関東享禄の内乱

 ◆関東享禄の内乱

   第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
   よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
   関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

   上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。
                                 (★黒田基樹)
   長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS
   小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁立する上杉憲政

  安中城付近で交戦
   上杉憲寛は長野方業(業政)を随行させながら
   安中城から程田(高崎市保渡田)に後退した。負けた?やらせ?
                                 (★『続本朝通鑑』)

関東享禄の内乱(論文)  黒田基樹先生

   初めに

 関東では享禄期(1528~32年)に、古河公方家と山之内上杉家においてともに内乱が展開された。その事実そのものについては、これまでにも知られていたことではあった。しかしながら関係史料は少なく、そのうえ具体的な状況を示す史料もほとんどみられないため、本格的な両内乱を取り上げた研究はみられない。そのため内乱が展開された時期も確定されているわけではなく、その経緯についてもほとんど明らかになっていないのが現状である。

 しかしながら関東における享禄期の政治状況を知るうえで、両内乱についての事実関係の解明は避けることができない。そのため本論においては、古河公方・山之内上杉氏の二つの内乱に関わる史料を検出し、それをもとに可能な限りの検討を行うことにしたい。もっとも関係史料の少なさに規定されて、具体的な状況も明らかにならないところが多いが、現時点において明らかにできる部分を明確にしておくことによって、今後の研究進展のための叩き台としたい。


   山之内上杉氏の内乱

 論述の都合上、山之内上杉氏の内乱から検討することにしたい。現在のところ、享禄期における山之内上杉氏の内乱の開始を伝える史料ととらえるのが、『続本朝通鑑』享禄2年(1529)条の記事である。
まず関係する記事を掲げる(刊本14巻4789~91貢)。

①正月24日条 長尾八郎忌同族長尾景誠振権、窓(当て字)令矢野氏害之、
②8月14日条  上杉憲寛攻上州安中城、上杉朝興止之、憲寛不聴而発兵、
③9月22日条  上杉憲寛部下西氏、小幡氏等叛、立古管領憲房子憲政(時称竜若)、継山之内家而、破憲寛安中陣、憲寛移上州程田陣、長野一族従之、

 いずれも出典は不明であるが、何らかの典拠があったとみてよいであろう。

①は白井長尾景誠が一族の長尾八郎に謀殺されたことを伝えるものである。一方の当事者である長尾八郎について、他の史料に所見がないため明確ではないが、白井長尾氏の宿老の一人矢野氏に景誠誅殺を命じているから、白井長尾氏の一族であった可能性が高い。景誠は22才もしくは23才で、嫡子がいなかったため、妻の兄弟の箕輪長野業正が、事件の収拾に乗り出し、惣社長尾顕景の3男で、26才の孫九郎景房(のち憲景)に家督を継承させたという。憲景は後に、足利長尾憲長の娘を妻に迎えているから、景誠死去後の白井長尾氏の存続にあたっては、姻戚関係にある箕輪長野氏に加え、他の有力な長尾氏一族の足利。惣社長尾氏が共同歩調をとって解決にあたったことがうかがわえる。このこと自体は、内乱そのものの開始を示すものではないが、享禄2年に山之内上杉氏内部において深刻な政治対立があったことを示している。

②は山之内上杉氏当主憲寛(古河公方足利高基の次男)が、被官で碓井郡安中城(安中市)を本拠とする安中氏(宮内少輔)を討伐するため、出陣したことを伝えている。憲寛の出兵に対し、同盟関係にあった扇谷上杉朝興は静止したが、憲寛はそれを容れず、出兵したことが知られる。

そして③はそれから1ケ月後のことにあたるが、憲寛の安中氏攻めに反発した、被官の西氏・小幡氏(顕高か)が憲寛に対して謀叛し、前代憲房の子竜若丸(後憲政)を擁立して、憲寛が在陣する安中陣を攻撃し、敗れた憲寛は程田(高崎市)に後退し、同地に在陣、それに長野氏一族が従ったことが伝えられている。ここに憲寛と憲政との間で、家督をめぐる内乱が展開されたことを知ることができる。

 憲政の生年については明確ではなく、「上杉米沢家譜」では天正7年(1579)3月18日死去、73才とし『越佐史料 巻5670貢』、『北越軍記 678貢』では56才、『上杉家記 680貢』では76才としている。
いずれも江戸時代成立の史料であり、確実なものではないが、それぞれ逆算すると、永正4年(1507)、大永4年(1524)、永正元年となる。それぞれ享禄2年時には23才、6才、26才となり、これらのうちで同年に元服前であったことと整合するのは、大永4年生まれ説のみであるから、ここでは憲政の生年については同年説を採用しておきたい。いずれにしても憲政がこの時元服前であり、西氏・小幡氏に擁立されたものであったことから、この内乱は山之内上杉家中内の対立から生じたものととらえてよいであろう。

 そしてこの内乱に関わる史料ととらえるものとして、以下の3点が存在している。なお史料2・3ともに無年号であるが、花押形の形態から大永7年以降のものであることが確実であり、内容からみてこの内乱に関する史料とみりことができる。

(史料1)某左衛門尉奉書禁制写(「仁叟寺 文書」)

   禁制
右、於上州多胡庄之内仁叟寺、軍勢甲乙人等不可致濫妨狼藉、若有違反の輩者、可被処罪科之由候也、イ乃執達如件、
 享禄3年5月日 左衛門尉(花押)

(史料2)上杉憲寛感状(「森山文書」)
為先勢其他在陣之由、高田伊豆守注進、於其口各相談戦功、可為感悦候、恐々謹言、
 5月21日 憲寛(花押)  守山五郎殿

(史料3) 上杉憲寛証文(「志賀槙太郎氏所蔵文書」)
 今度之忠心是非候、イ乃用土新三郎跡赤浜事、知行不可相違候、謹言、
 10月25日 憲寛(花押) 三富平六殿

 史料1は、享禄3年5月に左衛門尉という人物が、多胡郡仁叟寺(吉井町)に対し、軍勢の濫妨狼藉の禁止を保障する禁制を与えたものである。文末に「由候也」という文言があるから、奉書であることがわかる。この人物の花押は他例が確認されないため、発給者を特定できないが、憲寛もしくは憲政の被官で、いずれかの意を奉じて出されたものととらえられる。そしてこの禁制の存在によって、この時点における山之内上杉氏領国での内乱の展開を確認することができる。

 史料2は、憲寛が被官守山与五郎に対し、戦功を賞した感状である。守山は、先陣として某所に在陣したということが、高田伊豆守(憲頼)から注進されるとともに、同所で戦功をあげたことがしられる。
守山について詳しいことは不明であるが、その在陣について憲寛に注進してきている高田氏は、甘楽郡高田城(富岡市)を本拠とする被官であるから、合戦は高田城周辺で展開されたことがうかがわれる。これによって、高田氏が憲寛方であったことも知られる。その年代は、享禄3年以降ととらえられるが、史料1から知られる西上野における抗争と関係するとみると、同じく享禄3年に比定するのが妥当と考えられる。

 史料3は、憲寛が被官三富平六に対し、今回の忠節に対する功賞として、用土新三郎(業国)跡の武蔵男念(当て字)郡赤浜(寄居町)を所領として充行ったものである。山之内上氏被官三富氏については、永正6年に憲房の被官として三富新左衛門尉が所見され(「御府内備考続編2」)、平六はその後継者ととらえられる。充行対象である赤浜は、武蔵花園城(寄居町)を本拠とする藤田業繁の有力一族にあたる用土業国の跡と記されているが、業国はその後の生存が確認されたため、その所領を関所?地扱いとして、充行の対象にしたととらえられる。年代については、やはり享禄3年以降ととらえられるが、次にみるように同4年9月には内乱は終結しているとみられるから、これは同3年に比定することができると考えられる。

 そしてその終結に関する唯一の史料となっているのが、「喜連川判鑑」にみえる次の記事である(『古河市史 史料中世編』713貢)。9月3日(享禄4年)、山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト成ル、憲広晴直ト改ラル、宮原ノ祖ナリ、

 この記事の典拠は不明であり、史料自体は江戸時代におけるものであるため、必ずしも確実なものとはいえないが、前後の状況からすると年代的には整合性が確保されるので、ここではその内容をそのまま採用しておくことにしたい。

これによれば、山之内上杉氏の内乱は、享禄4年9月3日に、憲政方の勝利が確定し、憲政が家督を継ぎ、憲寛は退去したことが知られる。なおそこでは、憲寛はその後、晴直と改め、上総宮原(市原市)に移ったことがみえているが、すでにしられているように、そのことを示す確実な史料はいまだに確認されていない。

 このように関係史料は少ないが、以上をもって内乱の構造を把握してみることにしたい。内乱は、享禄2年8月に、憲寛が被官安中氏を誅罰しようとしたことが契機になっていた。それに反対する西氏・小幡氏は、9月に先代憲房の子憲政を擁立して、公然と憲寛への叛乱を展開した。西氏・小幡氏は憲寛の安中陣を攻撃し、破っているから、安中氏は滅亡を免れたととらえられる。そして憲寛は、箕輪長野氏領の程田に後退し、同所に在陣した。これによって憲寛に箕輪長野氏(当主は方業か、業正の父)が味方したことがわかるが、むしろその前提には、長野氏と安中氏の政治対立があり、憲寛は長野氏を支持して、安中氏誅罰をすすめたと推測される。

 しかし、この憲寛の行動には家中において同意を得られず、同盟関係にあった扇谷上杉氏も強く反対している。これを機にして、山之内上杉氏勢力に分裂が生じることを憂えたのあろう。そしてそれは、西氏・小幡氏の叛乱によって現実のものとなったといえる。このうち西氏については詳細は不明であるが、小幡氏は甘楽郡国峰城(甘楽町)を本拠とし、南北朝以来の有力被官であったと推定され、享徳の乱以降においては、小幡氏と長野氏が山之内上杉家中を代表する存在となっていた。このことからすると、家中の対立が、小幡氏と長野氏の対立に系列化されていた状況を想定することも可能であろう。小幡氏が安中氏支援に動いた背景に、そのような事情を見ることができるとおもわれる。

 内乱によって山之内上杉家中は2分されたとみられるが、具体的な状況はわずかしか知ることができない。憲寛方の箕輪長野氏(方業)・高田憲頼・三富平六らがあり、憲政方に安中氏(宮内少輔)・小幡氏(顕高)・藤田業繁・用土業国があった。このうち高田氏は、安中氏・小幡氏とも隣接して存在する領主であったから、日常的に所領の境目などをめぐって対立関係にあった状況を想定することも可能であろう。
そしてこれらの内乱に関わった領主の地域的分布からして、内乱が西上野の中部から武蔵部にわたって展開されたことが知られる。東上野・北上野の領主たちの関与は史料的に確認することができないものの、山之内上杉領国の大半を巻き込んだものであったとみることができる。

 そして内乱は、最終的には憲寛の山之内氏からの退去、憲政の家督相続によって終結をみることになる。
しかし憲寛方の領主のうち、以後において動向が確認できないのは三富氏のみであり、箕輪長野氏・高田氏ともに、以後において健在である。とりわけ箕輪長野氏は、憲寛方の主力であったとみられるだけに、その後においても上野における山内上杉氏被官の最有力者として存在し続けていりことは注意してよいであろう。このことからすると、内乱の終結にあたっては、そうした憲寛方の有力被官が離反するなどしたことによるものであり、彼らの身体の保障がともなっていたことがうかがわれる。

 そのことに関わるとみられるのが、乱後において両勢力間で婚姻関係が形成されていることである。箕輪長野業正の娘が、小幡顕高の嫡子憲重に嫁しており、それは天文4年(1535)のことと推定される。また業正の仲介によって(養妹にした可能性)沼田顕康の娘が安中重繁(宮内少輔の次男か?)に嫁している。その間に同14年頃に嫡子景繁が生まれているから、婚姻はその数年まえのことになる。その景繁の後に、業正の娘(兄業氏の娘説あり)を妻に迎えている。そして安中重繁の娘が、高田憲頼の次男繁頼に嫁しており、その間に同19年に嫡子信頼が生まれているから、婚姻はその数年前のことになる。

 すなわち憲寛方であった箕輪長野氏と憲政方であった小幡氏・安中氏との間で、憲寛方であった高田氏と憲政方であった安中氏との間で、婚姻関係の形成を知ることができる。特に長野氏・安中氏は、内乱において主役的な位置づけにあったから、両勢力間における複数の婚姻関係の形成は、まさに内乱終結にともなう和解、その後における山之内上杉家中としての再結束を実現するための処置であった。
ととらえられるであろう。

  • 最終更新:2016-07-21 00:09:54

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