青柳金王忠家

十二家客分大身小身知行地方持衆(高家) 青柳治部正金王忠家 

  • ここに掲げてあります内容は、棟治が自身のルーツ探しで知り得た情報をもとに整理したものです。そして私自身の想像による補完で作り上げた事柄も多く含まれる事をお断り申し上げます。

   新たに出て来た文書は、宗春の想像をはるかに上回っていて、とても信じられない
   文書の整理番号にH22とあったので、平成22年に届けられた物かと考えられる。
   そうであれば、今まで広く知られていなかった事に納得がいく。
   以下は、群馬県立文書館よりコピーしてもらった系図から引用しました。

塁系譜

定紋 龍膳
   雪笹

 ●源義宗
   人皇五六代帝
   清和天皇後胤八幡太郎義家
   十一世孫新田左(近)中将義貞三男也
   足利家止ノ戦於関東顕勲功也

 ●源高頼
   六孫王紅基八代二柳三郎太夫國忠
   九世苗裔也武蔵野守義宗仁属上州
   三輪城居住笛吹峠合戦砌於坂本
   顕軍功後村上家属信州葛尾城
   居住也

◆二柳・夏目・青柳塁系譜

   信州住士二柳三郎太夫國忠九世苗裔夏目次郎
   左衛門尉實ハ矢島右近進滋野幸流二男也新田武蔵
   守義宗相随文和年中笛吹峠合戦之時於上野国
   坂本顕軍功其後義宗赴越後時村上家ニ属信州
   葛尾城居住ス
   源高頼――――夏目高弘―・――高則――――――――――高重―・・・―高成
        (左近亮)| 夏目次郎兵衛尉村上光信随 夏目左近次郎 夏目将監 
             | 応永七年於千曲川戦死
             |
             ・――高泰――――――――――高数―――――高蔵
             | 岩尾伊豆守        岩尾小次郎  岩尾弾正
             | 海野信濃守属
             |
             ・――高忠―――――――高通――――――・―高知
                         二柳次郎太夫  |同右馬介
                                 |
                                 ・―直信⇒①へ
   長門守母雨宮孫四郎女
   筑摩郡青柳郷住
   ①直信――――政信――――――正忠―――――――昌弘――――――――昌信⇒②へ
         青柳源太郎   源太夫      青柳伊勢守信州葛尾城主村上右衛門尉
                          頼平ニ属し永正十六年武田左京太夫
                          信虎其一族加賀美義四郎ト合戦の時
                          頼平為陣代

   ②昌信――――――――――・―昌貞
   青柳養左衛門       |青柳豊前守
   上野国箕輪城主長野信濃守 |
   奉仕弘治三年瓶尻合戦討死 |
                ・―忠家―――――――――――――満忠―――・・・
                 治部正母は長野        治部太夫母は赤石豊前守女
                 伊予守女也永禄六年武田信玄  武田信玄に属
                 ト一戦於青木原戦死
                       

 もう少し調べて、この系図を研究してみよう。とりあえずここまで・・・20170502
   青柳金王忠家に関する再考としてまとめ始めた
  

青柳治部正金王忠家ゆかりの寺、滝沢寺と万福寺

  • 滝沢寺(曹洞宗大嶽山検点院滝沢寺) 
   ryutaku01.jpg  ryutaku02.jpg
   入口右手の白い蔵は、滝沢寺の巡り経蔵といって高崎市指定重要文化財になっている。

   ryutaku03.jpg  ryutaku04.jpg
   本堂の西側から上がってゆくと、突き当たりの右手奥に金王の墓碑がある。

   ryutaku05.jpg  ryutaku06.jpg
   再び訪ねて行ったところ、やはり『治部正』と読める。
   本家のお宅へ訪ねて行ったのだが残念ながらお留守であった。
   実は分家の奥様に家を訪ねたのだが、色々話を聞かせてもらった。
   しかし、戦国期に本貫の地が前橋市青柳町辺りにとは聞いていないと言われた。
   むしろ信濃の青柳城の事を気にかけておられた。
   ちなみに写真はお寺さんにお伺いを立ててから取らせてもらった。
   それとひそかに手を合わせ願い事もしてきた、内緒の・・・ 

  • 万福寺墓碑 (天台宗下柴山竜学院万福寺)
   manpukuji02.jpg
   ●万福寺の宝塔・・・ ・高崎市指定史跡
   これは万福寺歴代のご住職の墓碑と聞いている。ふつうお寺のもっとも奥まった位置に
   立てられるそうだが、青柳一族の方に聞いた話では、そのさらに後ろの奥まった所が
   歴代青柳家の墓所だと云う。

   manpuku01.jpg  manpuku02.jpg
   江戸時代のご先祖様が立てたと伝わる記念塔

   青柳紋右衛門友忠おじいさんが立てたとされるが、これが当時の青柳家当主だとすれば
   通称(仮名)には代々『〇右衛門』と付けたと考えられる。

   桧平の戦いでは『青柳藤右衛門』長野家着到帳では『青柳治部右衛門』となっている。
   と言うことは金王も『〇右衛門忠家』を名のっていたと思われる。

   もしかしたら、青柳惣右衛門おじいちゃんは一時期青柳家当主に最も近い地位
   もしくはそれに準ずる地位にあったのかもしれない。
   まったくの都合のよい想像なのだが、それと言うのもそれ位、代々伝わる
   『官途名(治部正)』『通字・忠〇』『通称(仮名・〇右衛門)』は非常に尊ばれる
   からである。許可なしに勝手には名乗れないのである。

青柳金王忠家

  • 青柳金王忠家・・・・戦死。 箕輪初心●群馬「高崎の旧榛名町の全城=29城」より
  ・本居勢田郡青柳村・・・★前橋市青柳大師(青柳山談義堂院龍蔵寺)
   長野業政の時代に同心して家臣団に加わった。一般の家臣と違い
   知行と呼ばれる領地を山内上杉家より与えられていた。

  ・三ツ子沢の砦住・・★高崎市旧榛名町三つ子沢 高崎市三ツ子沢町。
   諏訪神社の境内になっているところが三ツ子沢砦の址という。
   上杉憲政が平井を退去した後に、押し寄せる北条・武田から箕輪城を守るため
   各地に砦や城を築いたが、忠家は三ッ子沢の砦をを任された。

  ・箕郷町下芝には、青柳一族の屋敷跡があるが、いつ頃より居住したかは不明
   説①武田氏に従属後、下芝砦を任された時
   説②長野業政の時代に同心して家臣団に加わった時
   説③謙信公が越山して、北条氏が厩橋城代になり、領地を召し上げられた
     業政が代替え地として、下芝をあてがってくれた時

  ※いづれの説も棟治が推測したもので、文献などによる根拠はない
   永禄4年の桧平の戦いにて、青柳藤右衛門に五百騎の兵を加勢し砥沢に向かわせた。
   と言う記録が残っている。これは棟治の推測では金王一族、しかも父親である可能性
   が高い。この当時ここまで重く用いられていたなら、説②の家臣団に加わった時より
   下芝と青柳郷、そして三ッ子沢に一族の砦・居館があったと思われる。

   他にも赤城山南麓の小領主たちが、業政に同心して重用されているが、その理由
   の一つとして、業政自身が厩橋出身でありその時代から、上杉家の命で与力して各地へ
   従軍していたからであると推察している。  棟治
    
   竜沢寺にある青柳忠家墓碑には青柳金王とある金王丸でなく「金王」と思われる

  • 金王(金王丸)の由来を調べてみたところ・・・
   土佐坊 昌俊(とさのぼう しょうしゅん、康治2年 - 文治元年10月26日は、
   平安時代末期の武将・僧侶。土佐坊昌俊は法名であり、本名は渋谷金王丸という。
   桓武平氏秩父流の渋谷重家の子。なかなか子の授からない渋谷重家が祈願すると、
   金剛夜叉明王のお告げがあり、程なく男子が誕生したことから、金剛夜叉明王の
   上下の文字を戴き「金王丸」と命名したと言う。Wikiより

  ※もしかして関係あり?⇒金剛夜叉明王の上下の文字を戴き「金王丸」と命名した
 

上野における2つの青柳氏


   上州青柳城(群馬県館林市青柳町堀ノ内乙)
   佐貫嗣綱の孫、文治四郎広嗣が館林の青柳に移り、その子孫が青柳を名乗った。
   青柳城は当時赤井氏のものであった可能性が高い。
   その後どのようにして前橋市青柳町へ移ったかは不明である。
   前橋市青柳町周辺は中世初期には、青柳御厨と呼ばれた荘園があった

   長野家着到帳には青柳金王忠家、本居勢田郡青柳村とだけある。

   この二つの説は、本日見つかった文書によると違っていることになり、金王は上野源姓
   青柳氏が箕輪から、坂城に入りそこから筑摩郡(青柳郷)を経て、箕輪に戻ったことに
   なる。もう少し調べてみるが、わけわからなくなった。また本家の方が信州を気にかけ
   ておられる理由も分かってきた。20170502


   信州青柳城(長野県東筑摩郡筑北村坂北)
   青柳頼長は上杉景勝に従い、信濃府中を回復した小笠原貞慶と青柳城・麻績城を
   争い、後に和議を結んだが、天正15年(1587年)には深志城(松本城)で
   誅殺され、青柳氏は滅亡した。
  ・中之条へ住み着いた青柳氏、武田氏に従い真田氏とともに従軍してきた。
  ・藤岡市本動堂の青柳氏、天正15年の滅亡の時逃れてきたと見られる。

   これらはいずれも、青柳清長を祖とする同族である。
  

前橋青柳氏(戦国後期以降は箕郷町を本拠とする)

  ※綱政・綱教・忠勝は棟治の推定であり史料はありません
  青柳家の当主は、調べて行くうちに歴代〇右衛門を名のったと思われる
  よって金王忠家も仮名(仮称)を藤右衛門に当ててみた



青柳綱政  ※忠勝は(先代藤右衛門、桧平の戦いで侍大将?)
↓     ※忠家は(金王・金王丸)※墓石に治部正(治部少輔?)と読めなくはない文字が
綱教  
忠勝----藤五郎(架空)
   |
   --藤右衛門忠家(高家)----治部右衛門(下芝・郡代)---(江戸時代)----現当主
   |
   --次左衛門(徒士)
   |
   --十左衛門(中小姓)

※仮想系図です。20160329 現当主様宅訪問 少し変えました

  • 青柳屋敷と下芝砦
   『群馬県古城塁址の研究』山崎一氏著より、その遺構を現す縄張り図を基に
   少し古めの住宅地図と合わせてみた。例によって氏名と住所などギリギリまで
   読み取れないように配慮して整理してみたのが下の図です。

   aoyagi03.jpg

   お話によると、屋敷の南の方に下馬した馬を留め置く施設があったそうです。
   また屋敷の内に米を突く水車小屋があったとの話なので、今度行く機会があったら
   この図を基にお話が聞けたら良いなと思っています。

 

   本日箕郷町の青柳家へ訪問してまいり、色々お話を聞かせていただきました。
   下の写真はその時見せて頂いた脇差です。
   aoyagi01.jpg  aoyagi02.jpg
   鑑定書には『脇差 長さ44.7cm 反り1.3cm 銘文 備州長船祐定』とありました。
   世の中物騒なので、詳細については省かせて頂きます。
   大変貴重なものを拝見させていただきまして、本当にありがとうございました。
   また一つ私の夢の実現に向けて一歩も二歩も前進できました。
  
   またその時出た話で、竜沢寺にある金王墓碑は、ある時ご住職の怒りに触れ
   寺の前の「おぬま(小沼?)」に投げ込まれてしまったそうである。
   現在は田んぼにはなっているが、昭和初期の頃まで田のほかに湿地もあぜ道の
   脇に広がり面影を残していたと、分家の奥様が教えてくれた。

   青柳家当主の院号は、ご住職より高かったらしくもしかしたら、それが元の
   些細な出来事が事件の発端であったのかもしれない。
   その後苦労して引き上げたのか、作り直したかはわからないのだが、
   今のところに無事鎮座しているのであります。
   ※一つだけ形が違うから、やっぱ作り直したんだろうね、きっと

  • 棟治のご先祖様
   おおよそ100年ほど前に、下芝から出たとされる曾祖父の戸籍が取れた。
   名は『和蔵』と名づけられている。とうの昔に亡くなった親父も家族の系図
   について調べていて、『和蔵』さんは後妻の子だったらしく父壽三郎が亡くなった
   後に家を出たと言っていた。しかし私が調べたところによると、下芝村番外5番地に
   籍を持っていた青柳惣右衛門さんは、訳あって壽三郎を養嗣子にもらった。

   そして前妻に2男、後妻に1男1女をもうけた。壽三郎さんと嫡子が、明治20年に
   相次いで亡くなってしまった。これを相前後して、ご先祖様は下芝から出ざるを
   得ない状況になったと思われる。

   その後戸主となった人たちの一族は、石原で亡くなって戸籍を閉じたとあった。
   子孫はどこかで籍を設けたのであろう。

   では曾祖父『和蔵』はどうしたのかと言うと、おそらくだが姉のサタ
   壽三郎没後の明治23年に山名へ嫁もしくは戸籍の通り養女に出た。
   その縁で同山名村にて、村からひいばあちゃん『まつ』を貰い戸籍をもうけて
   私に繋がる。ちなみに『まつ』の娘が『くま』で下芝の青柳家にも『くま』という
   娘さんが居たそうである。同じ一族と確信した・・・かな?

   この下芝村番外5番地が、現在の箕郷町下芝の何所であったかはわからない
   該当する番地が存在しないからだ。ここからは想像なのだが、青柳館跡のすぐ上に
   4番地が存在していて、その次に若い番地はいきなり13、18になっている。
   この3つの番地は直ぐ隣り合っているので、おそらく100年ほど前にはこの辺りに
   5番地が存在したのであろう。と言うことは、青柳金王の一族から分家した
   ごく近い青柳が土地を分けてもらって住んでいたことになる。

   その最後まで5番地に居を構えていたのが『惣右衛門』おじいちゃんなのであろう。
   時の流れによって、もうそこには館跡は存在しないが、棟治の胸中には金王の一族
   として今でもそこに住み続けているのであった。
   手を合わせて感謝している『青柳』の名を頂いたのだから・・・
 
   これで棟治のルーツ探しは一旦〆て置くことにする。
 

  • 最終更新:2017-05-05 01:05:09

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード