打たねば・・・。」
   と、進言した。
   上杉顕定&上杉定正は、古河公方との決戦をひかえていた。
   「武蔵(埼玉県)五十子(いかっこ)に布陣の真っ最中・・・
   長尾景春なんぞ、相手してられるか。古河相手に必死なんじゃよ。」
   と、断った。
   と言ったところであろうか?
   ある意味、上杉顕定は白井長尾家を嘗めていたのだ。
   優先順位が古河公方、長尾景春だった。

  ※長尾景春はこれに対してますます、不満を抱き・・・
   やがて、主家:上杉顕定や叔父の長尾忠景を憎悪するようになった。

 『太田道灌状』に見られる動向
   太田道灌が文明12年(1480年)11月28日に山内家家臣高瀬民部少輔に送った書状で
   ある『太田道灌状』によれば、道灌は文明6年(1474年)に江戸城を出て五十子へ参陣
   しようとしたところ、長尾景春が数回にわたって使者を送り、無益だから思い止まる様
   にと伝えてきた。

   道灌はこれを無視して出発し、上田上野介がいた小河(現比企郡小川町)で一泊した。
   翌朝、景春が飯塚(現花園町から寄居町)から駆け付け、上杉顕定と憲房の父子を討ち
   取りたいと思うので五十子参陣を中止するようにと謀反を打ち明けてきた。それでも
   なお道灌は景春の勧告を無視して五十子へ参陣し、この陰謀を飯塚次郎左衛門尉を通し
   て上杉家へ知らせた。

   道灌が五十子へ参陣する以前から、こうした駆け引きがすでに生じていた事が分かる。
   また、景春が乱を起こす数年前から謀反を計画していた事も分かる(家督に関する不満
   がこの時点で表面化している)。

  新情報
   文明 5年 1473 ・長尾景春、橋林寺開基「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
   てことはこの頃すでに、厩橋城の形はあったことになる。
   橋林寺は厩橋長野家の菩提寺であり、鬼門の寺である。
   長野家を2つに割り、景春に従った長野為業が築城して居城したのではないだろうか。
   尚業もこの頃すでに箕輪城の形を作っていた?
   文明5年(1473)or 文明8~9年(1477)橋林寺建てられる。
   厩橋城このころ築城ともいわれる 。金井曲輪(市立図書館の北側)に創建。
棟治の私見は、文明5年の長尾景春の乱の頃から、すでに長野氏は厩橋城にいた。

  • 文明7年(1475)
  長尾景春の乱
   長尾景春の乱を契機に、憲顕の叔父重顕から出た扇谷上杉家が家宰太田道灌の補佐の
   もと勢力を拡大し、山内家と並ぶ勢力となった。以来、山内と扇谷の両家は関東管領の
   座をめぐって数十年にわたり抗争を続けた(長享の乱)。
   山内上杉家はこの戦いに勝利し関東管領の地位を守ったが、続いて越後守護代・長尾為景
   の反乱と上杉顕定の戦死による家督争い(永正の乱)が発生、この頃には、伊豆に興り
   相模を平定した新興の後北条氏の圧迫を受ける様になった。 
   長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)

   従兄弟の扇谷上杉家家宰:太田道灌は勢力を拡大し、山内家と並ぶ勢力となった。
   以来、山内と扇谷の両家は関東管領の座をめぐって抗争を続けた。

  • 文明8年(1476)
   上杉顕定は長尾景仲の死後、長尾景春に家宰&守護代の地位を継がせなかった。
   山内上杉家は関東管領の地位を守ったが、越後守護代:長尾為景の反乱と上杉顕定の
   戦死による家督争いが発生した。
   伊豆・相模を平定した新興勢力:後北条氏の圧迫を受けるようになった。

  ★当然であった。有力家臣:長尾景春が古河公方と結んで離反したのであるから、
   苦境に陥いった。

   足利成氏との和睦交渉が続けられる中、長尾景春は秩父郡&児玉郡で抵抗を続けていた。
   長尾景春は鉢形城からゲリラ戦により、上杉方の城を落城させた。

   古河公方が後ろで糸を引いて房総半島の「千葉孝胤」が「長尾景春」に呼応し、
   上杉顕定に反旗を翻した。

  • 文明9年(1477)~長尾景春の乱が最大の五十子の戦いである。
   五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。
   乱の背景に上杉氏の内部矛盾=権力闘争があった?
   山内上杉顕定が敗退し、東国における戦国時代の幕開けへと繋がっていった。

「長尾景春の乱」
  6月 五十子(現本庄市いかっこ)の戦い
  長尾景春は主家:山内上杉顕定に反乱を起こした。
   五十子の陣に、2500騎が奇襲をかけたのだった。
  上杉顕定は、長尾景春の力を軽視していた。
  2代続けて家宰職を継いだ白井長尾氏の力は他の長尾氏
  よりも強かったのだ。・・
  五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が
  続出した。
  長尾景春は上杉顕定軍を五十子陣において打ち破ったのだ。

  上杉定正と上杉顕定命からがら上野:平井城に逃げた・・・・
 
調子こいた長尾景春に、関東の国人や地侍が次々と味方になった。

相模小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎
相模小沢城 (神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助
相模溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)
相模小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応した。
多くの関東の国人、地侍が景春に味方した。


・文明9年(1477)
1月 五十子の戦い 
  長尾景春 VS 上杉顕定 
 長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。
 上杉顕定と上杉定正は大敗を喫して敗走。・・・
 顕定と定正は上野平井城に逃れた。
 18年間、上杉氏の対古河公方戦の最大の防御拠点だった
 「五十子陣」は長尾景春に落とされてしまったのである。
 
 長尾景春は、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明
 ・千葉孝胤・那須明資・成田正等らとも同盟を結んだ。
 特に旧領を太田氏に奪われていた南武蔵の豊島氏は喜んだ。
 ★豊島氏はかつて、新田初代:新田義重の母になった
 一族で、鎌倉時代の名門であった。
 石神井城と練馬城(練馬区)に豊島泰経、平塚城
 (東京都北区)に弟の泰明が太田道灌の領地をとって
  返り咲いた
 豊島一族は江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断った。
 
 太田道灌は今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
 太田道灌は相模、房総地方の鎮圧にも奔走せざるえなくなった。
 太田道灌は長尾景春と戦うざるを得なくなったのだ。
 
※戦線は相模国から下総国に至る関東一円にと拡大していった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
扇谷上杉家の家宰:太田道灌が武蔵に攻め込んできた。

3月 太田道灌は溝呂木城と小磯城を落とした。
 さらに小沢城を攻撃・・
 長尾景春が援兵を送った。
 太田道灌は一旦兵を引いた。
 小机城の矢野兵庫が出陣して、太田道灌の河越城攻撃した。
 太田資忠(道灌の甥)と上田上野介が撃退した。

4月 江古田・沼袋原の戦い
太田道灌 VS 豊島一族
  太田道灌は上杉朝昌:三浦高救らの援軍を得た。
  平塚城城下を焼き払った。
  豊島泰経・泰明を待ち伏せて50騎で200騎の豊島勢を
  打ち破り、泰明を討ち取った。
  太田道灌は泰経を追って石神井城を囲んだ。
  豊島泰経の石神井城を攻め落とした。
★石神井城もそのうち掲載予定。

 鉢谷原の戦い
  長尾景春 VS 上杉顕定と上杉定正軍
 長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、鉢谷原で攻めるが
 撃退された。

  5月13日  
 太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
   五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
 太田道灌は五十子に着陣した。
 長尾景春は鉢形城にひとまず退却した。
 
 5月14日未明、太田道灌は上杉軍を率いて鉢形城へ向けて
  移動を開始した。
  
 長尾景春は「五十子の陣」を奪還した上杉軍を迎え撃つべく
 出陣した。景春は上杉勢の進路を防ぐため、用土原:針ヶ谷
 に移動した。
 
 しかし、これは太田道灌の陽動作戦であった。 

 用土原(埼玉県寄居町)の戦い
  長尾景春 VS 太田道灌・上杉顕定・上杉定正・長尾忠景
  
 太田道灌軍・両上杉軍・長尾忠景軍は一気に長尾景春軍
 をめがけて突撃した。
 長尾景春軍は完全に意表をつかれた。
 ★長尾景春の戦いの中で「用土原の合戦」は最も激しい合戦
 であった。多数の死者を出して大敗した。
 長野為兼も戦死した。
 ★私見:長野家の「兼」のつく一族がいた。
  おそらくは厩橋=前橋系?と推測している。
 
 長尾景春は鉢形城に逃げ込んだ。

 太田道灌の参戦で長尾景春軍は各地で敗れた。
 次第に、長尾景春の勢威は衰退していった。 
 しかし、長尾景春は足利成氏の支援を受け、
  太田道灌と戦い続けた。


7月 荒巻の合戦
 長尾景春の要請により、古河公方:足利成氏が長尾景春
 への援軍として、那須・佐々木・柳田・一色の諸将を
 「群馬郡滝」に布陣させた。
★私見「群馬郡滝」=船尾滝(現榛東村~伊香保への途中)
※長尾景春の白井城&上杉軍がいる五十子の陣の間の説
  
 古河公方は、「児玉の陣」と「白井城」との連絡を遮断する
 作戦を計画たてた。
 
 太田道灌は、上杉軍主力を白井城に向けた。
 太田道灌は荒巻(★前橋市:群馬大学付近)に布陣した。
 古河公方の行動を牽制した。 
 長尾景春は同族の越後の長尾為景(上杉謙信父)にも援軍を
 要請した。

 塩売原の合戦
 長尾景春は、結城、那須、佐々木、横瀬らを率い、太田道灌の
 荒巻の陣に進軍を開始した。 
 太田道灌は決戦を避けるべく「塩売原」に陣を移動した。
 ※「塩売原」・・・現在では特定できていない。
★おそらくは前橋市惣社か吉岡町の一部であろう。
 
 長尾景春も「塩売原」に布陣した。
 

広馬場(群馬県榛東村)の戦い
山内上杉+長野業尚 VS 長尾景春
(★関東古戦録:久保田順一訳)

★関係ないけど、箕輪城から4km。・・・
つまり、藤岡の平井城&渋川の白井城はちょうど中間地点で
ある。・・・もしかして、箕輪城はこの年に、長野業尚の
よって、築城されていたのではないかとう勝手な説を
私は考えている。上杉顕定が10年前に平井城の修築
 &詰め城:平井金山城を築城したように・・・・
  

1ヶ月間対陣するが、決着がつかなかった。
※足利成氏も古河から前橋の惣社付近まで、応援に駆けつけた。

11月 双方撤兵。

長尾景春は鉢形城に戻った。
  「古河公方」が軍を引いた。
  
  長尾景春は孤立してしまった。

  太田道灌は「鉢形城」に総攻撃を加えた。
  長尾景春は必死で抵抗した。
  しかし、太田道灌軍の攻撃を支えきれず、
  長尾景春は鉢形城を放棄して秩父へ落ち延びた。 

しかし、再び足利成氏が8000騎を率いて出陣したため、
  太田道灌は撤退した。


・文明10年(1478)  
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ
   和議を打診した。
   20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領
   との有利な条件での和睦を望んでいた。
   上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
   太田道灌の裏工作であった。
   20年間、対立していた。・・・
  長尾景春は足利成氏の後ろ盾を失った
 
 
 3月 長尾景春が河越城へ攻撃した。
    上杉定正と太田道真が撃退した。

   豊島泰経が平塚城で再挙。
   太田道灌は鎮圧・・・
   豊島泰経は敗走して小机城に逃れた。 
 

  長尾景春は「鉢形城」を奪還し、再び、抵抗を始めた。
  
  太田道灌は小沢城を攻め落とした。
 
 4月 太田道灌は小机城を攻略。
   小机城に匿われていた豊島泰経は行方知れずとなり、豊島氏は
   歴史上から姿を消した。

   太田道灌は相模の長尾景春方の諸城を駆逐していった。
 
7月 太田道灌は長尾景春の鉢形城を攻略した。
   上杉顕定の居城とした。
   長尾景春は武蔵国を追われてしまった。

12月 境根原合戦
 太田道灌は、和議に反対する足利成氏の有力武将:
 千葉孝胤を打ち破った。


・文明11年(1479)
 太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総
 半島へ派遣した。
 千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
 しかし、太田資忠は戦死した。
 さらに、真里谷武田氏、海上氏を降し、房総半島から反対勢力を
 一掃することに成功した。

 
・文明12年(1480)
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
  太田道灌に攻め落とされた。
  長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。

 古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に
  「両上杉家」との「和睦」調停を申し出た。
  足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
  「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。 


・文明14年11月27日(1483年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
 足利成氏は幕府から赦免された。
※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
 上杉顕定&上杉定正は対立したままだった。

・文明18年(1486) 太田道灌が殺害された。
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
  とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
  そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸
  (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
  ※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や
   子孫の方もいる。

  大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
  付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

  長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことに
  なった。

・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

・長享2年(1488)
両者の抗争は本格化した。
  「関東三戦」
 ①実蒔原の合戦
 ②須賀谷の合戦
 ③高見原の合戦
  当初は上杉顕定は上杉定正に押されるが、抗争が長期化
  するにつれて、上杉顕定が次第に有利に立った。
 
・明応2年(1493) 伊勢宗瑞=北条早雲の伊豆侵攻。

・明応3年(1494) 両上杉氏の抗争が再発。
  上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。

  上杉定正が急死した。
  伊勢軍は撤退した。

  古河公方は一転して山内家方となっていた。

・明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&
  管領体制」の再構築を図っていた。
  特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎えた。
  密接な関係を築いた。
  上杉顕実は上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な
  家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
  
・明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
 7月 宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を
    攻略した。
   結果・・相模の西郡は「一変」した。

   東郡へ軍勢を進めた。
   扇谷上杉定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて
   河越に軍を進めた。

・明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地
   として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   古河公方:足利政氏を招いた。
   足利政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
  上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能
  した。

・永正元年(1504) 立河原の戦い
駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲)
  VS
   上杉朝良
結果・・・上杉朝良 2,000人余りの死者を出して大敗。

  しかし、越後上杉家の援軍を受けて反撃に転じた。

・永正2年(1505) 今川&北条が上杉朝良の河越城を攻撃。
  結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に
  和睦した。
  今川&北条は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。

・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。

 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

 長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
 長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。

・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)が
守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に八海山の麓で
殺された。長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を
受けたのである
・・・関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。

・永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景
 &武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と結んでいたため、
 これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

  上杉顕定は弟:房能の仇討ちを大義名分と
  して越後国に攻め入った。
  上杉顕定軍は越後府内(現上越市)を制圧した。

  しかし、上杉顕定の越後統治は国人の反発を受けた。


・永正6年(1509)
7月、古河公方の内乱を収めた。
  上杉顕定は養子:憲房と共に越後に攻め入った。
  上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
  弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
  遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。

  長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)
  に追放した。
  越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図
  があったと考えられている。 

~~~~~島田宗長の『東路の津登』~~~~
・永正6年(1509) 『東路の津登』
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
 出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。

 
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
  むさし野の 露のかきりは 分もみつ 
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
 武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。

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箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
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箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪~三の曲輪
~二の曲輪~本曲輪 
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★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
 の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
 の系統ということになるのはないだろうか。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
 は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
 ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を
 貰ったのであろう。
●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
~~~~利根川~~~~~~~~
●新田庄(群馬県新田郡)
●下野の足利庄●佐野  ●室の八幡(栃木市)  
●鹿沼●日光●鹿沼●佐野●足利
●新田之庄●太田●大胡(前橋市大胡)
9月~~~~~~~~~~~~
●青柳(前橋市青柳)●荒蒔(前橋市荒牧)
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。


・永正7年(1510)6月権現山の戦い
 北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
 寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた。
 北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

 ところが、扇谷上杉朝良は今まで対立していた山内上杉
 顕定の養子憲房と和解する。
上杉顕定は武蔵に引き返した。
 
 そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた。」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

 ・伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

 そして、上杉顕定は再び、長尾為景を討つため越後に
 行った。 

・伊勢宗瑞(北条早雲)は三浦半島の制圧した。
やがて、権現山城を攻略した。多米が城将となった。

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箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿
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・永正7年(1510) 長者原(新潟県六日町)の戦い
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北
  し、自刃。享年57歳。
※越後(現六日町八海山麓)の管領塚

★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代:長
 尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。

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箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚

箕輪初心◆2013年スキー№1【宝台樹スキー】&【水上石倉城】

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
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上杉顕定死後、上杉顕実が関東管領を継いだ。
  越後から帰還した上杉憲房VS 上杉顕実(足利政氏の子)
  結果・・・山内家の衰退に繋がった。

 長尾景春は白井城を奪還した。
 長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、
 上杉憲房にさらに対抗した。

・永正11年(1514) 8月24日(9月説)長尾景春が死去。
  享年72歳。
 墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
・・・長尾景英が継いだ。妻は長野業政の妹である。




★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
「武略・知略に優れていた武将である。」
と尊敬してたというが、・・・・・・・・
★ 「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、
私の関東進出の足がかりを作ってくれた大恩人。
棚からぼた餅をありがとう。」
といった感じなのであろうか。 ・・・・・

やがて、後北条家3代目:北条氏康によって扇谷家は滅ぼさ
れ、山内上杉家も上野国:平井城を追われることになってい
った。

・永禄4年(1561) 上杉憲政は長尾景虎に間道管領の地位を
 与え、長尾景虎は上杉政虎と名乗った。
★ああ~無情。





★参考文献
★上杉家:久保田順一先生の資料
★「太田道灌」黒田基樹著
★戦国史
★東国の戦乱・・・群馬県歴史博物館

  • 最終更新:2017-04-18 16:31:07

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