長野信濃守業政とは

長野信濃守業政とは

箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜より

長野信濃守業政とは・・・もともと長野氏に関する履歴は知られていない。江戸時代の軍記物で、信玄を数度にわたって撃退したとか伝わっている。それって本当なのだろうか?しかしこれら長野業政について少しづつ明らかにされてきている。
    singen.jpg  narimasa.jpg
インターネットで検索したら出てきた画像「信長の野望」ではなさそうだ。感謝

  • 長野業正の生誕説は、以下のの4説がある。

  ①延徳2年(1490)説
  ②延徳3年(1491)説
  ③明応8年(1499)説
  ④永正10年(1510)説

  • 長野業正の父親説は、江戸時代に書かれた系図によって6通りが考えられる。

  ①長野憲業説、
  ②長野信業(憲業弟説)
  ③長野憲業=長野信業説、
  ④長野賢忠説
  ⑤厩橋長野顕業の子、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)
   つまり先代(長野憲業・信業?)の養嗣子と成って箕輪長野家を継いだ。
  ⑥長野憲業の養子:長野方業説がある。
   つまり、方業の子どもが長野業正であるとする説(黒田基樹説)である。

  ※飯森康広説では、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説
   ということになるのかなあ?
  ※黒田基樹説では、長野方業の後を長野業正が跡を継いだ
   という考えになるのであろう。

  • ※ここでは長野業政についての出自を以下に比定してその歴史をたどって行きます。棟治

 長野業正の生誕は
  ②延徳3年(1491)説

 長野業正の父親は
  ⑤厩橋長野顕業の子、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)
   つまり先代(長野憲業・信業?)の養嗣子と成った。

  • 家督継承
   享禄3年(1530)吾妻の戦いにて、長野憲業が戦死説。
   長野業政40歳?が家督相続した。(★箕郷町誌・みさとの歴史)

  • ここでは、師のブログ
   をまとめて、以上の内容を定説として考えて行こうと思います。
   2016年中に久保田順一先生が長野氏に関する本を出版されるので
   それを元に又変更して行こうとも考えています。
棟治

【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】

以下は元になった「箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】 」

  • 長野業正の生誕説は
  ①延徳2年(1490)説
  ②延徳3年(1491)説
  ③明応8年(1499)説
  ④永正10年(1510)説の4説がある。

  • 長野業正の父親説は、江戸時代に書かれた系図によって
  ①長野憲業説、
  ②長野信業(憲業弟説)
  ③長野憲業=長野信業説
  ④長野賢忠(顕業の間違い?)説
   つまり長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)
  ⑤長野憲業の養子:長野方業説がある。
   つまり、方業の子どもが長野業正であるとする説(黒田基樹説)である。

  • 黒田基樹の新説の特徴は
  ①松井田諏訪明尚以外の憲業の弟の存在を確認できないとして
   長野信業の実在を疑問視していること。

  ★確かに16系図の中には、信業のないものも多い。
   しかし、長野信業は上杉から『憲』の一字を貰って憲業と改名した。
   (近藤義雄説)がある。弾正系図・極楽院系図。

  ②長野憲業の後を厩橋長野賢忠の弟:長野方業が入嗣(養子)となり
   長野業正は実子であるとしていること。

  ③また、享禄の乱の長野氏が上杉憲政に敗れたことをきっかけに
   和睦のために、安中氏&高田氏と関係を深めたということ

  ④黒田説は【西上州の中世】では、安中の石井系図から
   里見氏と長野氏と安中氏の関係を重要視している点にある。

  • 年表&系図で比較・・・今回は今まで書いた長野氏の戦国時代の歴史に黒田基樹説を書き加えながら、年表&系図で比較してみようと思う。
    nagano_keizu01.jpg
   (★西上州の中世より)

  ◆◆ 長野氏の歴史 ◆◆

  • 延徳2年(1490) 長野業正が誕生説。(1510年説もあり?)

  • 延徳4年(1492) 長野業尚が榛名に長年寺を創建。

  • ・・・年(1496)戸榛名神社安堵状

  • 明応6年(1497) 長野業尚か憲業が箕輪に長純寺を創建。 (★みさとの歴史)

  • 文亀元年(1501) 長年寺が創建:長野業尚

  • 永正6年(1509) 宗長の『東路の津登』

   宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
   新田:岩松~大胡~青柳~荒蒔~浜川~大戸~草津~
   大戸~依田で句会~
   浜川松田氏の元で句会「多胡碑に石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」~鉢形

  • 永正9年(1512)上杉憲房の禁制
   長野憲業の壁書:長年寺

  • 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)            
   長野憲業が家督を継承。

  • 永正元年(1504) 上杉 VS 北条早雲  
   長野房兼が上杉に味方し、討ち死に (★近藤先生の群馬県史)

  • 永正3年(1506)~4年 古河公方内の相続争い

  • 永正7年(1510) 長野業政が誕生説?(1490年説あり?)
   長野憲業死亡説
   弟:長野信業が鷹留城主から箕輪城主となったする説がある。

  • 永正9年(1512) 長野憲業が長年寺に壁書を提出。(★榛名町誌・新編高崎市史:久保田順一先生)
  ★長野憲業の死亡1510年説は確実に違っていることが分かる。  
    kabegaki01.jpg

  • 永正10年(1513) 長野憲業の立願状:榛名神社
   長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。大戸城の攻略を祈願(★みさとの歴史)
   (*海野棟綱の息子?娘婿?真田幸隆誕生・・・・説が4つ。)

  • 永正12年(1515) 上杉憲房(山内上杉家初代)が関東管領になる。

  • 大永元年(1521)  武田信玄が誕生。

  • 大永4年(1524) 長尾顕景(惣社城:現前橋の総社神社付近)が北条氏綱(2代目)に内通した
  *北条氏綱が江戸城の奪取

  • 徳雲軒の文書2説
   大永4年(1524)説&大永7年(1527) 説

   大永7年(大永4年)の箕輪にいる『長野方業』
   『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著(2002)で初めて紹介された。
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    ●『徳雲軒性福条書写:上杉文書』 

~~~徳雲軒~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 大永4年(1524)
   惣社長尾顕景と白井長尾景誠が北条氏綱・長尾為景と結んで関東管領
   上杉憲寛(憲房と思われる)に叛旗を翻した。

   ※大永5年(1525年)に憲房が死去した時、実子の憲政は幼少だったことから
    憲寛は、跡を継いで関東管領となった?。Wikiより

  ▲久保田順一先生(流れからして久保田先生が大永4年に比定されたであってるかな?)

  大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
   久保田先生・・・10年前に発見された文書密書で10cm×15cm位の大きさ
   総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書

    其夜可被仰付事
  一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、
   ※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、乱暴はしないでくれ。

  一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、
   ※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、各自、
    たしなみ=武器をきをつけてくれ。
    つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
  一、
  一、
  一、まやはし殿御人数いそき東口へ・・・
  一、

   12月2日

  群馬県史の「徳雲軒性福宛長野方業書状」
    ・・・・略・・・

   11月17日
    左衞門太夫方業(花押)
                    徳雲軒

  ※久保田新説・・・長野方業=業政は同一人花押から推測できる。
    と、おっしゃっていた。2度目は久保田先生は、言葉を濁している。

   長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
   長野左衛門大夫方業が箕輪城主として文書を発給している。
                          (★徳昌軒の文書)

   ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
   長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰め
   られた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介で降伏した。

  ★なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされているので、長野方業と
   長野業正が父子かもしれない。

  • 大永5年(1525) 上杉憲憲寛が関東管領になる。

     上杉朝興 VS 北条氏 

   長野業政の次男吉業が誕生?

  • 大永6年(1526)長野信業は長子:業氏に鷹留城を与えた。 (★群馬県史)
   長野憲業=信業同一人物説もある。

  • 大永7年(1527)

  • 飯森康広先生説の系図
                 
  ①浜川・・・長野為兼=為業   
          ↓
  ②室田・・・   業尚=尚業→憲業・・・・・業氏?
                    ↓
  ③箕輪             方業=業政?→氏業

  ④厩橋:長野周防守?・宮内少輔→賢忠→・・・・・道賢

  ▲飯森康広説「長野方業=長野業政」
   ・・・あるいは業政の父である。」
   飯森康広氏は「長野方業=長野業政であると思われます。」
   と、言われた。

  • まさなり=なりまさ ・・名前が逆になっている。これは、
   鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。
   飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
   厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていましたが、

   米沢の上杉家文書では

  ①大永7年(1527)11月27日・・
   箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・白井長尾景誠
   の排除を徳雲軒と謀る。

  ②大永7年(1527)12月16日・・ 
   箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
   を攻めすすめる。  

  ③天文4年(1535)4月・・・飯森康広先生
   □(長野方業) 榛名神社に制札を出す。(榛名神社文書)
   長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城したことが、上記の
   2文書から判明しました。」と飯森先生がおっしゃった。

   つまり、長野方業=長野業政である。

  ★群馬県埋蔵文化財:飯森康広氏の考えである。

黒田基樹説

  • ?????
   惣社長尾顕景&白井長尾景誠が越後の長尾為景に内通した。

   黒田先生は、 大永4年(1524)説&大永7年(1527) 説
   について、まだ年代を比定されていないのですね。 棟治

   11月27日・・
   箕輪の長野左衞門太夫方業が総社長尾顕景・白井長尾景誠
   の排除を徳雲軒と謀る。

   長野左衞門太夫方業は、弟の厩橋城主の左衛門大夫方業
   とともに惣社長尾顕方が後北条方に通じたことを口実に、領土
   拡大を目論んだ。

   長野左衛門大夫方斎が厩橋宮内大夫とともに総社城にあった総社
   長尾氏の長尾顕景を攻撃した。

  ※この長野左衛門大夫方斎(今は方業)と厩橋宮内大夫は誰か諸説
   あってはっきりしない。 

   長野憲業・・・1510年死亡説?・1530年死亡説もある

  • 長野左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられている。
  ①『日本城郭大系』では、箕輪城主の長野信業
   『箕郷町誌』(箕郷町1975年)では長野信業=方斎 (★近藤義雄先生)

  ②『群馬新百科事典』(上毛新聞社2008年)の「長野氏」(飯森康広著)
   では長野方業=長野業正(★正式名:業正である)同一人物説・・・花押も同じ。

  ③『群馬県史 通史編3』では。長野方業=方斎』

  ④戦国のコミュニケーション』(山田邦明著2010)
   方斎ではなく、方業である。

  ⑤黒田基樹論文 方斎は方業の誤読とする。
   厩橋長野方業が箕輪長野氏に養子に行った説。
    nagano_keizu02.jpg
    ※厩橋宮内大夫も諸説ある。

  • 秋本太郎先生の講演会資料
  ①長野方業=方斎?(厩橋城=前橋城)が惣社城長尾顕景を攻撃。
   箕輪城長野憲業+厩橋城長野宮内が、総社長尾氏が挟み撃ちにした。

  ②→惣社城長尾顕景+白井城長尾景誠が応戦。

  ③→越後の長尾為景(上杉謙信父)に援助要請。

  ④長野方業も長尾に仲裁請求。(★群馬県史:近藤氏・峰岸氏)
   (唯一の長野氏関係の文書上の初・・・・秋本氏)

  ⑤箕輪城主長野方業(業正?)に攻められ降伏した。

  ⑥西上野を掌握した業正は長尾顕景を隠居させて嫡子:景孝
   に惣社長尾氏を継がせた。
   ★仲裁には関東管領:上杉憲房か長年寺・長純寺和尚が立ったのでは?

   12月16日・・ 
   箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城を攻めすすめる。  

  • 享禄元年(1528)白井長尾景誠が家臣に殺害された。
  ★長野方業の陰謀か?
  ※筋書きを推察・・・景誠は長尾家を盛り返そうと後北条+長尾為景と
   結ぶ画策(誘いがあった)をした。長野派の家臣(嫁について行った)
   が業政に密告した。業政は憲寛に相談した。憲寛は長尾家の粛清を命じた。
   業政は長尾家臣に命じた。考えすぎかな・・・      棟治

   長尾景誠には男子がないために、跡継ぎ争い。
  (※長尾景誠は長野業政の姉が景英に嫁いで生んだ子で業政の甥)
  
長野憲業(事実上は業政)は白井長尾氏の家督相続に介入。
   惣社長尾氏から長尾景房を迎え白井長尾氏を継がせた。

  ①白井城長尾景房は惣社城長尾氏とともに山内上杉氏に復帰説。
  ②長尾顕景次男:憲景を白井長尾氏当主に擁立説

  ★長野憲業(事実上は業政)が。両長尾氏の復帰について、関東管領
   上杉憲寛を動かしたのでは? 
   長野憲業は両長尾家に恩を売る形で上に立ったのでは?

   長野一族は山内上杉氏家の最有力者に台頭したと思われる。
   その地位においては、上杉家家宰の足利長尾氏に譲るが
   実力(軍事力)おいては抜きんでた存在となった。

-関東享禄の内乱・・・黒田基樹
   享禄2年(1529)~享禄4年(1531)

   第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
   よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
   関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

1)古河公方家
  • 享禄元年(1528)12月27日 古河公方家嫡男:足利晴氏が元服した。

  • 享禄2年(1529) 安房里見義豊が古河公方足利家当主として、
   足利晴氏を挙げた。
   古河公方:足利高基と晴氏の抗争が始まった。
   5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した。

  • 享禄4年(1531)
   6月1日 
   足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討した。
   足利政氏から足利基頼宛の書状が届いた。
   6月6日 足利晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、
   足利政氏の治療を指示した。
   6月9日 足利高基が小山小四郎に対して隠居を知らせた。
   
2)山内上杉家の内紛
  • 享禄2年(1529)
   1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』)
   8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。
    (『続本朝通鑑』)
   9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
   ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。

   上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。
                                 (★黒田基樹)
   長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS
   小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政
   安中城付近で交戦

   上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田(高崎市保渡田)に後退した。
                                 (★『続本朝通鑑』) 
  • 享禄3年(1530)
   5月 
   「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた。
   棟治はここを長野業政(左衛門尉)が、小幡攻めした時に意地悪しないよと
   禁制を与えたんじゃないかなと考えた。

   甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。

   5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の戦勲に対して
   感状を発給した。

   10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官
   三富平六に与えた。

  • 享禄4年(1531)
   9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して
   晴直と名を改めた。

  • 参戦武将・・・黒田基樹著

  ①勝者側・・・
   第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
   第2代公方足利政氏、
   足利基頼(高基の弟)
   宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?

   山内上杉氏 :上杉憲政
   安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
   小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
   藤田業繁
   用土業国(武蔵国:用土城)
   成田親泰(武蔵国:忍城)

  *この時憲政を担ぎ上げて、後に北条氏に与して真っ先に陥れたのは
   この勝ち組の誰かさんであるが、これは何の因果であろうか・・・棟治

   小弓公方:足利義明
   里見義豊(安房国:)

   上杉朝興(武蔵国:川越城)

  ②敗者側
   第3代古河公方:足利高基(古河城)
   小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)

   山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
   長野氏:長野方業?(上野箕輪城)
   高田憲顕(上野高田城)
   三富平六(子孫は赤城村)


  • 結果
  1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
  2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲。

   結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

  ※箕輪長野方業が敗れている。上杉憲寛方の諸氏は許された。

   長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
   あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
   その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
   安中重繁に嫁がせた。
   さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
   これによって、和解が図られている。
                            (★黒田基樹)
参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 洋泉社2011
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 戎光祥出版 2012
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 岩田書院 2013
・『西上州の中世』:安中市・・・ふるさと学習館

参考サイト
・ウィキペディア

※黒田基樹氏はこのことから、長野憲業の後に、長野方業が継いだという考えになった。

  • 享禄3年(1530)吾妻の戦い
   長野憲業が戦死説。長野業政40歳?が家督相続した。
                            (★箕郷町誌・みさとの歴史)
※飯森康広説では、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説ということになるのかなあ?

※黒田基樹説では、長野方業の後を長野業正が跡を継いだという考えになるのであろう。

  • 天文2年(1533) 里見義樹(後、石井信房)が生まれた。
 
   里見氏始祖義俊16代目:安房稲村城主(館山市)の里見義堯の次男として生まれた。
   母は箕輪城主:長野憲業の娘であった。
   幼名を文悟丸と言った→里見義樹と名乗った。

  • 天文4年(1535) 上杉憲政の制札:榛名神社

  • 天文5年(1536) 武田晴信書状写:里見家文書

  • 天文15年(1546) 川越の合戦・・・長野吉業没? 
  ★里見義樹が長野業正の養子となり、長野義樹となった。になる。

  • 天文16年(1547)長野氏業(業盛)が生まれた。
   長野義樹は業盛が生まれたので・・・・

  •  ????年 石井城主石井信房(現前橋市富士見)
   長野信房は石井城(前橋市富士見町石井)を任され、石井信房を名乗った。

   下田姓が多い。
  ①最初から第2家老:下田大膳が富士見に(知行を持って)いた説 (★棟治氏説)
   山内上杉家にかかわりのある、伊豆下田から追われて管領を頼って上野に来た。
   富士見に知行を与えられた。勢いを増してきた長野家の与力に組み入れられた。
   そしていつの頃からか、家老となった。初めは長野家への目付だったのかな?
   棟治はかってに、このように想像したのです。
   
  ②石井が永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主となったので
   下田大膳が富士見に入った説 (★西原巌説)

   ★石井信房は先に富士見→鷹留城なのか。
    鷹留城→富士見→鷹留城なのが分からない。

  • 天文18年(1549) 三寺尾の合戦 里見義光没 
  
  • 天文20年(1551) 長野信業没説
   長野弾正系図や極楽院長野正夫系図には信業はいる。
   11月7日に没した。法名は「南方長宗」である。  
  ※黒田氏は否定していることになる。

   長年寺の墓にはない。
    nagano_keizu03.jpg

   2月 長野(後石井)信房が鷹留城守将となった。

  • 弘治元年(1555) 里見河内が雉郷城に入城。

  • 永禄元年(1558) 石井信房は鷹留城主であった。(★箕輪城着到帳)

  • 永禄3年(1560) 里見義尭が長尾景虎に越山要請(正木家文書)
   長尾景虎の第一次関東出兵

  • 永禄4年(1561) 長野業正没 
   長野氏業(業盛)が14歳で家督を継ぐ。

  • 永禄6年(1563) 2月21日 石井信房没 討死。31歳。
  ◆里見義樹=長野義樹=長野信房=石井左京大夫讃岐守信房

  • 永禄6年(1563) 武田信玄への受連の制札

  • 永禄9年(1566) 9月29日(11月2日)箕輪城落城
  ◆長野氏業(業盛)自刃
   長年寺受連の制札

「長野氏系図」・・・長野弾正氏所蔵文書{箕郷町誌}」
    nagano_keizu04.jpg

◆第?代平城天皇阿保親王→在原業平→在原業重 [#zab81e65]
   (上野国司)…業康(石上姓→長野上野守)・・業忠・・
   業廣・・・為業・・・経業・・・義業・・・豊業・・・
   治業・・・業定・・・業久・・・安業・・・友業・・・
   業時・・・業頼・・・盛業・・・貞業・・・運業・・・
   繁業・・・景業・・・業正・・・業之・・・業明・・・
   業頼・・・乙業・・・隆業・・・業次・・・業末・・・
   業経・・・業尚・
                  (★長野氏興廃史斎藤平治郎著)

物部氏石上… (不明?) の子孫   [#qde64b43]
→①長野業尚→②憲業→長男:業氏(鷹留城)→業通
   ↓      ↓           女子5人
   →方業厩橋城 ↓           勝業
          ↓           業固
          ↓    
          →次男③業政→ 吉業
                 ④業盛(=氏業)→業国 

   業盛の子:亀寿丸「長野氏興廃史」:鎮良「箕輪城考」
   業政の娘女子12人 

   ①小幡城主内上
   ②国峯城主内上
   ③武州忍城主内上
   ④木部殿内上 
   ⑤大戸城主内上
   ⑥和田城主内上
   ⑦倉賀野城主内上
   ⑧羽尾城主内上
   ⑨浜川殿内上(★浜川砦:浜川六郎か?)
   ⑩厩橋城主内上
   ⑪鷹ノ巣城(板鼻)主内上
   ⑫室田城(忠業)主内上

簡単にすると
  ①長野業尚→②長男憲業 →長男:業氏:鷹留城→業通
         次男:信業
         3男:方業     
               次男:③業政→吉業
                     ④業盛→亀寿丸=鎮良
                       女子12人 
               3男:直業(箕輪富岡)


※長野業尚=尚業の長男が憲業・・・上杉憲房から「憲」を貰った。で、
   次男が長野信業
   3男は長野方業:厩橋城である。

※こういう系図もあるという事で、棟治としては憲業(信業)の養嗣子が方業(業政)と考えています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  • 長野方業(?~1560)
   長野業尚の3男。長野業正の叔父と表記されている。
   定説は厩橋城主。賢忠、玄忠、宮内大輔ともいう。

  ※飯森康広先生は長野方業=業政である。

  • 大永7年(1527)12月
   賢忠は、兄:信業と共に総社長尾顕景を攻撃

  • 天文10年(1542)
   賢忠は、佐野昌綱、成田長泰、那波宗俊とともに太田金山城
   横瀬(由良)泰繁を攻撃した。
   しかし、境城主:小柴長光の由良泰繁への寝返りで失敗した。

  • 永禄3年(1560)長尾景虎の第一次関東出兵・・降伏。
   子の長野彦九郎、長野大学の兄弟を使者としたが、
   馬が暴れ、謀反と勘違いされ、長尾景虎=上杉謙信の命令で
   討たれてしまった。3日後に長野方業も病没した。

  • 長野彦九郎 (?~1560)
   長野方業の子。
   永禄3年(1560)、上杉謙信に臣下になろうとしたが、馬が暴れ
   謀反と勘違いした長尾景虎に殺されたという。

  ★長野彦九郎は武田信玄の間者に謀殺されたのかもしれない。
   厩橋城は柏崎の北条(きたじょう)高広に任された。

  • 長野道安 (?~?)
   長野方業の子である。
   永禄3年(1560)、長尾景虎(=上杉謙信)の第一次関東出兵
   厩橋城は攻略され、家臣となった。子は長野藤九郎道賢と彦七郎である。

※と言う説がとられていたが、方業は業政であるとここでは考えている 棟治
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※憲業の子どもは長男は長野業氏、次男が長野業正(業政)
3男:直業である。

  • 長男:長野業氏 (?~1538年)
   長野信業の長男と表記されている鷹留城主であった。
   天文七年四月、病にて没す。法名「以山長伝」。
   子は業通、業国、業勝。

  • 次男:長野業政

  • 3男:長野直業=石上直業 (?~?)
   長野信業の3男・・・現箕郷町富岡に在住。
   車郷小学校&飯守神社&童子砦&稲荷砦一帯が
   城であった可能性がある。・・・箕輪城を守る為の大きな城があったと考えている。

  ※小花和業修系譜では、小塙若狭守高成と改名している。
   小塙(現高崎市小塙町・・)7邑(村)を領有している。
   箕輪城主:長野業盛の義弟であったともいわれている。

   長野氏が武田信玄に滅ぼされた後、小塙に住んで小花和姓を名乗っていたという。
   しかし、ここには1575年頃には大熊氏が入っていたという記録がある。
                   (★生島足島神社・・・内藤豊後守の家臣を拒否)

  • 小花和度正(こばなわなりまさ)日光奉行などを務めた。

  • 長野桂次郎=立石斧次郎
   万延元年(1860)立石斧次郎は、日米修好通商条約の批准書
   交換の派遣船=米国軍艦「ポーハタン号」で渡米した。
   遣米使節に「給料はいらないから・・・」と言って、通訳見習として16歳で随行した。

  ★きっと小栗上野介に可愛がられたのであろう・

   好奇心と物おじせず奔放にふるまいから、アメリカ女性に
   「トミー」と呼ばれる人気者となった。

   トミーは小花和度正の2男に生まれた。本名:小花和斧次郎
   (おのじろう)であった。明治維新後は新政府に勤めた。

  ★高崎市倉渕村の村上泰賢先生の「東善寺」説明がある。


  • 長野智子・・・フジテレビ 長野桂次郎の曾孫

  • 長野鎮良=別系図では亀寿丸
  
  • 長野業宗 (?~?)
  長野鎮良の長男。
  ※「浜川道場長野弾正氏所有の系図」の別記に名がある。
 
  • 長野豊業 (?~?) 長野鎮良の次男。
  ※「浜川道場長野氏所有系図」の別記に名がある。

  • 長野業成 (?~?) 長野鎮良の三男。
  ★「浜川道場長野氏所有系図」の別記に名がある。

  • 娘12人・・・「浜川系図」によれば12人。
   城主の実名は記載されていない。
   小幡城主小幡信貞室(長女)
   国峰城主小幡景定室(次女)
   忍城主成田室(三女)
   山名城主木部定朝室(四女)
   大戸城主大戸左近兵衛室(五女)
   和田城主和田業繁室(六女)
   倉賀野城主金井秀景室(七女)
   羽尾城主羽尾修理亮室(八女)
   浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室(九女)
   厩橋城主・長野氏室(十女)
   板鼻鷹巣城主・依田氏室(十一女)
   室田鷹留城主・長野業固室(十二女)
                 (★『箕輪城と長野氏』近藤義雄著1979年)

    nagano_keizu05.jpg

  ①長野業行→長男:業高
       ②次男:憲業=信業→③業政→女子12人 
                妹=安中忠政妻
                妹=里見義堯妻
      女=和田重能妻
      女=倉賀野為広妻        
        藤井定俊

  • 藤井定俊(=藤井豊後守友忠:一般的には)
   「石井泰太郎氏所有の長野氏系図」には藤井定俊は長野憲業の
   弟と記されている。浜川城主。
   永禄6年(1563) 若田ヶ原合戦
   住吉城(高崎市沖町)より500騎を率い、武田信玄の家臣:
   内藤昌秀を安中まで撤退させた。

  • 藤井友安 (?~?)
   藤井定俊の長男である。

  • 藤井忠安 (?~?)
   藤井定俊の次男である。

※長野憲業=長野信業家督は次男業政が継いだ。
   長野業政の子どもは①女=娘11人・・・
   女:和田新兵衛朝常妻・・・★和田城
   女:長尾弾正正景妻・・・・★厩橋城
   女:沼田万喜斎入道妻・・・★沼田城
   女:岡本兵部少輔持村妻・・★群馬サファリの地区
   女:小幡尾張守信定妻・・・★小幡館&国峰城
   女:小幡図書之助妻・・・・★宮崎城・神成城
   女:木部弾正宮内少輔妻・・★高崎堀の内&山名城
   女:倉賀野淡路守妻・・・・★倉賀野城
   女:安中越前守妻・・・・・★松枝城(松井田城)

  ②義樹・・・(養子・信房)・・★石井城(現前橋市富士見)
   石井讃岐守・・・・・★鷹留城(旧榛名町)
  ③業盛→曽平之進
   女:・・・舞鶴姫
  ④宗誉

  • 石井義樹=里見義樹(1533~1563) 
   「石井泰太郎氏の所有長野氏系図」には長野業正の養子
   と記される。安房稲村城主:里見義堯の次男:文悟丸である。
   系図は長野業正の妹を里見義堯室としている。

  ★この縁で養子縁組みしたのかもしれない。

1)里見繁美先生はこの説を強調している。

   石井信房(左京大夫讃岐守)
   里見氏始祖義俊16代目:安房稲村城主(館山市)の里見義堯
   の次男として生まれた。母は箕輪城主:長野憲業=信業の娘であった。
   幼名を文悟丸と言った→里見義樹と名乗った。
  
  • 天文15年(1546) 川越の合戦・・・長野吉業没? 
   憲業=信業の子:業正の養子となり、長野信房を名乗った。

  • 天文18年(1549) 里見義光没 

  • 天文20年(1551) 長野信業没 
   2月 長野信房が鷹留城守将となった。

  • ???? 石井城主石井信房(現前橋市富士見)

  • 永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主

  • 永禄3年(1560) 里見義尭が長尾景虎に越山要請(正木家文書)

  • 永禄4年(1561) 長野業正没 父の死により、長野氏業(業盛)が14歳で家督を継ぐ。

  • 永禄6年(1563) 石井信房没 2月21日、討死。31歳。

  • 永禄9年(1566) 箕輪城落城

2)黒田基樹先生も『西上州の中世』において、強調されている。

  ①長野憲業の子ども
   長男:長野業氏
   次男:長野業正 
   娘・・・・・・・石井信房の妻
  ②安中重繁(忠政)・・妻:沼田顕泰の娘(長野業正の妻と姉妹)
  ※石井系図では、
   長男:安中景繁・・妻は長野業氏の娘→長野業正の養女
  ※長年寺系図では、妻は長野業氏の娘

   ほかに妻は甘利昌忠の妹(★甲陽軍艦)がいる。

  ①里見義樹は長野業政の妻の甥に当たる。
  ②里見義樹は長野業正の娘を結婚し、養子となった。


  • 宗誉・・・★長年寺の僧になったのだろうか。

【系図3:「長野記・・・長野氏系図?」】

  ①長野業尚→②憲業→長男:業氏(鷹留城)
           ③次男:業政→吉業 
                  氏業
                  女12人

  ※長野業尚・・・箕輪に城を築き・・とある。

~~~長野業氏の子ども~~~~
  • 長男:長野業通 (?~?)
   長野業氏の長男。鷹留城主。
   長野業正の12女を娶ったという系図もある。
   鷹留城は箕輪城に近く、箕輪長野氏の重要な拠点だった。
   永禄9年(1566)、武田信玄に攻められ兵数100で防戦。
   しかし、鷹留城が落城し、弟の業固とともにに吾妻に
   逃れた。子は広賢とある。

  • 女5人

  • 次男:大森別当 (?~?)
   「長野記」、「箕輪城及鷹留城子孫記」に長野業氏の子として
   記されている。

  • 3男:長野業勝 (?~1566)
   長野業氏の次男または3男である。
   永禄9年(1566)、武田信玄に攻められ箕輪にて討死した。

  • 4男:長野業固 (?~?)
   長野弾正忠。
   「箕輪城及鷹留城子孫記」では信州上諏訪に移り、長野次郎
    右衛門と名を改め、上諏訪で没したという。
    子は業利である。

  • 5男:長野業広 
   永禄9年(1566)、武田信玄に攻められ箕輪にて討死した。

  • 6男・長野勝業 (?~?)
  ※「和田山極楽院長野氏系図」には長の業正の末弟:信業
    の長男と記されている。
   長野新六郎。長野方業の養子となった。
   永禄9年(1566)、武田信玄に攻められ箕輪にて討死した。
  

~~~長野業正の子供 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  • 長男:長野吉業 (?~?)
   天文15年(1546) 4月、河越の夜戦
   山内上杉憲政+扇ヶ谷上杉 VS 北条氏綱
   北条家との合戦により重傷を負った。
   傷が癒えず、旧群馬町の菅谷城で没している。
   ・・・子孫は福田姓を名乗っている。
  ★福田赳夫さんや康夫さんも子孫なのだろうか?

  • 次男:長野氏業 (1544~1566)
   永禄9年(1566) 箕輪城落城
   辞世の句

   「春風に 梅も桜も 散り果てて 
    名のみぞ残る 箕輪(みわ)の 山里」
   自刃・・・無念じゃ。

 

「極楽院長野正夫氏所蔵文書{箕郷町誌}」
    nagano_keizu06.jpg

  (★関係ないけど、父は長野正夫氏に高等科で2年教わった。)

乙業→尚業(鷹留城・長年寺)・→憲業
  →憲業の弟・信業→長男:亀寿(早世)
           次男:業氏(三河・伊予守)
              →業通→業康→吉蔵
              →吉三郎
              →業固
              →大森
              →女子2人 
  ~~~~~~~~~~~~~
   →信業3男?:業政→吉業(沼田腹、16歳で卒)
            →女10人
            →業盛(保渡田腹)→亀寿丸:(鎮良)
            →女2人
   →憲業4男:直業・・→勝業(方業の養子)
               →新七郎
               →新八郎
        ・・・・→女子   
   →憲業弟方業
     ・・・・・→業吉(高浜居住)・→氏業
              →女子  
     ・・・・・女2人

  • 長野業氏・・・長野信業の次男としている。


【系図5】「箕輪城及鷹留城子孫記」
  ①「箕輪城及び鷹留城子孫記」・・・天保9年8月9日
   「群馬県議会図書室所蔵文書}」
   業政・・→業鷹(沼田腹の子・・★たぶん沼田顕定の娘
     →女子12人
     →氏業右京進業盛(保渡田腹の子)・・・
          後、鎮良。極楽院の長野。
           →忠業=後、道場(浜川町道場)の長野
   →次男:大森の別当
           →三男:忠業(信州に在住後、○○城で死亡)
            ・・・・→正業(★下仁田の長野氏)
   三河守業氏・→長男:業通・→長男:業広(春日山高田在)
         →次男:彦根長純寺の僧(井伊家中老・家老)
         →三男:上州岡本(富岡市神農原)の西法寺住職。
         →女三人
        
  • 長野忠業 (?~?)  長野業正の3男と記されている。
   長野弾正、長野出羽守、浜川幽喜斎。浜川館主。
   天正14年、沼田攻めに参加した。
  ※この系図は長野忠業を道場長野氏の祖としている。

  • 長野新八郎 (?~?)
   長野信業の3男。
   永禄2年(1559) 白岩山長谷寺に太刀2振を寄進した。

  • 長野出羽守業親 (?~?)
   彦根藩の記録によると、長野業親なる人物が業正の子としてあり、
   業親の子・伝蔵が井伊直政に仕え、次席家老となったという。
   ただし、業親は長野氏の系譜に全くみえず、庶子か養子とみられる。
                       (★『高崎市史 通史編2』)
   実際は3席家老である。
   主席・・・木俣守勝
   次席・・・庵原(今川家家老)
   3席・・・・長野
                       (★彦根城博物館)


【6】 「長年寺所蔵文書長野氏系図」
                 {新編高崎市史1964資料編4}

  ①長野業尚→②憲業→業氏(鷹留城)→業通
     ↓       ↓    女子3人
     ↓       ↓   大森別当
    ↓       ↓    業固
    →方業(厩橋城)↓    勝業(箕輪城討死に)
            ↓      業固
           ↓    
           →③業政→吉業
                ⑤業盛(=氏業)→業国 亀寿丸

               「長野氏興廃史」:鎮良「箕輪城考」                      

【8】 「長野稔氏所蔵文書長野氏系図」
  {新編高崎市史1994資料編4}

【9】~【14】

【15】 「羽田氏系図=元総理大臣羽田孜氏の系図」 長野業政妹が祖
  
  •  ※黒田基樹氏は当時の古文書に登場する名義は受領名の「信濃守」であり、「業正」「業政」が実名である事を裏付ける文書は今の ところ確認されていない。

  • 最終更新:2016-06-22 16:15:54

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