鷺坂常陸守長信

十二家客分大身小身知行地方持衆(高家)鷺坂常陸守長信

鷺坂常陸守長信・・・・戦死。 写真は箕輪初心●群馬「高崎の旧榛名町の全城=29城」より
本郷砦住定居・・・★高崎市旧榛名町本郷の高浜砦のことである。
高浜砦と景中砦兼任であろう。・・・匂坂常陸介長信(箕輪記)

  • 鷺坂常陸守長信 平井城史探訪より
 群馬郡榛名町高浜の広木氏の先祖は、関東管領平井城主上杉憲政に仕えた鷺坂常陸守長信の子孫と伝えている。この地の同姓7軒で家紋は三ツ柏。大本家は不明であるが、広木利一氏の家に伝わる由緒書きによると常陸守長信は上杉憲政に従い、北条・武田との戦いに功があり、高浜に土着し、又嫡子広之助の戦功により広木の姓を上杉憲姓から賜ったとある。
 広之助は土地の長信寺の開基となり、常広坊信他考と改め長信寺2世となり、満行宮・駒形宮の別当(神官)も兼ねていた。尚、箕輪着到状にも広木姓は見えている。特殊家例としては3カ日はイモガラとミソ汁の雑煮。(近藤義雄氏調べ) 

  • 某ブログより 群馬県・榛名町・高浜砦 (2011年09月18日)
 戦国時代に西上州を支配していた長野業正の居城・箕輪城の出城として高浜砦がありました。烏川と鳥居沢川の合流地点に築かれた単郭で、箕輪城の南西側を守っていました。その後、匂坂長信が城主となりました。武田信玄による最後の箕輪城攻めでは、信玄の命を受けた那波宗安の軍勢に攻められて長信の配下は全滅してしまいました。高浜砦の陥落を聞いた安藤勝道は宗安を討とうと箕輪城を出たものの、勝道も那波軍によって討たれてしまいました。城主の長信は、落城時に長野業盛(業正の子)に殉じています。写真は烏川を眺める砦跡に建てられた赤い稲荷神社です。高浜砦を攻め落とした宗安ですが、宗安の実家は上杉謙信に攻め滅ぼされた那波城です。15年後に起きた長篠の戦いでは川窪信実(信玄の弟)に従って、鳶ヶ巣山砦で信実と共に戦死してしまいました。

  • 最終更新:2016-06-12 13:49:39

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