長野業正の長男:長野吉業

 長野業正の長男:長野吉業と菅谷城&善龍寺

箕輪初心▲箕輪城152【長野業正の長男:長野吉業の菅谷城&善龍寺】

  ●数日前、善龍寺の事について書いた。しかし、長野業正長男:長野
   吉業の墓&福田五郎左衞門の墓の写真が見つからなかったので、中途
   半端になってしまった。そこで、菅谷城&善龍寺をセットに長野吉業
   について、ちょっとだけ、おさらいをしようと思う。

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   (★菅谷城の淨眼寺)

  ★平成26年(2014)12月9日、箕輪城語り部の会会長:岡田氏が高崎
   文化厚労賞を受賞した。
  ★平成26年(2014)12月12日、赤沢氏・中村氏・天野氏がノーベル
   物理学賞を授賞した。

長野業政の男子
 1)長男:長野吉業 享禄4年(1531)~天文15年(1546)
  ・享禄4年(1531) 箕輪城主:長野業正の長男として生まれた
   父:長野業正 
   母:沼田顕泰の娘

   父:長野業正とともに山内上杉氏に従って後北条氏と戦った。

  妻・・・
  ①長尾景誠の娘説
  ①長尾伊玄(景春)の娘説 「永野信濃守様の御惣領永野五郎に嫁ぐ。」
   (★白井長尾氏の旧臣:永井氏の「永井権兵衛書状」)
   長尾景英(景春の嫡男)の娘が長野業正嫡男長野右京妻であったと記されている。
   (★「長尾正統系譜」)
   黒田基樹氏は、長尾景春曾孫:長尾景誠の娘(景英の孫)が、長野吉業に嫁いだ
   のは誤伝されたと考えている。
                        ★参考文献
                       (★『長尾景春』黒田基樹編著:戒光祥出版)
  ・天文15年(1546)4月 川越の合戦
   古河公方・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定  VS 北条氏康
   長野吉業(業政長男)が負傷→死亡。享年16
                       (★近藤先生の群馬県史他)
   山内上杉(すでに埼玉児玉の雉ヶ岡城→平井城へ)は上州一国のみ。
   また、室も婚姻後女子を儲けたが、直後に病死したという。
   
   子孫は旧群馬町菅谷に住んだ。「福田」の姓を名乗った。
   長野業正長男:長野吉業&福田五郎左衞門の子孫は高崎市
   旧群馬町菅谷に8家があるそうである。
   友達の福田君は子孫である。

   大学時代はアメフトで「ショットガンの福田」と呼ばれていた。
   背走100mで15秒を切る俊足であった。
   福田君とはオースラトリア旅行やスキーの野沢合宿や1級の挑戦で
   大変お世話になった。100日は一緒にスキーに行ったであろうか。

  ★福田赳夫先生・康夫氏も同系列であると考えられる。
   羽田孜元総理も吾妻の大柏木城主で長野業正の妹
   あるいは娘婿系統なので、2人の総理大臣の先祖が長野業正で結ばれた。

 2)長野業正の養子:里見義樹→石井信房
  →榛名:鷹留城主
  ●石井義樹=里見義樹(1533~1563) 
  「石井泰太郎氏の所有長野氏系図」には長野業正の養子
   と記される。安房稲村城主:里見義堯の次男:文悟丸である。
   系図は長野業正の妹を里見義堯室としている。
  ★この縁で養子縁組みしたのかもしれない。
   里見繁美氏はこの説を強調している。
  ・里見義樹は長野業政の養子になったが、業盛が生まれた。
  ・???石井城主:石井義樹(現前橋市富士見)→
  ・天文20年(1551) 2月 鷹留城守将となった。
   石井讃岐守信房と名乗る。
  ・永禄3年(1560)箕輪城着到帳
  ・永禄6年(1563)2月21日、討死。31歳。永禄9年説もあり
  ※石井系図は業正の末子:宗誉の名を記している。僧籍?

 3)2男:長野氏業・・・通称は業盛
  ★中世文書では 箕輪初心★箕輪城136【長野氏業=業盛】:永禄9年箕輪城落城。

 4)3男?:長野忠業 (?~?)
  「箕輪城及鷹留城子孫記」(天保九年に編纂):文書館所蔵
   長野業正の3男・・・・
   同系図は忠業を道場長野氏の祖としている。
   弾正、出羽守、浜川幽喜斎。浜川館主。
   天正14年、沼田攻めに参加。

  ★長野16系図の内、この系図のみで長野忠業はほかにはないようだ。

 ◆長野吉業と菅谷城   (高崎市旧群馬町菅谷)
  ●浄眼寺から東側一帯。

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   境内にある石碑。「永禄六年武田軍の為に戦火にあって焼失。・・・」
   菅谷城は長野氏家老・宇喜多氏が城代を務めた説もある
   堀・・・道路を挟んで反対側にもずっと伸びている。

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   土塁が見事に残っている。      ●「折れ」水路が直角に折れ曲がっている。


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   ●本郭・・・福田達ちゃんち      ●東の水堀


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   ●菅谷児童館・・・南郭
   友達:福田君の話 「ここは子供の頃、沼だった。」
   ●西が友達の福田君家・・・子孫である。

善龍寺:長野業正長男:長野吉業の墓&福田五郎左衞門の顕彰碑

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   (高崎市箕郷町生原) 菅谷城の城主:長野吉業(長野業正嫡男)子五郎左衛門。


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   ●説明板。

   「長野吉業は実弟:業盛に箕輪城を渡し、自らは弘治2年(1556)
   3月4日に菅谷城主となった。・・・
   その後、息子五郎左衛門は永禄六(1563)、武田軍と戦った。
   永禄七年(1564)武田軍との戦いにより討ち死にした。」
  ※2014年11月7日は住職:大木謙哉氏にお世話になりました。

善龍寺の歴史
  1)長野業正の長男:長野吉業
  ※神明山「善竜寺」・・・★ドンレミー&南の諏訪神社に
   かつての善竜寺があった。山崎一氏は砦と考えている。
  
  2)長野吉業の長男:福田五郎左衞門(長野業正の長男系の孫)

  *天文13年(1544) 真田幸隆が逃亡。
   ①真田幸隆は小幡信貞と仲良し。
    武田氏24将(渡辺明著「箕輪城興亡史」)
   ②長野業政は、逃亡した真田幸隆を下仁田まで
    追っていき、食料品と幸の品物を届けさせた。
               (まんが箕郷の歴史:近藤先生・田口一郎 埋蔵文化財主査)
   ③真田幸隆は小幡信貞と長野業政批判で意気投合。
    山本勘助の誘いで金敷平→中善地→駒寄→榛名湖から逃亡。
                             (野口泰彦著「小説箕輪城」)
  ・天文15年(1546) 川越の合戦
   古河公方・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定  VS 北条氏康
  ●長野吉業(業政長男)が負傷→死亡。      (★近藤先生の群馬県史他)
   山内上杉(すでに埼玉児玉の雉ヶ岡城→平井城へ) は上州一国のみ。
  ・天文16年(1547) 碓氷峠(笛吹峠)の合戦 (本によって年代がまちまち。)
    山内上杉  VS  武田晴信
                    (この戦いは年代不明で幻の戦いと英知出版)
  ・10月4日 志賀城主笠原氏の要請で、
   上杉憲実(平井城)は援護。
   武田軍馬場・山本軍4500人 
    VS 
   山内上杉憲実2万人→結果:武田軍勝利
  ・和田城主和田業行が戦死。
   *長野業政は参加せず。
   →武田が長野業政を配下に勧誘→長野業政は断ったとか?(?)
  
  ・武田晴信が佐久の志賀城:笠原清繁を攻撃。
   笠原軍には上杉憲政も参軍          (★箕輪城興亡史・小説箕輪城では)
   笠原軍には上州甘楽菅谷城高田?も参軍    (★志賀城現地案内板では)

  ・天文17年(1548) 小田井(長野県佐久市)の合戦
   山内上杉  VS  武田晴信
   大河ドラマ7/1・・信玄が小田井の戦いで上杉憲政軍に勝利。勘助悪役。 
   結果:武田軍の大勝→3,000人の敵兵を虐殺。
   女子供は人質・奴隷。信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付けた。

   「長野業正が先代:長野憲業と笛吹峠(碓氷峠)の戦没者慰霊
    のために顕山敬応を迎えて開山した。神明山善龍寺を創立した。」
  ※顕山敬応・・・群馬県初の曹洞宗:松井田の補陀寺の僧。

  ★ドンレミー高崎工場と諏訪神社であると思われる。
   保渡田城&現善龍寺の中間で、砦であった。内出の地名の石碑がある。

  ・弘治2年(1556)福田五郎左衞門が善龍寺堂宇を建立。
   福田五郎左衞門(長野業正の長男:吉業の子)が大檀越
   (だんおち)となり、菅谷(旧群馬町)城主で父:長野吉業の
    病気平癒(★実際は、河越の戦いで負傷)のために、堂宇を建立した。
   松井田の補陀寺2世:的応守的丈を開山とした。
 

内藤昌豊&内藤昌月(保科家養子=会津藩の関係)の善龍寺

  ・永禄9年(1566)  武田信玄は保渡田砦から進撃。・・・
   箕輪城の途中にあった善龍寺を焼いた。 
   武田信玄による箕輪城攻略の際、炎上したのだ。
 
   箕輪城落城。


  ・永禄12年(1569)
   9月7日 上杉方の北条高広(前橋城)→山吉豊守(上杉家家老)に当てた書簡
  ①上杉輝虎(謙信)が上田(坂戸城)に着くと聞いてうれしい。
  ②武田信玄が岩村田(佐久)に着陣、箕輪城主内藤修理亮が出迎えたこと
  ③はやく、上杉輝虎の御出場が肝要。
                         (★群馬県地域文化233栗原修)

   9月10日 家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が現地統治。
                          (初めての文書確認=秋本先生)
   (工藤姓→内藤姓/内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代。)
  @内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代・・・在地領主領国安堵状
 (★生島足島神社蔵)
   「安中・小幡一族・後閑・一宮・高田・高山・和田・松本
   ・馬庭・酒井・依田・桃井・富所・ 猿渡・荻原・須藤
   ・小沢・市川・神保・土屋・高橋・黒沢・高瀬・上条
   ・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・」
   *内藤豊後守昌秀(昌豊)自分の家臣50騎
              +長野氏の元家臣200余人=約250騎

   「美方民部左衛門勝業、道寺久助、町田兵衛義信、神尾図書兼、
    上泉伊勢守秀綱、寺尾豊後守長成、長塩長八郎道方、
    八木原伴七家方、久保島重蔵時頼、矢島久左衛門定勝など。

  配属・・・大熊伊賀守(高浜砦)、新井筑後守(三ッ子沢砦)、
       内山播磨守(白岩砦)、清水太郎左衛門(松の沢砦?
       →和田山砦)、青柳治部(下芝砦)

   *内藤豊後守昌秀(昌豊)に大熊備前守・塚越半七
    ・吉田伊豆守(豊岡砦)は反攻。
                    (★箕輪記→山崎一著「群馬の古城」) 
 
   10月 三増峠の戦い・・・浅利信種が戦死。
       内藤昌豊は小荷駄隊を率いて補給部隊。
       相模津久井城にいて、後方支援。
       →内籐修理助昌豊+子:昌月(まさあき)が箕輪城就任。
                        (★みのわの歴史・近藤先生)

   11月3日 信玄→和田兵衛大夫(高崎和田城)への書簡
    ①上杉に味方しないこと。
    ②跡部信秋と春日弾正を信濃・上野国境に派遣
    ⑤内藤と相談するよう指示。内藤が既に箕輪城にいた。
                         (★群馬県地域文化233)



  ・元亀元年(1570) 内藤昌豊は上野箕輪城の城代となった。
   内藤昌豊(昌秀)が箕輪の出城の保渡田城を築城。
   保渡田砦→保渡田北城を含め、巨大な城にした。
                     (★土屋文明の生家の方まで・・・・)
    上州7郡を支配。

  ※内藤昌秀は和田山の統治に清水太郎右衛門を起用。
   和田山の熊野神社・・・清水内記邦正の墓あり
   和田山の極楽院の長野業盛の子亀寿丸の保護。    
  
  ※白川神社の修復

  ※板東15番札所:長谷寺の修理:
   大旦那内藤修理/富岡:大熊肥前/浜川北城:北爪土佐守/和田山:清水内記
                               (★石上寺縁起)

  ●善龍寺の改修工事→善龍寺を再建。→菩提寺。 
                          (★みのわの歴史=近藤先生)



~~~善龍寺の場所が変わった。現在の場所に再建。~~~~~~
 
   武田信玄は重臣:内藤修理之亮昌豊に領有一帯の統治を命じた。
  ・元亀4年(1573) 武田信玄の死去
   武田勝頼に仕えたが、内藤昌豊は老臣故に疎まれた。

  ・天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い・・
    三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)で
    織田信長徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000
  ・戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言。
    受け入れられず出撃した。
  
  ●内藤昌豊が戦死。壮烈な戦死。享年54歳。
   保科千次郎(昌月)が内藤昌秀の養子として、内藤家の家督を継承した。


  ●天正5年(1577)5月 内藤昌月は父の遺骸を奉じ、善龍寺に葬った。
   家臣の大熊備前が持ち帰った首級を善龍寺に葬った。
   内藤昌月も天正16年1588)に逝去し、昌豊の隣に葬られた。
                            (右が昌豊、左が昌月。)
   戦災で焼失した善龍寺を再建のため、金を与えて再築した。


  ・天正5年(1577)2月9日 内藤昌月→瀬下隼人への書簡 内藤昌月が箕輪城着陣。
   ①若輩者ですが・・・2月11日に甲府を出発。
    2月14日に箕輪城に到着。
   ②瀬下隼人から引き継ぎをおねがいします。
                                (★瀬下家文書)

  ・天正7年(1579)
   内藤昌月は不在であった箕輪城代として赴任し、大和守を称した。

   8月 内藤昌月は北条右衛門尉、宇津木氏久と謀り、上杉景虎方であった厩橋城、
   大胡城を領有する北条高広を武田方に転じさせた。
 
   8月28日 武田勝頼→北条氏への書簡
   内藤昌月が家臣に箕輪城を伝える。=演説をする
                                 (★秋本先生) 

  ★内藤昌月が善龍寺を再建したのはこの年かもしれない。 
   善龍寺は曹洞宗の寺で、山号は満行山善龍寺となった。 

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  ●善龍寺の内藤塚:高崎市指定史跡    五輪塔は寺の南にある。道路に面している


   「永禄九年(1566)箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理
    之亮昌豊に領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改
    号させ再建に当たらせた。
    昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に出陣して戦死した。
    時に天正五年五月であった。
    その子昌月は父の遺骸を奉じここに葬った。
    昌月も天正十六年正月に逝去し昌豊の側に葬られた。
    後世これを内藤塚と呼び伝え、また一名開基塚とも呼ばれている。
    大切に供養されて今日に及んでいる。」
                               (★現地案内板より)
  ※昭和48年(     )7月31日

  ※長篠の戦いで討ち死にした内藤昌豊と、養子:昌月親子を葬ったと
   伝えられて二基の五輪塔が並んで建立「建立年銘無し」と祀られた。
   右側・・・父:内藤昌豊&左側・・・内藤昌月。
   多重塔も建立された。

  3)内藤昌豊

  4)内藤昌月(保科家養子=会津藩の関係)

  ★保科正俊の長男:保科正直、3男:内藤昌月(まさあき)である。
   ①保科正俊→保科正直→保科正光・・養子:徳川家康の孫:保科正之=会津藩となる。 
   ②内藤修理亮昌豊の養子は保科正俊の3男:内藤大和守昌月である。
    内藤昌月の3男系4代目は会津藩家老の内藤家の祖に当たる。
    群馬県高崎市保渡田、生原地区は保科家、会津藩と関係が深い土地である。
 

  • 最終更新:2017-07-29 11:29:38

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