青柳御厨

青柳御厨

 神鳳抄に「上野の国内宮、布三十反百二十丁、建永符八十丁」と見えており、内宮に属した御厨である。
現在青柳の鎮守は神明宮であり、竜造寺にも神明宮が祀られている。
また、大字荒牧の荒牧神社はかつて伊勢宮と称し、伝説によれば源義経の臣伊勢三郎義盛と関連付けているが、恐らくは御厨の前線たる神明宮の義ではあるまいか。
現在もなお、伊勢、伊勢宮東等の地名が残っている。依って、青柳、竜蔵寺、日輪寺荒牧の地はいずれも青柳御厨の地であろうと考えられる。  前橋市史より

 前橋市史などの資料によると、120町の田畑より布三十反百二十丁、建永符八十丁の上分を出すと記されていた。又「建永符八十丁」というのはおそらく建永年間(建永元年は1206年)に官符が出され(あるいはこの時にそれによって御厨になったかも知れない)その段数は80町であると言う意味であろう。

◆伊勢神宮領(御厨)について 吉澤克明氏の修士論文より
・・・上野国は、天仁元年(1108)の浅間山の大噴火によって甚大な被害を被った。その後、復興活動が盛んになり、私領が形成されていった。新田義重による新田荘開発もその一つの動きである。浅間山の噴火、その復興に伴う私領形成、そしてその後荘園形成へと続くのであるが、上野国において活発な荘園形成を行っていたものには伊勢神人が挙げられる。坂東において伊勢神宮の御厨は広く分布しているが、その数が圧倒的に多いのが上野国である。次いで下総・武蔵の御厨の分布の数が多いが、上野国の半分である。この三カ国に共通することは、渡良瀬川(下流では江戸川)・古利根川(管理者の付け足し)の流域ということである。伊勢の神人は渡良瀬川をのぼって上野国に到り噴火からの復興過程で形成された私領を集積し、荘園化(=御厨化)していったのである。上野国に他の坂東諸国よりも多く伊勢神宮の御厨があるのは、新田義重によって開発された新田郡の「こかんの郷々」のような土地が浅間山の噴火によって発生したからであろう。火山災害からの復興の中で形成された私領を伊勢の神人たちは集積し御厨とすることができた。それゆえ、他の国々よりも多くの伊勢神宮領が上野国に誕生したのであろう。・・・

・・・白河院政末期から鳥羽院政の頃になると、院に盛んに荘園が形成・寄進されるようになる。院の女官らは積極的に荘園を集めようと活動した。ここで中央と地方をつないだ者は、かつての中央軍事貴族ではなかった。すでにかれらは中央での権力を失い、地方豪族化しており、中央権力と直接結びつきにくくなっていた。ここで仲介役となったのが河内源氏などの「京武者」であった。寄進を依頼した開発領主が下司職となり在地管理を行い、河内源氏はより上位の所職で荘務に関わったと考えられている。そして、開発領主を郎党化し、主従関係や婚姻関係などの人的関係の形成によって地方進出が行われることとなった。・・・

ここで言う両河川地域の開発領主とは、藤原秀郷を祖とする一族。「淵名大夫」兼行は、十一世紀後半に上野国の佐位郡淵名を拠点に開発を開始した人物と考えられている。この系統からは淵名・足利・林・長沼・薗田・大胡・佐貫・佐位・那波・山上・佐野・部矢古・深栖・利根・阿曽沼・木村などの一族が生まれている。と論文に掲げられている。この中の佐貫氏の一族に、現館林市青柳に居を構えるものが現れ、いつ青柳を名乗ったのかは知れないが、勢多郡青柳へ入り同御厨の地頭?となったと思われる。前橋・館林の双方に青柳の地名があるのはちと不自然だが、現在その地を出自として青柳を名乗る一族が多数見受けられるのは事実である。

 佐貫一族の赤岩氏が青柳を名のる前、すでに「青柳御厨」は存在していた模様 引き続き研究
                                  20160710 

  • 最終更新:2016-07-10 00:27:58

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