長尾顕景の謀反

長尾顕景の謀反

徳雲軒の文書2説

  • 大永4年(1524)説&大永7年(1527) 説
   惣社長尾顕景と白井長尾景誠が北条氏綱・長尾為景と結んで関東管領
   上杉憲寛(憲房と思われる)に叛旗を翻した。

   ※大永5年(1525年)に憲房が死去した時、実子の憲政は幼少だったことから
    憲寛は、跡を継いで関東管領となった?。Wikiより

  ▲久保田順一先生(流れからして久保田先生が大永4年に比定されたであってるかな?)

  大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
   久保田先生・・・10年前に発見された文書密書で10cm×15cm位の大きさ
   総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書

    其夜可被仰付事
  一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、
   ※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、乱暴はしないでくれ。

  一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、
   ※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、各自、
    たしなみ=武器をきをつけてくれ。
    つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
  一、
  一、
  一、まやはし殿御人数いそき東口へ・・・
  一、

   12月2日

  群馬県史の「徳雲軒性福宛長野方業書状」
   「御覚悟之旨玄ニ条々承候間、左衛門、四郎進退並其口所帯之儀、
    兎にも角にも任可申候段、以誓詞申候き、然而八木駿河入道所
    へ被載誓詞承候、先以落付申候、乍去於此上も、直二方業方へ
    以御誓詞承候者、邪以添?可存候、八幡大菩薩・春日大明神・
    石上布留大明神御照覧、誰にも不可令口 外候、至干其元者、
    可御心易候、御返事到来候上、即時二御陣へ罷出、御返事可申
    調候、  恐々敬白 」
   11月17日
    左衞門太夫方業(花押)
                    徳雲軒

  ※久保田新説・・・長野方業=業政は同一人花押から推測できる。
    と、おっしゃっていた。2度目は久保田先生は、言葉を濁している。

   長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
   長野左衛門大夫方業が箕輪城主として文書を発給している。
                          (★徳昌軒の文書)

   ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
   長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰め
   られた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介で降伏した。
   
   大永5年 27代関東管領に上杉憲寛が就任

   憲寛と和解をしていたなら、徳雲軒の事件は大永7年と言う事になる。
   憲房なら4年OK。それとも事件が収まったのは大永5年以降なのか?

  ★なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされているので、長野方業と
   長野業正が父子かもしれない。


  • 大永7年or大永4年の箕輪城にいる『長野方業』
   『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著(2002)で初めて紹介された。
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    ●『徳雲軒性福条書写:上杉文書』 

  • 最終更新:2016-09-05 22:48:55

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