雉郷城

雉郷城

  • ◆雉郷(きじごう)城(高崎市榛名町上里見・安中市下秋間) 余湖くんのホームページ様より   ~~~~~~~
   雉郷城の山頂部分は、細い尾根を堀切によって何郭にも区画しているが
   それぞれの面積はあまりない。中腹部分とは対照的に、籠城よりも物見
   としての機能を重視していた箇所であったかもしれない。 

    kijigou01.jpg  雉郷城002.jpg

   雉郷城について、その歴史など詳しいことは分かっていない。ただ、伝承
   によれば里見氏の詰めの城であったという。山中にありながら、中腹部分
   にはかなりの曲輪面積を有した城郭なので、まとまった軍勢が長期間籠城
   することも可能な山城であった。

  ◆雉郷城の城主を推定してみる

 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)+α
   114年の仁田山(仁田山城)を捨て、
  ・天文24年(1555) 現高崎榛名に手勢30騎で逃亡。
   長野業政の娘?を妻とする。
  ※長野一族の有力家臣の娘説(★里見義弘氏説)
  ・永禄5年(1562)雉郷城を修築
  ※弘治元年(1555) 里見河内が雉郷城に入城したと言う説もある。
   これは雉郷城を八重巻出城と解釈すれば問題ないか。

  里見河内守は誰か?
  ※長野正弘氏の系図・・高崎市史②
   「長野氏業=(長野業盛)・・母は里見河内守娘 信玄御内 ・・・」
  ●里見繁美氏・・・里見河内守義光&里見河内守義弘
  ※里見義成氏・・・永禄7年(1564)に仁田山から来た里見河内守宗義だ。
  ★河内守は、榛名町の里見義光・義弘の証拠がない。
   でも、里見義成氏の『里見氏』の考えを否定した。


 【十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)
   箕輪初心★箕輪城134長野業政の直属家臣【長野信濃守在原業政家臣録=着到帳】より
   高橋隼人正勝則・・・戦死。 
   八重巻出城城代・・安中市秋間・榛名町の境(雉郷城の城域内にある物見の砦?)
   里見河内守の勢力範囲の雉郷城の城主である。
   長野直業ゆかりの高橋家ではないだろうか?


 まとめ
   里見河内守・高橋隼人正がこの地域の手勢を率いていたと考えられる。
   そして1年交代で雉郷城の守備を行っていたのではないだろうか。
   着到帳には、定居とない場合は1年交代とある。
   ここで注意しなければならないのは、城の守将であって城主(領主)とイコールでは
   ないという点である。また、両家とも長野家と婚姻により縁を結びその任に当たった。

   里見河内守と高橋隼人正の説明によると、はじめ坂巻の出城としてあった砦を永禄5年
   里見河内守の手によって拡張整備され雉郷城と改名した。このように読み取れる。
   この永禄5年という年は、6月に和田業繁、戦況が不利のため、に武田信玄に降伏して
   いる。また前年には長野業政も亡くなり、さらに国峯城も甲州勢により奪還され小幡氏
   宗家が返り咲いている。

   なぜもっと早く武田に降らなかったのか?歴史の顛末を知る人は誰もが思う疑問である。
   まずここで宗春は、一つの答えを残しておこう。
   武田に降っても、謙信に滅ぼされてしまう。現実に厩橋長野氏は謀反の疑いをかけられ
   一族郎党なで斬りにされたという。那波氏は北条側として貫いたため総がかりにあって
   落城の憂き目にあった。それゆえこの時は、上杉側に付くしかなかったのだ。

   その後永禄9年、謙信が臼井城で大敗を喫して関東の経営を放棄せざるを得なくなる頃
   やっと武田に降ることが出来るように成ったとも言える。
   
   そのあたりをまとめると
   天文18年頃~弘治2年頃までは北条よりの外交
   小幡氏を初め山内上杉家の重臣たちは、上杉憲政を見限って北条方へなびいている。
   このため天分21年憲政は平井城を退去せざるを得なくなった。

   弘治3年~永禄9年落城めでは、関東管領側に復帰
   この年瓶尻にて甲州勢と合戦に及んでいる。北条家と同盟している武田家は、北条家の
   要請により利根川より西(河西)地域を攻略・服従させてくれと依頼されたからである。
   一度北条家に臣従した関東諸将に、謀反の動きがあると理由を添えている。

  なぜもっと早く武田に降らなかったのか?これについて考察してみる
  ・天文18年頃~弘治2年頃までは、北条よりだったので同盟国の武田に降るとかは
   考えられない。北条を裏切って同盟国の武田に付くとか、盟約違反で北条~武田
   の間で合戦となってしまう。
  ・弘治3年武田が進行してくるが、もしこの時武田に降ったとする。するとおよそ3年
   後に長尾景虎(上杉謙信)が、上杉憲政を伴って越山してくる。その後厩橋・那波氏
   共々に、管領に従う関東諸将の総がかりにあって滅ぼされるであろう。となれば、業政
   に武田に降るという選択技は無い。
  ・越山の翼永禄4年に業政は病没している。よって業政には、武田に降る好機は存在しな
   かった。
  ・さらに翌年の永禄5年和田氏が業政の死を見て武田に降った。しいて言うならこの時長野
   家には、武田に降る好機があったと言える。和田氏は、この後永禄9年まで武田の援軍を
   得て、謙信からの攻撃を防いでいる。
  ・宗春の結論からすると、武田に降らなかったのは、まだ若い氏業(業盛)の決断とは
   とても考えられず、それを補佐した家臣団の総意であったと思う。
   これで少なくとも、武田に降らなかったことで長野家が滅んでしまった責任を業政に問う
   事は、理に反すると思います。業政は伝承通りどころかそれ以上の優将であったと思う。
  ・落城する永禄9年5月かな?木暮家文書に味方に付いたら所領を安堵する旨の文書が見つ
   かったが、この年そのような動きが活発にあり9月29日開城に及んだ。箕輪城攻略戦は
   永禄6年がもっともはげしかったとされ、9年に事実上、外交交渉によって弱体化された
   箕輪城では、激しい戦闘はなかったと言う説がある。
  ・そういった働きが功を奏したのであろう、氏業のこ亀寿丸は城を出て極楽院に落ち延び
   たとされている。この後信玄は、これを知りながら咎めだてはしなかったと言う。であ
   れば、事前外交により箕輪城は開城したとみるべきである。もちろん、それを良しとし
   ない家臣もおるわけで、それはそれで小競り合いはあった事も事実であろう。
  ・家を守るため耐えがたきを耐え降ったもの、先君との義を重んじ侍として生きたもの
   またいずれかあったもの、それぞれドラマがあったのであろう。

   宗春はそんな物語を見てみたいのだ。
 

  • 最終更新:2017-06-20 12:10:17

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