長野業政と一揆衆

長野業政と一揆衆

 

寺尾氏
「上州白旗一揆の時代」(久保田順一氏著)より
  寺尾氏は寺尾(郷か、高崎市)を本貫とする武士であり、鎌倉時代には御家人としての
  活動もみえる。寺尾の地は源平争乱の時、新田義重がここに籠ったとされるように、新田氏
  の拠点の一っであった。
  義貞没落後、守護領として上杉憲顕に与えられたとみられ、これによって寺尾氏が上杉氏
  被官となったという流れが考えられる。寺尾氏が上杉氏重臣となっていることから、早期に
  被官化した可能性が高い。その一方結城合戦で一揆側に上総入道と右馬助がみえ、一揆とし
  ても活動していたのである。

  貞和元年(三四五)八月、足利尊氏の天龍寺参詣の供奉人の一人に寺尾新蔵人という人物が
  いる(「園大暦」)。この人物が上野寺尾氏と速断はできないが、寺尾の地名は他に比定で
  きる場所も少なく、上野の可能性は高い。寺尾氏も一族が在京活動をしていた可能性が高い
  が、京都寺尾氏のその後の動きはみえず、没落するか上野に戻ったのかもしれない。

  正平七年(観応二年、1351)二月十六日、尊氏は安保泰規に秩父郡内の寺尾次郎跡等を
  勲功賞として宛て行った(「安保文書」)。寺尾氏はこの時尊氏に背いて、所領を没収され
  た可能性がある。観応の擾乱の結果、上杉氏についたことが想定される。

  その後、応安五年(1372)に寺尾次郎左衛門業重は上杉能憲に従って同家の申次として
  上洛している(「八坂神社記録」)。さらに、同人は永和四年(1378)には能憲の病平癒
  の加持祈禱を依頼するため、頼印僧正の許を訪れている(「頼印大僧正行状絵詞」)。
  業重は能憲の側近であった事がわかる。ただし、能憲は関東管領職には就いたものの、
  上杉家内では傍流で能憲の死後しばらく寺尾氏の動きはみえない。

  その後、寺尾氏は応永期に入って上杉氏が守護職を得た伊豆国守護代に抜擢される。
  応永四年(1397)にみえる文書がその最初の史料である(「三島神社文書」)。
  憲清(四郎左衛門、伊豆守)、さらに若狭入道の活動がみえるが、憲清と若狭入道は同一人
  かもしれない。上杉被官で守護代となったのは長尾氏と大石氏であるが、寺尾氏も伊豆国
  守護代になることによって上杉家内での地位を向上させたことになる。

  応永二十三年十月、上杉禅秀で持氏が上杉憲基の邸に逃げ込んだ時、憲基の下に直ちに馳
  せ着けた人々として、「上杉修理大夫満朝・長尾出雲守・大石源左衛門尉・羽継修理亮
  ・同舎弟彦四郎・安保丹後守・長井藤内左衛門尉、其外木部・寺尾・小幡・白倉・加治
  ・金子・金田・力石の輩」とみえる (「鎌倉大草紙」)。
  木部・寺尾・小幡・白倉の四民が上野国人であるが、彼らは即座に管領館に馳せ着けたこと
  から、警固のため宿直をして詰めていたのかもしれない。この段階でも寺尾氏は長尾・大石
  氏に次ぐ存在で、鎌倉にいて上杉家当主に仕えていたのである。
  なお、ここに羽継修理亮と舎弟彦四郎という人物がみえる。大石源左衛門尉の次にみえるの
  で大石氏に比肩しうる一族と考えられるが、同氏について他に史料がない。

  その後、伊豆国は長禄二年(1458)に足利政知に守護職が移り、寺尾氏も守護代の地位を
  失う。政知は将軍義政の実弟で、この時足利成氏に代わる鎌倉公方に就任したものの、伊豆
  国に留まり、堀越公方と称された人物である。これによって寺尾氏は上野に戻ったが、その
  後も上杉家中では隠然とした力を振っている。

  「松陰私語」によると、山内家事職であった白井長尾景信が没してその後継者を選ぶ時、
  寺尾入道(礼春)と海野佐渡守が相談して惣社長尾忠景としたという記述がある。
  寺尾入道は顕定の側近として家内の重大事の相談に預かっていたことになる。
  ただし、この人事の不満から景春が謀叛に立ち上がったので、この選択が裏目に出たとも
  いえる。

  享徳の乱の最終段階の文明九年に、成氏が上野滝(高崎市)に進出し、十二月二十三日に
  広馬場(榛東村) まで出張したことがあった。
  両軍が陣を敷いていざ決戦という所で俄かの降雪によって急遽和議が持ちあがった。
  上杉方から寺尾上野介と長井左衛門が成氏陣に赴いて和議が整った(「松陰私語」)。
  上野介は若狭入道の後継者とみられる。なお、寺尾氏のその後の動きはみえない。

◆小幡尾張守憲重(右衛門尉・別名重貞、重定)
   妻は長野業正の娘(妹とも)。子に信貞(信真・信重)がいる。娘は甲斐武田氏の親族
   衆・武田信豊の妻。憲重の孫である信氏の室を武田信豊娘とする系図もある。
   国峯城城主。Wikiより
 

◆小幡図書介景純
   憲重の行動に対して憲政退去後も後北条方につかず抵抗していた箕輪城主長野業正は、小
   幡一族の小幡景純(あるいは憲重の弟・景定)とその養子・次郎信之を後押しし、憲重
   の草津温泉滞在中に反乱を起こさせ国峰城を占拠させた、小幡領を上杉方の勢力下に戻
   してしまった。このため憲重と嫡男・信貞は武田信玄を頼り甲斐に亡命した。信玄はこ
   の亡命を利用し国峰城へ侵攻、景純を討死にさせた。Wikiより


箕輪城主長野業政の娘婿 木部駿河守範虎 20160614

  ・永正7年(1510)?~天正10年(1582)
   箕輪城主長野業政の娘婿。
   「箕輪衆」の一員として長野業政の同心であった。
   長野業正は武田信玄の6回の上州侵攻を食止め続けた。

   今までの通説では、箕輪城落城後に武田氏へ臣従したとある。
   だが、どうやら違うようだ。永禄4年ごろにはすでに武田氏へなびいていた
   裏切ったのではない、頼れる主君を選んだのだ!それが戦国時代だ・・・

天文15年に藤岡市金井出身の金井秀高(倉賀野淡路守高勝の父)を、憲政は倉賀野行政が討ち死にした後、倉賀野に送り込んだ。日野金山は産鉄があり、古代から鉄工業が営まれていた。

依田光慶

新田景純
永禄10年(1567年)に後閑城に入城して後閑を称するようになったと伝える(『上州故城塁記』)。

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築城年代は定かではない。応永32年(1425年)岩松満長が足利持氏より丹生郷の地頭職を賜わり、地頭代成次を置いたという。

弘治年間(1555年~1558年)頃の城主は新田景純であるが、永禄初期の頃に武田信玄に属し、甲斐へ移った。永禄4年(1561年)武田信玄は国峯城を攻略し、小幡氏を国峯城に復帰させると、丹生城はその支城として小幡氏の所領となり、永禄10年(1567年)景純の子信純は後閑城主となって後閑氏を名乗った。
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  • 最終更新:2018-07-21 00:02:21

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