1400年~永享の乱~1449年

  • 正平18年/貞治2年(1363年)
   足利尊氏の次男基氏が鎌倉に下向して鎌倉公方(関東公方)となると、11上杉憲顕
   関東公方の執事(後の関東管領)となり、公方を補佐して関東の政務を取り仕切った。
   憲顕は、観応の擾乱の際に足利直義方についたために上野・越後守護の地位を奪われて
   一時没落するが、尊氏の死後に基氏の懇願で関東管領に復帰、その口添えで罪を許されて
   上野・越後守護の地位を回復した。
   また、越後国の国衙領の半分及び上田荘・五十公郷などの所領を有しており、
   関東の所領は鎌倉公方、越後の所領は室町幕府の指揮下に置かれ、
   結果的に2人の主君を持つ事になった。
  • 元中5年/嘉慶2年(1388)
   父は足利長尾房景
   母は白井長尾清景の娘
   長尾景仲は、足利長尾房景の次男として生まれた
   ・????年 母方の伯父:長尾景守の婿養子となった。
  • 応永8年(1401年)
   景仲は14歳であったこの年、養父の死によって上杉氏の重臣である白井長尾氏を継ぐ。
   上野・武蔵守護代となった。
   当時の家宰であった惣社長尾氏の長尾忠政と共に上杉憲定を補佐し、以後5代の当主に
   仕えることとなる。

  • 応永16年(1409年)
   3代鎌倉公方足利満兼が死去すると満兼の子の足利持氏が新公方となった。
   当初、山内上杉家の18上杉憲定が関東管領の地位にあった。
  • 応永17年(1410年)
   上杉憲実は、越後守護・上杉房方の三男として越後国で生まれる。
   幼名は孔雀丸(くじゃくまる)。
   なお、信頼性のおける史料に、憲実の生年を明記したものはなく、憲実が丁度武家の
   人間が慣習上判始を開始する年齢にあたる15歳である応永31年(1424年)から判始の
   記録が見えること、「大内氏実録」に文正元年(1466年)に57歳で死去したと記述され
   ていることから、1410年生まれと考えられている。
  • 応永18年(1411年)
   上杉憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の上杉氏憲
   が関東管領に就任した。19上杉禅秀(氏憲)は、持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の
   養子で持氏の弟である足利持仲らと接近して若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握
   しようとした。
  • 応永22年(1415年)
  4月25日の評定で氏憲と持氏が対立する。
  5月2日に氏憲は関東管領を更迭され、18日には後任の管領として山内上杉家の
   20上杉憲基(憲定の子)が管領職についた、氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、氏憲の
   婿にあたる岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、大掾満幹、山入与義、小田持家、
   三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政や地方の国人衆なども加えて翌23年(1416年)
   に持氏への反乱を起こした。
  • 応永23年(1416年)
   上杉禅秀の乱の後、憲顕の兄弟から出た宅間上杉家、犬懸上杉家が相次いで衰亡すると、
   山内上杉家は上杉氏の宗家となり、関東管領の職をほとんど独占し、上野を本拠に武蔵、
   伊豆に勢力を張った。
   また同時代に一族の18上杉憲定の子上杉義憲が、常陸国の佐竹氏の当主佐竹義盛の
   婿養子となり、佐竹義人(義仁)と名乗って佐竹氏の中興の祖となった。その際に養父
   の義盛の一族の佐竹与義が反乱を起こし、山内上杉家も佐竹氏の内乱に介入していたが、
   佐竹義人(上杉義憲)が関東公方足利持氏の傘下に入ると、義人の従兄の上杉憲実は
   足利義教の傘下に入り、義人と対決した。  
  • 応永24年(1417年)、前年からの鎌倉での上杉禅秀の乱が収束する。
   応永二十四~二十八年頃(一四一七~二一)鎌倉公方足利持氏が榛名寺俗別当職
   とその管理下にある寺領の安堵を木部道金の申請に基づいて室町幕府管領である
   左京大夫(細川満元)に依頼(申沙汰)したことを示している。

   木部弾正左衛門人道々金申、上野国榛名寺俗別当職升当寺領、同国石神・石津
   ・三倉田白・在家・山野林、同国毛呂田中山田畠・在家・山林、
   同国渕名庄内花香塚田畠・在家等事、当知行無相違候、被成安堵候之様、
   早速可有申沙汰候也、恐々謹言、

          三月廿八日   持氏(花押)

     左京大夫入道殿

  • 応永25年(1418年)
   21上杉憲実は、従弟である関東管領・20上杉憲基(山内上杉家)が死去したため、
   その後継者に選ばれて鎌倉へ入り、偏諱(山内上杉家の通字「憲」の字)を受けて憲実
   と名乗る。憲基は生前より憲実のことを評価していたようであり、彼をあらかじめ後継者
   と定めていたとも考えられる。しかし、歴史学者の渡辺世祐は、憲基盤の死後、被官で
   ある長尾氏や大石氏が憲基の遺言を装って決めたことではないかと指摘している。
  • 応永26年(1419年)
   21上杉憲実は、憲基の死去の翌年、10歳で室町幕府の出先機関の鎌倉府において
   鎌倉公方を補佐する関東管領に就いたといわれている。
  • 応永27年(1420年)
   この年には。、憲実の就任が確認できる。また、上野・武蔵・伊豆の守護ともなる。
  • 応永30年(1423年)
   6月~8月には、小栗満重の乱を起こした常陸の小栗氏征伐に出陣し、
   小栗城を攻め落としている。
  • 応永31年(1424) 15歳、上杉憲実が元服した。
  • 応永34年 1427年 このころから利根川が西に変流(それ以前は細井から本町東を流れていた)。
前橋市HPより
  • 応永35年(1428年)
   室町幕府4代将軍・足利義持が死去し、籤引きで足利義教が6代将軍に就任した。
   憲実の主君の鎌倉公方足利持氏は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を
   持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実はこれを諫止する。 

  • 永享元年(1429)足利直家臣の長尾佐衛門景忠が上野・越後守護代。
   4男の長尾忠房を上野国府を支配。長尾忠房は国府跡を蒼海城を城郭化
   元の総社神社を   今の場所に移築。~以後、総社長尾氏の本拠地。
   (上野国守護代総社長尾景行入城説あり。)
  • 永享3年(1431年)
   憲実は、古河公方足利持氏が幕府の改元を無視すると、謝罪の使節を派遣した。
  • 永享4年(1432年)
   鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還し、同年に幕府で将軍・義教の富士下向が
   協議されると、憲実は警戒して関東情勢の不穏を理由に下向の延期を促し、幕府の
   醍醐寺三宝院門跡満済らに進物するなど、憲実は一貫して鎌倉府と幕府との調停に
   努めている。一方で、幕府は憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようとしていた形跡が
   見られ、義教への対抗姿勢を続ける持氏と穏健派の憲実は確執が生じるようになって
   いたと考えられている。

 ●上杉憲実が足利の領主になった。
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   足利学校の中興に尽くした。
   鎌倉円覚寺の僧:快元を招いた。
   蔵書を寄贈して、足利学校を盛り上げた。
   北は奥羽~南は琉球にいたる全国から来学徒が集まった。3000人とも言われている。
  ※教育の中心は儒学・易学であった。兵学、医学も教えた。
  ★足利持氏もここで学んだ。     
   上杉憲実の足利幕府への融和作
  ①鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還した。
  ②将軍:足利義教の富士下向の延期願いをした。
  ※6代将軍:足利義教の鎌倉幕府への疑惑
   ~~~間に挟まれた穏健派の上杉憲実~~~~~
  ※関東公方:足利持氏の幕府への強硬波=対抗姿勢派と
   穏健派の憲実との間には、は確執が生じるようになった。
   そして、上杉憲実&足利持氏は次第に対立していくのであった~~~~。 
箕輪初心師のブログより

  • 永享8年(1436年)
   幕府の分国である信濃守護小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、持氏は
   鎌倉に支援を求めた頼清を助けて出兵しようとするが、憲実は信濃は関東公方の管轄外
   であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原政康が勝利する。
 ●信濃の戦い
    信濃守護:小笠原政康(★武田系の源氏)
       VS
    村上頼清(★村上源氏)
   
   足利持氏は鎌倉に支援を求めた村上頼清を助けて出兵しよう
   とするが、上杉憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして
   諌め出兵しなかった。、
   結果・・・小笠原政康が勝利した。
箕輪初心師のブログより
  • 永享9年(1437年)
   持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、憲実
   方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。持氏は憲実の元を訪れて会談するが、憲実は
   相模藤沢へ下った。
  7月に嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。持氏は在職を望むものの憲実は管領職
   を辞任する。
  8月には一旦は復職するものの、武蔵国の文書への署名を依然として拒否しており、確執は
   解消されないままとなった(武蔵国は鎌倉公方の領国とみなされ、関東管領がその代官
   として守護職を務めていた)。
 ●足利持氏 VS 上杉憲実
   上杉憲実は相模藤沢へ下り、嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入った。
   足利持氏は在職を望んだ。
   しかし、上杉憲実は管領職を辞任した。
箕輪初心師のブログより
  • 永享10年(1438年)
   持氏が憲基の従兄で関東管領上杉憲実を討伐しようとして永享の乱を起こすと、長尾忠政
   は憲実を上野平井城に迎え入れて持氏討伐の兵を挙げる。この戦いで景仲副将格として
   出陣して、忠政が持氏を捕らえた際にも功績があった。続く結城合戦でも功績を挙げる。
  6月に持氏の嫡子・賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領
   を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して
   「八幡太郎」の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃には持氏が
   憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している(元服式に
   出席してしまうと、義教の偏諱を受けなかった義久を容認してしまうことになり、幕府
   への立場が悪くなってしまうことを危惧したとも)。持氏に嫌疑をもたれた事に対し、
   不本意として自害を試みたが制止させられた。
  8月には、難を逃れるために鎌倉を出奔して領国の上野平井城に下る。通説ではこの時期に
   憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。なお、京都の足利義教は憲実は
   必ず自分を頼って京都に赴いて持氏打倒を訴えると考えていたらしく、既に駿河の今川
   範忠に憲実を庇護を命じていたため、この対応に困惑したと言う。
   持氏は憲実討伐のため8月に一色氏に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。幕府は関東
   での事態に対して、持氏討伐の兵を下すとともに、信濃国の小笠原政康に憲実救援を命
   じている。
    hirai01.jpg  hiraihjtyou01.jpg  
  9月末には小笠原軍は上野国板鼻に入って北上する鎌倉軍を打ち破った。
  10月憲実は武蔵分倍河原に着陣し、先鋒の一色軍を破る。憲実自身は旧主を攻めること
   をよしとせず、自らの軍の兵を進めることはなかったが、家宰の長尾忠政が代わりに兵
   を進めた。鎌倉軍は幕府軍に敗れ持氏は出家して永安寺(鎌倉市)に入った。

   結果・・・足利幕府軍&上杉軍が鎌倉公方軍に勝った。
        足利持氏は出家して鎌倉の永安寺に入った。

   憲実は幕府に持氏の助命と義久の関東公方就任を再三再四(『日本外史』によると
   "使者十余反")嘆願するが、義教はこれを許さず憲実に持氏を殺すよう命じ、憲実が
   持氏・義久父子の成敗を固辞している姿勢を、逆に持氏の翻意に荷担していると嫌疑が
   かけられた。憲実はこのままでは義教に自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれる事
   を覚悟して足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進して一旦は身辺整理を行
   うものの、相国寺の柏心周操の説得に応じた。

  • 永享11年(1439年)
 ◆上杉憲実の出家・隠遁
   上杉憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した。
  ※永享の乱が終結した。
   永享の乱後、上杉憲実は弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家した。
   そして雲洞庵長棟高岩と称した(伊豆遁世前に持氏の墓前にて自害を試みている)。
   上杉憲忠は父の憲実が出家したとき、共に出家した。
   清方はこの時に山内上杉家当主に就任したとみられ、関東管領も譲ろうとしたが幕府は
   認めなかった。このため山内上杉家が当主不在となった。。
  • 永享12年(1440年)
   結城氏朝が持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して挙兵する(結城合戦)。
   幕府は憲実に政界復帰を命じ、憲実はやむなく出陣した。その後、憲実は再び隠遁した。

  • 嘉吉元年(1441年)
   嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰
   を命じるが憲実はこれを拒み、甥の越後守護上杉房朝に預けていた次男房顕を除く子供
   達も出家させる。憲実は子供達に決して還俗せぬよう命じた。このため、幕府も長い間
   憲実の「名代」とみなしていた上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。
   21上杉憲実の次男である23上杉房顕は、越後守護:上杉房朝の元に置かれた。
   その後房顕は、京都奉公を決められている(「上杉房顕文書集」一)。
  • 文安元年(1444年)
   忠政が家宰を退くと、子供達を連れて出奔した憲実に代わって山内上杉家当主を兼ねる
   事になった憲実の弟の越後守護上杉清方(上条上杉家)の要請で山内上杉家の家宰に
   就任した。

   ところが、この年に文(安3年(1446年)説も、また死因は自殺とも)清方は急死し、
   憲実は隠遁生活からの復帰を承諾しなかったために先の永享の乱で廃絶した鎌倉公方に
   続いて関東管領も空位となって関東の政治は停滞した。

   そこで景仲は扇谷上杉家の家宰で婿の太田資清(道真)と相談して憲実の長男竜忠
   (上杉憲忠)を連れ出して関東管領を継承させた。しかし、いとこの佐竹実定に家督を
   継がせようとした憲実はこれを認めなかったため、景仲は憲実・実定を排除して憲忠を
   擁立することになった。

   ところが、足利持氏の遺児永寿王丸(足利成氏)を新しい鎌倉公方に擁立する動きが
   清方の後を継いだ越後守護上杉房朝や関東諸将の間で起き、室町幕府もこれを容認した。
  ※これらの動きは、文安元年~3年までの出来事で、各々の時期について説が分かれる。
  ※上杉憲実譲状(越州上田庄等を次男龍春に譲渡の事)*他に同文1通有 文書館
  • 文安3年(1446)
   山内上杉家:家宰の長尾景仲が困り果てて憲実に復帰を要請した。
   上杉憲実は先の方針から自分の子に後を継がせる事を許さず、山内上杉家の血を引く
   佐竹実定(父:義人が山内上杉家)を後継者に指名して家宝・家伝の文書を譲り渡し
   てしまった。
   21上杉憲実の次男である23上杉房顕は、越後守護:上杉房朝の元に置かれた。
  4月房顕は元服して仮名八郎を称し、越後と丹波の所領を与えられた。
   8代将軍:足利義政の近臣として仕えた。
  • 文安4年(1447年)
   持氏の遺児成氏が鎌倉公方になると、憲実の長男憲忠が長尾景仲に擁立され関東管領に
   就任した。憲実は憲忠を不忠の子であるとして所領を全て没収して義絶した。
 憲実は次男の房顕だけを京都に出仕させて以外の息子は全て僧侶とするつもりであった。
   しかし、家宰の長尾景仲はこれに反発して憲実と対立した。
   家宰:長尾景仲は佐竹実定を排除して、上杉憲実の
   長男:竜忠(★22上杉憲忠)擁立した。
 通説によれば、憲忠は還俗したことになっているが、「龍忠」は法号ではなく、出家
   しなかった房顕(竜春)も含めた憲実の子に共通する幼名であると考えられるため、
   実際には出家する前に擁立されたとみられている。
 当時の将軍であった足利義政が幼かった事から幕府の意向を受けて後花園天皇から憲忠に
   対して直接関東管領に任じる綸旨が出された事が『建内記』文安4年7月10日条に記され
   ている。
   同年(1447年)、憲実は家臣の長尾氏から伊豆国平井郷の所領を召し上げ、持氏の後室
   に料所として進上している。長尾氏には土地を召し上げた代わりに代替地を与えている。
   憲実の危惧通り成氏は、憲実を親の仇だと考えていた。
  • 文安5年(1448)
   長尾景仲らが22上杉憲忠の家督を支持した。11月には、関東管領に就任するに至った。
   憲実は憲忠を不忠の子であるとして所領を全て没収して義絶した。
  • 宝徳元年(1449年)
   足利持氏の遺児:永寿王=足利成氏が鎌倉公方として復帰した。
   永寿王丸は、元服して従五位下左馬頭に任命された。そして8代将軍足利義成(後の義政)
   の一字を拝領して「足利成氏」と名乗って正式に第5代鎌倉公方に就任した。
   だが、成氏が永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用
   するようになると、上杉氏やその家臣団の反発も高まっていった。
 復興後の鎌倉公方は、政治的基盤が以前にも増して脆弱になっていた。
   成氏が幕府に申し入れをする場合、憲忠の副状が必須であり、憲忠の副状がない場合
   幕府は取り合わなかった。そうした状況もあって、成氏は強い焦燥にとらわれ、憲忠
   への殺意を一層募らせていった。その後、成氏に罪を許されて復帰したが、成氏と憲忠
   の対立はさらに深まった。
  • 宝徳2年(1450年)
   相模鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市栄区長尾台)が足利成氏の命令を奉じた簗田持助に
   押領される事件が起きた。この地はその名の通り長尾氏発祥の地であり、そこにある
   御霊宮は長尾氏一門の祖先祭祀の中心であった。この事態に景仲ら長尾氏一族は激しく
   憤慨して成氏に激しく抗議したが、成氏側は返還には応じようとしなかった。
 4月20日、景仲・太田道真が鎌倉に兵500騎を入れてクーデターを起こそうとした。
   だが、成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜のうちに鎌倉を脱出して江の島に立
   て籠もった。翌日には由比ヶ浜で両軍は交戦した。

   長尾・太田軍は惨敗した上に、事情を知らない主君憲忠までが成氏救出のために小幡氏
   らを出陣させたことが明らかになったため、景仲と道真は道真の主君である前扇谷上杉
   家当主上杉持朝の糟谷館(現在の神奈川県伊勢原市)に逃げ込んだ。憲忠は事件に全く
   関与していなかったが、襲撃したのが長尾・太田の兵であると知って謹慎してしまった
   (江の島合戦)。
 10月成氏は鎌倉に戻り、憲忠もに入って職務に復帰、その懇願によって景仲らの罪も赦免
   された。ところが、その後も成氏側・憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する
   事件が頻発した。このため、憲忠・持朝は成氏打倒を計画する。
   成氏は憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こしてしまった。
   この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いたとされる。

 

  • 最終更新:2018-09-22 15:13:53

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