長野信濃守業政の登場

長野信濃守業政とは

長野業正の実像に迫る・・・20160827の久保田先生講習会より
箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827「長野業正:新系図発見」より

長野信濃守業政とは・・・もともと長野氏に関する履歴は知られていない。江戸時代の軍記物
 で、信玄を数度にわたって撃退したとか伝わっている。それって本当なのだろうか?しかし
 これら長野業政について少しづつ明らかにされてきている。
箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】より

白井城と長野氏の台頭 その1・・・戦国中期に上野長野氏が台頭するが、その事と白井長尾氏
 は深く係っていると考えれれる。これについて今まで分っている事を踏まえて、その歴史を
 探って行きたいと思います。

白井城と長野氏の台頭 その2・・・上杉憲房が関東管領に着き、憲寛・憲政と変わって
 いった。その中で方業から業政と名乗りを変え、上野最大の国衆となったその歴史を探って
 行きたいと思います。

    singen.jpg  narimasa.jpg
インターネットで検索したら出てきた画像「信長の野望 戦国立志伝」だったではなさそうだ。感謝

  • ◆長野業正の生誕説は、以下のの4説がある。

  ①延徳2年(1490)説
  ②延徳3年(1491)説
  ③明応8年(1499)説
  ④永正10年(1510)説

  • ◆長野業正の父親説は、江戸時代に書かれた系図によって6通りが考えられる。

  ①長野憲業説、
  ②長野信業(憲業弟説)
  ③長野憲業=長野信業説、
  ④長野賢忠説
  ⑤厩橋長野顕業の子、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)
   つまり先代(長野憲業・信業?)の養嗣子と成って箕輪長野家を継いだ。
  ⑥長野憲業の養子:長野方業説がある。
   つまり、方業の子どもが長野業正であるとする説(黒田基樹説)である。

  ※飯森康広説では、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説
   ということになるのかなあ?
  ※黒田基樹説では、長野方業の後を長野業正が跡を継いだ
   という考えになるのであろう。

  ※「長野業政は室田長野氏の一族で、箕荘園公領制輪城主となったと考えられる」
「長野業政と箕輪城」(久保田順一氏著 2016.12月)のはしがきより 

  • ※ここでは長野業政についての出自を以下に比定してその歴史をたどって行きます。

 長野業正の生誕は
  ②延徳3年(1491)説

 長野業正の父親は
  ⑤厩橋長野顕業を父とする、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説(飯森康広説)
   そして箕輪長野氏の先代(長野憲業・信業?)の養嗣子と成った。

 長野業正の室は
   ①正妻は扇谷上杉朝良の娘 ②沼田顕泰の娘 ③上泉伊勢守の妹 
   ④女(保渡田腹) ⑤里見河内守の娘(:安房里見氏の娘だったら良いな) ⑥他

 長野業正の兄弟・姉妹は
   ①宮内少輔賢忠 ②長野業氏 ③妹:里見義堯正妻

 長野業正の子供たちは
   ①吉業 ②義樹(養子:信房) ③氏業=業盛 ④娘たち12人 ⑤他

  • 家督継承
   享禄3年(1530)吾妻の戦いにて、長野憲業が戦死説。
   長野業政40歳?が家督相続した。(★箕郷町誌・みさとの歴史)

  • ここでは、師のブログ
   をまとめた、以上の内容を定説として考えて行こうと思います。
   2016年中に久保田順一先生が長野氏に関する本を出版されるので
   それを元に又変更して行こうとも考えています。

  • ※黒田基樹氏は当時の古文書に登場する名義は受領名の「信濃守」であり、「業正」「業政」が実名である事を裏付ける文書は今の ところ確認されていない。
棟治

長野信濃守業政の登場

  • 延徳3年(1491) 長野業正が誕生。 上杉顕定(37才)・憲房(25才)
  ・長享2年(1488)上杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房白井城を継いでいた。
   (文明9年(1477)~ 長尾景春の乱以来白井城は、上杉家の管理下にあった。)
   この当時白井周辺と赤城山西・南麓の領主たちは白井衆に属していたと思われる。
   仮説 厩橋長野顕業(白井衆)を父、尚業系の女を母として厩橋にて生まれる。
   それとも白井長尾氏からもらった母の方が面白いかな?

   9月 伊勢宗瑞は拠点を駿河に移したが、今川氏親と幕府の取次を行っていた。


   伊勢宗瑞+扇谷上杉定正は、武蔵・相模にて山内上杉顕定+茶々丸と戦う。 

  • 明応3年(1494) 山内・扇谷両上杉氏の抗争が再発。
   9月上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。
   10月2日定正は、高見原(小川町)・塚田(寄居町)と進出し、荒川を挟んで対陣した。
   ところが、荒川渡河中に落馬して上杉定正が急死したため、伊勢軍は撤退した。

   上杉顕定は東国における「古河公方&管領体制」の再構築を図っていた。
   特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎え、密接な関係を築いた。
   これにより、古河公方は一転して山内上杉方となった。
   上杉顕実は憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な家督後継者に据えられたと考えられる。
                             (★久保田順一先生の講演会)
  • 明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
   7月 伊勢宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を攻略した。
   この事により、相模の西郡は「一変」した。
   上杉顕定は、扇谷上杉定正の跡を継いだ、上杉朝良の出陣を受けて河越に軍を進めた。

   榛名神社安堵状

  • 明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   顕定は、古河公方:足利政氏を招いたが、数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
   上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能した。

  • 明応7年(1498)8月25日 明応の大地震 伊豆半島に大津波が押し寄せた。
   伊勢宗瑞は善政を敷いて、伊豆における人心の把握を行ったとされる。

   長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を招いて長年寺を創建?(★秋本太郎先生)
   長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。

  • 文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。(★みさとの歴史)            
   長野憲業が家督を継承。

  • 永正元年(1504)
   長享2年(1488)杉定昌(顕定兄)死去に伴い、上杉憲房は白井城を継いでいた。

   9月6日 上杉顕定は、仙波から白子へと江戸城攻略のため陣を移した。
   この動きに対して宗瑞・氏親が進軍してきたため、顕定は西方へ退却した。
   9月27日立河原の戦い 長野孫太郎房業(房兼:憲房の房?)討ち死に
   父顕業の子であるとすれば、孫太郎房業は嫡子だったのであろうか?それならば憲房より
   房の字を拝領したことにうなづける。またこれにより長野賢忠が厩橋長野家を継いだの
   かもしれない。

   駿河守護:今川氏親伊勢宗瑞(北条早雲)・上杉朝良
     VS

   結果・・・山内上杉連合軍 2,000人余りの死者を出して大敗。鉢形城へ敗走した。
    「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」(★近藤先生の群馬県史)
   仮説 業政の父の兄弟又は、賢忠・方業の長兄である房業が亡くなった。
   しかし、越後上杉房能(ふさよし:顕定の実弟)に援軍を要請すると、守護代長尾能景
   の援軍を受けて反撃に転じた。

   11月 武蔵椚田要害
   12月 相模実田要害を山内上杉軍は攻略した。

  • 永正2年(1505) 山内&越後上杉氏が上杉朝良の河越城を攻撃。
   結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に和睦した。
   山内&越後上杉氏は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。

   上杉顕定は菅谷館に上杉朝良を幽閉して出家させ、甥の上杉朝興
   を当主に立てることを扇谷上杉家臣団に強要した。

   しかし、扇谷上杉家臣団の反発が強く、諦めた。
   上杉顕定は上杉朝良が解放し河越城に戻した。

   長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。
   上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

   長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
   長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

  • 永正3年(1506)~4年 永正の乱 古河公方内の相続争い
   永正3年(1506)長野賢忠、橋林寺に寺領寄進(厩橋長野家の家督継いだ?)
   また。古河公方2代目:足利政氏と嫡男:足利高基が対立した。

  • 永正4年(1507)
   関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信
   の父)に拠点を急襲された。
   顕定を頼り関東へ向かったが、八海山の麓まで追撃を受けて8月7日に天水越で自刃した。
   長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を受けたのである。

   上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の婚姻が成立して
   山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。憲房の嫁 説①
  ★私見・・この時、同時に長尾顕忠の娘は扇谷上杉朝良の室になった
   のではないだろうか。

   永正4年(1507年)に古河公方足利成氏の次男・顕実が顕定の養子になると、顕実は
   顕定の仮名である「四郎」の名のりが許されて、憲房は後継者から外されて庶流とし
   ての地位が確定してしまう。

  • 永正5年(1508) 
   北条早雲は越後栖吉城:長尾為景&武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と
   結んでいたため、これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

  • 永正6年(1509)
   1月9日(11月29日)長尾顕忠の娘 長尾顕方室・上杉朝良室がいる。
   ????年 長尾顕忠の娘は、扇谷朝良の室になっている。
   長尾顕忠の没後と考えられている?
   上杉顕定は、扇谷上杉朝良誓書を交わしている。

   7月、古河公方の内乱を収めた。
   上杉顕定は養子:憲房と共に越後に攻め入った。
   上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
   弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
   遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。

   長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)に追放した。
   越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと考えられている。

   上杉顕定は、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。
   仮説 業政は、兄賢忠に付いて、上杉顕定と共に越後へ出兵したであろうか?
   それとも憲房付で白井城にいたのであろうか?初陣は果していると思う。
   長尾為景に呼応した勢力を抑えるため、扇谷上杉朝良上野に(白井城)在陣していた。

   8月 宗瑞は扇谷上杉領国へ乱入した。このことは今川氏などの要請によるものではなく
   北条(伊勢)氏の領国拡大を目視した軍事行動と評価されている。為景に呼応した攪乱?

   10月 扇谷上杉朝良江戸城に帰還した。
   長尾景春白井城奪還した。

   (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
   「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より出立。」
   ※出発は永正六年文月十六日とある。

   宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
   新田:岩松~大胡~青柳~荒蒔~浜川~大戸~草津~
   仮説 業政は在原業平の子孫なんだから、青柳か荒蒔で宗長と連歌にいそしんだ?
   大戸~依田で句会~
   浜川松田氏の元で句会「多胡碑に石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」~鉢形

   やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
   武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。

上杉顕定の戦没により山内家は大きく揺れた

  • 永正7年(1510) 長野業政が誕生説?(1490年説あり?)
   4月20日 上杉定実・為景勢は、蒲原津へ上陸した。
   5月頃 宗瑞は武蔵椚田城を攻撃して開城させた。
   長尾景春もこれに一味して相模津久井山に移動してきた。いずれも為景との連携だった。
   6月10日 上杉憲房・総社(高津)長尾定明は椎谷(柏崎市)に進軍し、後に大敗した。
   定明は河西衆、憲房(白井城が拠点)は北上野衆(厩橋・沼田・吾妻あたり?)+魚沼?衆
   顕定は、寺泊近くの黒滝城へ守将として上州桃井氏を置いている。
   総社(高津)長尾定明・越後上杉憲明(顕定養子)戦死
   仮説 この時越後へ従軍してたが、業政は危うく憲房と一緒に逃げ帰った

   6月20日 長森原(南魚沼市)の戦い。(森田真一著より)
   長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
   上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北し、自刃。享年57歳。
   ※越後(現六日町八海山麓)の管領塚

  ★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代
   長尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。

   長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、上杉憲房にさらに対抗した。
   越後から帰還した上杉憲房は、白井城回復して相俣(みなかみ町)に張陣する景春軍
   に対峙した。

   憲房は、さらに権現山で対峙する上杉朝良への援軍を差し向けた
   成田顕泰・渋江孫太郎・藤田虎寿丸(業繁)・大石源左衛門・長尾景長代官成田中務丞
   ・武州南一揆・顕方代官矢野安芸入道憲信(定明戦死で河西衆率いた?)などを派遣。
  ※総社(高津)長尾定明の子長尾顕方はのちに総社長尾家を継ぐ?継いでいた?
  
   7月 権現山の戦い
   伊勢宗瑞(北条早雲)は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に寝返らせた。
   そして上田政盛を権現山で蜂起た。
   北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅かす楔を打ち込む形をとった。
   北条早雲は、三浦半島の制圧した。
   やがて、権現山城を攻略した。多米が城将となった。

   そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。(憲房も着陣なら業政も同行?
   7月19日、10日余の激戦・・・
   両上杉氏は権現山城を落とした。
   権現山城に籠もった上田蔵人政盛は「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた。」とある。
   本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

   伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

   上杉顕実は、顕定の死後、山内上杉氏を継ぎ関東管領を継承する。
   しかし同じ顕定の養子の上杉憲房と対立する。
   結果・・・山内家の衰退に繋がった。

  ★上杉憲房自分の妻の兄:上杉朝良の娘を長野業正に嫁がせることで
   権勢を維持しようとした からであると考えたのは、この頃であろうか?

   足利高基は、関宿に移り父成氏に再び反旗をひるがえす。
   同時期に雪下殿空然(小弓公方義明)が、太田荘にて蜂起する。

   顕実(鉢形城)は実兄の古河公方・足利政氏に援助を求めるが、憲房(白井・平井城)
   は政氏の子の足利高基を味方につけ対抗し、関東は二分された。
   仮説 業政はこの時完全に白井衆として憲房側に付いている
   扇谷上杉朝良の妹婿:上杉憲房 朝良の娘婿:長野業政の正室だからである

   長野憲業死亡説
   弟:長野信業が鷹留城主から箕輪城主となったする説があるが、この説は間違いである。

  • 永正9年(1512) 鉢形城にて関東管領の相続争い 顕実 VS 憲房

   上杉顕実は、実兄の古河公方・足利政氏に援助を求め、長尾顕方成田顕泰の支援を受け
   て武蔵鉢形城に拠った。憲房(白井・平井城)は政氏の子の足利高基を味方につけ対抗し、
   関東は二分された。

   ①顕実派・・・足利政氏・惣社長尾顕方・成田顕泰・下倉備中守・桐生佐野氏・赤石氏
   ②憲房派・・・足利高基・足利長尾景・横瀬景繁
         ・白井長尾景英・寺尾左京亮・木部隼人佑・阿保丹四郎
         ・長野憲業・厩橋長野賢忠・方業

  ※長野憲業は顕定の執事だったとすれば、顕定が跡継ぎと決めていた顕実に付くのが筋
   ではないだろうか?そして憲房についた賢忠・方業兄弟に宗家の座を奪われたとか考え
   れば納得がいく。また横瀬景繁についてもこの当時どちらかと言うと古河公方よりで、
   足利高基より指示を受けて足利長尾景長と共に出陣に及んだ。高基・憲房の同盟のおり
   古河より憲寛が上杉へ養子に入ったのであろう?こうして歴史は繰り返された。

   6月 憲房支持の横瀬景繁長尾景長に攻められて敗北して実権を喪失する。
   業政は憲業と共に憲房側として、鉢形攻めに参加しているかもね

   長尾景春と長尾景英の親子の対立が激化して、長尾景春は出奔し、
   長尾景英は上杉憲房を援けて、上杉顕実に追放に功を挙げた。
   上杉憲房は上杉顕実と争って勝利し、山内上杉家の家督を継いだ。家宰は足利長尾景長
   白井・総社長尾家の没落

   10月 長野憲業の壁書・・・吾妻出陣祈願。景春の出奔に関係ある?  
   上杉憲房の禁制                    (★長年寺文書)
    kabegaki01.jpg
   長野憲業は本拠を箕輪城に移す

  • 永正10年(1513) 長野憲業の立願状:榛名神社
   4月 長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。大戸城の攻略を祈願(★みさとの歴史)
   (*海野棟綱の息子?娘婿?真田幸隆誕生・・・・説が4つ。)
   長野憲業が 榛名神社巌殿寺宛に大戸要害の落居を願文を出した。 (★長年寺文書)
  ★何故、長年寺か?
   最初の長純寺は水草(箕郷町下芝)にあり、水害で流されていた。

  • 永正11年(1514) 8月24日(9月説)長尾景春が死去。享年72歳。
   墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
   ・・・長尾景英が継いだ。妻は長野業政の妹である。
    長野一族?榛名神社に制札をだした。

  ★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
   「武略・知略に優れていた武将である。」
   と尊敬してたというが、・・・・・・・・
  ★「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、私の関東進出の足がかり
    を作ってくれた大恩人。棚からぼた餅をありがとう。」
   といった感じなのであろうか。 ・・・・・

   やがて、後北条家3代目:北条氏康によって扇谷家は滅ぼされ
   山内上杉家も上野国:平井城を追われることになっていった。

  • 永正12年(1515) 上杉憲房(山内上杉家初代)が関東管領になる。
   この時憲房は、方業(業政)を箕輪城へ入れて跡継ぎに据えたのかもしれない。

  • 永正14年(1517)初代小弓公方の足利義明このころ小弓入城。

  • 大永元年(1521)
   11月3日 武田太郎(晴信)、石水寺要害で誕生。
   11月23日 信直(信虎)、今川氏の武将福島正成を討ち取る。
   11月27日 太郎、府中の館に入る。
  • 大永3年(1523) 扇谷上杉朝良は北条の脅威にさらされ、山内上杉憲房と和睦・同盟を模索

長尾景春の乱以来すっかり権力を失った白井・総社長尾家は復権を狙った。

  • 大永4年(1524)
    • 長尾顕方の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した 
    • 長尾顕景の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した
    徳雲軒の文書 大永4年説(優勢)・でも逆らっただけで挟撃無し?

   1月13日 氏綱、上杉朝興を江戸に破る。
    10日 扇谷上杉・山内上杉は和睦同盟す
    14日 上杉朝興は、河越~松山城と退却した
    15日 上杉朝興は、上杉憲房が進出していた藤田陣(寄居町)に合流した

  ※氏康の執拗な攻撃で江戸・岩槻と北条方へ寝返らせて北上した。追われた扇谷朝興
   は、寄居の藤田陣まで退却したとある。このとき上杉憲房も在陣していたと思われ
   協力して氏康と追い返した。この寄居に在陣していたのは、長尾氏の謀反が原因で
   これを征伐せんとして攻め寄せたのではなかろうか? 要研究

   2月11日 武田信直(信虎) 、関東に出陣。
    関東管領上杉憲房と相模の北条氏綱との合戦に介入。
   2月 両上杉氏支援のため都留郡猿橋(大月市猿橋町猿橋)に軍勢を集め
    相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ侵攻する。
   3月 信直(信虎)は、武蔵国秩父へ出兵し、関東管領の上杉憲房と対面している。
   6月 上杉憲房の援軍を得て反撃に転じた朝興は、河越を回復・復興して居城した。
   7月20日 信直(信虎)は、武蔵岩槻城を攻める。『高白斎記』
   11月23日 信直(信虎)は、氏綱と和睦。
   12月2日 徳雲軒の文書 長尾顕景の謀反
   箕輪長野方業(業政)厩橋長野賢忠と総社長尾氏を挟撃する 
 
  • 大永5年(1525)
   2月氏康は、両の上杉家と交わした和睦を破り、岩槻城を攻略した。
   これに対し朝興は、再び山内家に援軍を求めた。
   それを受けた上杉憲寛は、配下の軍勢を率い武蔵野国へ出陣して行った。
   憲寛は、北条方になびいた、金田氏(菖蒲佐々木氏)の篭る菖蒲城を攻めた。
   氏綱はこれに対し援軍を送り、大石石見守の守る葛西城を攻撃した。
   真里谷信嗣は北条と手切れをして、小弓公方ともに上杉方になった。

   3月25日、上杉憲房はに死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。
   27代関東管領に上杉憲寛が就任

     上杉朝興 VS 北条氏

   大永4年 扇谷上杉朝興は山内上杉憲寛と対北条同盟結んでいた

   4月金刺昌春が信直(信虎)を頼る。この年、信直は氏綱・駿河の
   今川氏親と戦い、相模津久井城を攻める。

   信直(信虎)北条氏綱と和睦する。
   まもなく氏綱は越後国の長尾為景と連携して上野侵攻を企図し信虎に
   領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。
 
   『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かった上杉憲寛とともに
   相模津久井城(相模原市緑区)を攻撃している]。

   『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた
   諏訪大社下社の金刺氏と推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命する。

   信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で
   衝突するが、武田方は荻原備中守が戦死し大敗した。   

   8月には朝興は、武蔵白子原にて北条方と野戦に及び、激戦の末多くを討ち取り
   敗走させた。

   長野業政の次男吉業が誕生?

  • 大永6年(1526)
   長野信業は長子:業氏に鷹留城を与えた。(★群馬県史)
   長野憲業=信業同一人物説もある。
   古河公方・小弓公方・扇谷・山内両上杉の各陣営は対北条に置いて一時的に同盟した

   5月、扇ヶ谷上杉朝興と盟約を結び、その要請を受けた安房里見氏の
   当主里見義豊(さとみ よしとよ)は、里見実堯(さねたか)と共に、対岸
   の三浦半島に渡った。その方面へ進出してきた北条氏に対抗するため、
   品川・鎌倉を攻撃して当主としての器量を示した。
   そのさい、軍勢が鎌倉を襲撃したことにより、鶴岡八幡宮が焼失してしまった。
   この時朝興は、余勢をかって蕨城を攻め取った。

   6月3日には、信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。
   『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは
    和睦を受け入れたという。
   6月19日 将軍義晴、信直(信虎)を上洛させようとする。
   6月23日 今川氏親が没し、氏輝が嗣ぐ。
   7月には 氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する
   7月30日 信直(信虎)、氏綱の兵を駿河梨の木平に破る。
   氏綱と和睦がならず上洛できず。

   9月 朝興は、再び憲寛の援軍を得て、武蔵小沢城を攻略
   11月には相模玉縄城まで進撃を見せたが、北条方は守り切った。
   山内上杉軍の一手をなす長野勢にあった長野方業(後の業正)
   知略にたけその勇猛な戦いぶりから「上州の黄斑」と称えられて行くのであった。

   さらに朝興は、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた
   小弓公方足利義明と、その同盟関係にある安房里見氏とも連携を図っていった。

  上杉憲寛は、小弓公方足利義明から嫁を貰っている。里見義尭の正室は業政の妹
   根拠の薄い棟治想像 この時業政は、安房里見氏から室を貰い受けた?

  • 大永7年(1527)
    • 長尾顕景の謀反(惣社城:現前橋の総社神社付近)北条氏綱(2代目)に内通した
    徳雲軒の文書 大7永年説 ここで完璧に挟撃される?

   4月27日 信直、将軍足利義晴を訪問、従五位下に叙される。信直、信虎と改名する。
   6月3日 信虎、信濃に出兵し、後に大井氏と和睦する。
   7月8日 信虎 帰途に善光寺に参詣。この年、今川氏輝と和睦。
   11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
   白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
   12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城を攻めすすめる。
   (戦国史-上州150年)
                       (★上杉家文書:山田邦明2002)
  • 大永7年(1527)
   「長尾孫四郎景誠者、景英嫡男、母ハ箕輪ノ城主長野信濃守業正の姉也、
    大永七年十二月五日景英卒シテ、四十九日於法事ノ席、野心之家臣有テ、
    景誠害ス、長野信濃守聞之、白井エ来リ、長尾ノ陪心ト志ヺ合、総社長尾景房を招キ、
    白井長尾の正統を継、景誠大永八年(1528)正月廿四日生害ス・・・(後略)」
                            (★そう林寺伝記:久保田順一)

長野憲業(事実上は業政)は白井長尾氏の家督相続に介入。
  • 大永8年(1528)正月廿四日 景誠生害
                            (★そう林寺伝記:久保田順一)
  • 享禄元年(1528)
   「正月二十四日 長尾八郎忌同族長尾景誠(かげのぶ)振権窺令矢野氏害之」
                           (★『続本朝通鑑』:久保田順一)
   1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
                             (『続本朝通鑑』:黒田基樹)
   白井長尾景誠が家臣に殺害された。

  ★長野方業の陰謀か?
  ※筋書きを推察・・・景誠は長尾家を盛り返そうと後北条+長尾為景と
   結ぶ画策(誘いがあった)をした。長野派の家臣(嫁について行った)
   が業政に密告した。業政は憲寛に相談した。憲寛は長尾家の粛清を命じた。
   業政は長尾家臣に命じた。考えすぎかな・・・      棟治

   長尾景誠には男子がないために、跡継ぎ争い。
  (※長尾景誠は長野業政の姉が景英に嫁いで生んだ子で業政の甥)
  
   惣社長尾氏から長尾景房を迎え白井長尾氏を継がせた。

  ①白井城長尾景房は惣社城長尾氏とともに山内上杉氏に復帰説。
  ②長尾顕景次男:憲景を白井長尾氏当主に擁立説

  ★長野憲業(事実上は方業=業政)が。両長尾氏の復帰について、関東管領
   上杉憲寛を動かしたのでは? 
   長野憲業(事実上は方業=業政)は両長尾家に恩を売る形で上に立ったのでは?

  ※この当時上杉憲房を支えてきたのは、厩橋長野家でありその中心には方業があったと
   考えられる。そして憲業在命中であっても上野長野家の実権は、方業にあったと考えら
   れる。ゆえに跡を継いだ上杉憲寛も相当頼りにしていたのではないだろうか。 棟治

   長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房を招き正統をを継承させる。
   長尾景誠の母は長野信濃守業正の母と記されている
               (★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般には限定100部)
   ★でも、長野業正の母ではなく、?

   長野一族は山内上杉氏家の最有力者に台頭したと思われる。
   その地位においては、上杉家家宰の足利長尾氏に譲るが
   実力(軍事力)おいては抜きんでた存在となった。

   8月30日 信虎、諏方頼満と信濃神戸・境川の戦いで敗れ、荻原備中守らが討死する


   第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
   よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
   関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

  • 享禄元年(1528)12月27日 古河公方家嫡男:足利晴氏が元服した。
   
  • 享禄2年(1529)
   安房里見義豊が古河公方足利家当主として、足利晴氏を挙げた。
   古河公方:足利高基と晴氏の抗争が始まった。

   5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した。
   8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。
                            (★『続本朝通鑑』黒田基樹)
   9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房子憲政、時称竜若、
    継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之」
                          (★『続本朝通鑑』:久保田順一)
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
   ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。

   上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。
                           (★『続本朝通鑑』黒田基樹)
  ※山内上杉家の派閥争いであり、台頭する長野家に脅威を感じた安中・小幡等諸氏が
   憲政を担ぎ上げて対抗したのではないだろうか?ただ長野氏と安中氏の争いに憲寛が
   出張ってきて、しかも管領職を脅かされるなんて考えられない。 棟治

   長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS
   小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

   安中城付近で交戦
   上杉憲寛は長野方業(業政)を随行させながら
   安中城から程田(高崎市保渡田)に後退した。負けた?やらせ?
   憲寛に管領職を辞してもらうための陰謀とか勘ぐってしまう。もし白井長尾景誠が長尾
   八郎に謀殺されるとこから、憲寛引退までの内乱が方業の欲に起因する計略だとしたら、
   誠にもってあっぱれである。是非もなし我らがじっちゃんである。これはないな 棟治
                                 (★『続本朝通鑑』)
  • 享禄3年(1530)
   1月21日 長尾景虎(上杉謙信)誕生。
   4月 氏綱が甲斐郡内に乱入。
   4月23日 小山田信有が防戦するが敗れる。
   この年、信虎は上杉憲房の後室を側室とする。
   5月 
   「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた。
   棟治はここを長野業政(左衛門尉)が、小幡攻めした時に意地悪しないよと
   禁制を与えたんじゃないかなと考えた。

   甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。

   5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の戦勲に対して
   感状を発給した。

   10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官
   三富平六に与えた。

   吾妻の戦いにて、長野憲業が戦死説。長野業政40歳?が家督相続した。
                            (★箕郷町誌・みさとの歴史)
  • 享禄4年(1531)
   28代関東管領に上杉憲政が就任、家宰は足利長尾憲長
   1月21日 栗原兵庫・飯富虎昌らが、信虎に叛く。
   2月2日 信虎、大井信業・今井尾張守らと戦い敗死させる。
   4月12日 信虎、諏方頼満・栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌と塩川端で戦い大勝する。
   6月1日 
   足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討した。
   足利政氏から足利基頼宛の書状が届いた。
   6月6日 足利晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、
   足利政氏の治療を指示した。
   6月9日 足利高基が小山小四郎に対して隠居を知らせた。
   9月3日「享禄四年(1531) 九月三日の条 山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト
          成ル、憲広、晴直ト改ラル、宮原ノ祖ナリ」
                           (★『喜連川判鑑』:久保田順一)

   上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して
   晴直と名を改めた。

  • 参戦武将・・・黒田基樹著

  ①勝者側・・・
   第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
   第2代公方足利政氏、
   足利基頼(高基の弟)
   宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?

   山内上杉氏 :上杉憲政
   安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
   小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
   藤田業繁
   用土業国(武蔵国:用土城)
   成田親泰(武蔵国:忍城)

  *この時憲政を担ぎ上げて、後に北条氏に与して真っ先に陥れたのは
   この勝ち組の誰かさんであるが、これは何の因果であろうか・・・棟治

   小弓公方:足利義明
   里見義豊(安房国:)

   上杉朝興(武蔵国:川越城)

  ②敗者側
   第3代古河公方:足利高基(古河城)
   小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)

   山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
   長野氏:長野方業(業政)?(上野箕輪城)
   高田憲顕(上野高田城)
   三富平六(子孫は赤城村)
   守山与五郎(★長野県の森山氏?)
   寺尾左京亮
   沼田顕泰

  • 結果
  1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
  2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲。

   結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

  ※箕輪長野方業(業政)が敗れている。上杉憲寛方の諸氏は許された。
  ※普通にやりあったら、小幡・安中・藤田勢にやられるはずはないと踏んでいる。
   同盟国の小弓公方・里見・扇谷上杉から、手を引けば無罪放免と話が付いていた
   また憲寛も里見が面倒みると交渉があり折れたのかもしれない。

   長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
   あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
   その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
   安中重繁に嫁がせた。
   さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
   これによって、和解が図られている。         (★黒田基樹)

   結果的に嫁を配って取り込み、業政が勝ってる格好になってるのはなぜ?
   Ans.「上州の黄斑」「表裏卑怯の者」←だから箕輪長野氏の養子にした?
   答えは暫く保留にしておこう
                            
参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 洋泉社2011
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 戎光祥出版 2012
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 岩田書院 2013
・『西上州の中世』:安中市・・・ふるさと学習館

参考サイト
・ウィキペディア

※黒田基樹氏はこのことから、長野憲業の後に、長野方業が継いだという考えになった。

※飯森康広説では、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説ということになるのかなあ?

※黒田基樹説では、長野方業の後を長野業正が跡を継いだという考えになるのであろう。
 

  • 最終更新:2017-03-31 23:03:38

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