長純寺

箕輪初心★箕輪城121【長純寺】=長野業政の木造&供養塔&箕輪亭(きりんてい)

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  ★金富山実相院長純寺
   金富山実相院長純寺は高崎市箕郷町にある曹洞宗の寺院である。
   箕輪城主長野氏の菩提寺である。
   箕輪城主:長野業正公の墓や木造がある。・明応六年(1497)長野

   業政の父:長野信業が現高崎市箕郷町上芝(水草)に創建した(伝)。
   現在の箕郷町下芝の第五保育園付近である。しかし、明応6年(1498)長純寺が
   榛名白川の洪水で流出した。

   弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町原山)を再建した。
   その際、本郷堰より長純寺堰を掘削して、長純寺に水を引いた。(★長純寺文書)

   僕んちは長純寺の檀家であるので、何回も行っている。
  ※長野業政は「長野業正」とも書かれる。★中世文書からの有力な説は「 業正 」である。
   でも、いつも「業政」を使っちゃっている。長純寺も「長野業政公」を使っている。

   武田信玄を9年間も撃退した長野業政の寺は、墓は来迎寺、供養塔は長純寺、先祖は
   長年寺である。車なら3寺は箕輪城見学後、半日で全部回れる距離にあるので是非
   セットでどうぞ。

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  ※場所 〒370-3115 群馬県高崎市箕郷町富岡852
   027-371-3015

  ●高崎~高崎市役所箕郷支所へ
  ●高崎市役所箕郷支所~長純寺
   徒歩・・・約30分程 
   車・・・・約3~4分程  バス停はない。
  ●参道前の駐車場 自家用車等が3台・・・。ほとんど駐車可能である。
  ●説明板。
  ●石像・・・十王様&しょうつきばばあ

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                      ●石柱
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   ●山門

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   ●山門脇の臣瓦・・・ ★きっとぼくんちの先祖も寄付をした。●右に梵鐘。


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   ●本殿               長野氏の家紋・檜扇(ひおうぎ)が記されている。

 

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   ●寺宝:長野業政公の木造

  ●本堂を正面に見て左に向かう。
  ●家臣団の線香台
  ●案内版が見えてくる。 案内板では「墓所」となっているが、供養塔である。
  ●更に上に登る。
  ●案内板
  ★どこまで行けばいいんだ?と思うが、実は知ってい
   るので、箕郷梅公園から下ってきているので、最短距離10m。
  
  ●登る・・・
  ★どこまでと思うでしょうね。
   たぶん、私が知っているから、どうでもいいけど。

  ●緑色の鉄柵

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  ●全景                 ●案内板

   「長野業政公は長野氏60年間の箕輪城主の中でも最も智・仁
   ・勇を兼ね備えた名将の誉れ高い城主であり、武田信玄の数度
    にわたる猛攻にも屈せず、長野氏の全盛期を築き上げた武将で
    ある・・・。」
   ということなどが書かれている。

  ※三つの石碑がある。
  ★江戸時代以降の物と歴史を知っている人なら分かる。
   では、いつ?・・・ゴメンね。檀家なのに1回も聞いたことがない。

  ※長野業政は,業正とも書かれる。
  ★中世文書からの有力な説は「 業正 」である。
   でも、いつも業政を使っちゃっている。長純寺も「業政」である。

 ●1)長野業政の供養塔

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  ★五輪塔の時代なので、すぐ後世のの物だと分かる。

  ①中央・・・当寺開基一盛長純大居士神儀
  ②右側・・・永禄四年辛酉年箕輪城主長野信濃守  信業公之塔
  ★「信業」・・おそらくは自分の死を隠すために、自分(業政)
    の父親の名前を記したと考えられる。
    黒田基樹先生は「信業の存在を否定している
  ③左側・・・六月後一日,当時十三代実山真叟造立之

 ●2)箕輪城主始武士団物故者塔

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   墓碑の右側の供養塔・・・
  ・昭和60年(1985)に長野業政墓前で供養した時の物である。

  ●3)????の供養塔。

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 ★★昔撮った写真・・・7年前?

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  ①長純寺・・・長野業政の供養塔
   長純寺が一番箕輪城には近いが、墓ではなく供養塔である。しかし、ここに移転
   して創建した人物である。長純寺も現在「長野姓である。」
  ②来迎寺・・・長野業政の墓(伝)+35基の墓
  ③長年寺・・・長野業政の墓がなく、父までの6代の墓がある。
  ※長野→武田→滝川→北条と支配が変わる中、長年寺や来迎寺
   などとともに3つの寺が残っている。地元の人に愛されていたからだとの
   考えもあるが、そうではない。他地区から入った武田信玄や北条氏邦や井伊直政は
   旧長野氏の家臣団を大事にしたのである。

   ~~~~ 長野業政 ~~~~~~~~~~~~~~~~

  ・延徳3年(1491)または明応8年(1499)
   長野憲業?長野信業?長野方業の子として生まれた。
  ①憲業=信業は同一人物説。・・・・
  (★『箕輪城と長野氏』・箕輪町誌:近藤義雄)
  ②憲業&信業は兄弟説・・・・・・
  ③長野方業=長野業政同一人物説・・飯森康弘説
  ④長野方業の子:長野業政説・・・・黒田基樹
   諏訪明尚(松井田諏訪氏)以外の憲業の弟の存在を確認できないとして、信業の
   実在を疑問視し、憲業の後を長野賢忠(厩橋長野氏)弟:長野方業が入嗣し、
   業正はその子としている。

   長野業正の長野氏は箕輪城主の箕輪長野氏長野業氏の長野氏は鷹留城主の鷹留長野氏)
   で兄弟                (★黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」
                      『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院)

  ⑤長野業氏は長野業正の叔父説(『系図纂要』)
                      久保田順一 『上野武士団の中世史』みやま文庫
                     『群馬県史』第1巻:群馬県教育会

  ・明応2年(1492)長野伊予守業尚が建立。長年寺を開基?
                      (★「長年寺縁起ならび由来記:高崎市史4」


  ・文亀元年(1501) 曇英恵応が長年寺に入寺。
                              (★日本洞上諸祖伝等)


  ・明応6年(1497)長野信業が長純寺現箕郷町下芝に建立。
   水草という地名・・・箕郷町下芝の第五保育園付近と言われている。

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   近江の永源寺4世:幻室伊達が開基?

  ・永正9年(1513) 長野憲業は禁制を・・・・


  ・天文20年(1551) 山内上杉氏の上杉憲政が越後に逃れて
   からは,西上野の武士団を糾合した。
   武田信玄の軍勢を撃退している。

  ・弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町原山)を再建した。
                                  (★長純寺文書)
   梁14丁、柱78本のうち、
    ①柱1本・・松田
    ②柱1本・・源正右衞門尉 松田右馬助
     梁は出羽守3丁が一番多い。左衞門尉が出てくる。
     松田は右衞門尉なので、身分が高い。

  ★本郷堰(黒沢川)の旧榛名町十文字東地区から、長純寺堰を開設した。

  ・永禄4年(1561)
   『箕輪軍記』「長野信濃守卒去之事」
   「終に永禄四年林鐘廿二日に御逝去されける。其形勢媿事也。
    夫より藤井豊後守と内談して,往年の秋まで隠といへども,
    終に信玄之洩聞。信玄大きに悦び
   ・・・中略)・・・・
   長野業政一人箕輪に元住して猛威をふるひ,数万の軍兵を持度々責るといへども
   いまだ落ちず。
   業政病死せば子息右京進父におとらぬ勇士なれ共,高教業政に及ぶべからず。
   此時上野国を討取らずんば何の時か名を顕さん。」とある。

  ★何がなんでも上野が欲しい思った武田信玄はどんな手を使ってでも攻略したい城が
   と思ったに違いない。攻撃は6回説が通説であるが、私の調べでは、9回である。

   でも、長野業政の死後、嫡男:氏業(業盛)は奮闘むなしく、箕輪城で自刃した。
   あ~あ。

  ・永禄年間・・
   武田信玄により、長純寺が佐久の「竜雲寺」の末寺に編入された。
   ・・・行ってきましたよ~ん。

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  ・慶長5年(1703)? 井伊直政?直継が彦根城を造った。
   彦根の長純寺も造られた。

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 【1】本郷堰(黒沢川)・・・●本郷景忠説(★みさと散策:斉藤勲著)
   本郷景忠は後閑一族の力を借りて本郷堰を  切り開いたとある。
  ★しかし、規模的に本郷景忠だけではできない。
   長野業正が中心となって掘削したのであろう。
   弘治3年(1598) 長野業正は長純寺に水を引く計画はしたからである。 

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   ①本郷堰の取り入れ口は車川の善地駒寄&榛名町梅の木

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   (★榛名町梅の木)
  ②→榛名町十文字・・・後閑姓が多い。
  ③本流がみさと梅公園の脇を流れ、蟹沢に  向かう。
   蟹沢の西を通り榛名本郷に流れている。

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 【2】本郷堰の分流:長純寺堰

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  ◆平成24年(2014)11月1日
  ①長純寺の住職:長野信道氏を訪ねた。
   長純寺堰のコースを教えていただいた。
   「榛名十文字~群馬用水貯水池脇~下善地梅公園の 西~長純寺の裏:長野業政公の
   供養塔脇~~長純寺へ・・・・」
   お忙しいところ、ありがとうございました。

  ②「長野堰を語り継ぐ会」の中嶋宏氏に会いに行った。
   大きな地図に本郷堰&長純寺堰を記入した。

  ★私は「長野堰を語り継ぐ会」に入っている。
   私は長野業正の用水路開発&新田の経営を考えている。
   経済的基盤は田んぼなのだ。・・・・城造り&城下町造り&経済政策のための
   用水路&治水工事についてあまり語られていない。
   私は用水路という観点から、城を覗こうとも思っている。


  「長野堰を語り継ぐ会」は平成27年(2015)4月3日~
   高崎のシティホールで説明会を開く。
   中嶋宏氏の企画力や長野堰の思いは素晴らしい発表会がある。
   私も説明者側で出席しようと思っている。
 

  • 最終更新:2016-06-17 01:33:25

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