『関東古戦録』

 ◆上杉憲政、川越城を攻める
   河越城は上杉朝興没落後、北条家のものとなり、福島左衛門太夫(北条)綱成が城代と
   して守っていた。綱成は源頼国の十四世の子孫福島左近将監基宗の後胤で、父は兵庫頭
   正成という。今川義忠の宿老で遠江土方の城主であった。

   文明人年(1476)四月六日、義息が遠江塩見坂で死去した時、その子修理太夫氏親は
   龍王丸と名乗り、わずか七歳の少年であったため、家中は二派に分かれて争うように
   なった。

   龍王丸は山西に退去して、母方の叔父伊勢新九郎長氏(北条早雲庵)に頼ったが、
   その尽力によって講和がなり、龍王丸は無事駿府に帰ることができた。
   正成はその後駿東郡に逼塞していたものの、甲斐国を征伐して自立を図ろうと決意し、
   旧知の武士およそ一万五千を集めて、大永元年(一五二一)十月中旬に富士山の麓の
   川内通りから甲斐山梨郡内に侵入して陣を張った。

   この時、甲斐の国主は武田左京大夫信虎であった。
   信虎は二十八歳の若さで勇猛ではあったが、政道に誤りが多かったため人々の信頼が
   なく、従う者は少なく、集まった軍勢はわずかに二千程にすぎなかった。
   信虎は集まった軍勢を率いて福島の軍勢と対陣し、六十日余りも戦い続けた。

   武田軍は力尽き、このままでは信虎討ち死にかと思われた時、武田家譜代の家臣萩原
   常陸介の計略が功を奏した。十二月二十三日、一条河原(別に飯田河原ともいう)の
   合戦で正成が原能登守友胤によって、同時に正成の叔父山県淡路守も小畑山城守虎盛に
   討ち取られるという出来事がおこった。この時、正成の子綱成は七歳の童であったが、
   家人らに守られて小田原に落ち延び、ここで成長したという。

   その後、綱成は成人して北条氏綱に仕えた。氏綱の覚えはめでたく、近臣として重く用
   いられ、また武将としても幾多の戦いで才能を発揮したため、氏康の妹婿に望まれ、
   北条一門に列せられた。

   なお、綱成は武道にひとかたならぬ志を持ち、毎月十五日には身を整えて武の神である
   八幡社へ詣出て、武運を祈ったという。戦場で使う差物は朽葉色に染めた練絹に八幡と
   墨書したものを用い、諸人に先駆けて進み、「勝つ」と声を掛けて勇気を鼓舞し廻った。
   綱成の軍勢は神がかりともみえるほどで、人々はこれを地黄八幡と呼び習わしたという。

   ところで、駿河長窪城は元は今川方の城であったが、今は北条氏が奪い取り、氏綱の弟
   葛山長綱(後に幻庵と号す)が守っていた。今川義元はこれを奪い返そうと考え、上野
   平井城の上杉憲政に使者を送り、同盟を結んだ。義元は駿河・遠江の軍勢を率いて、天文
   十四年秋(1517、一説に天文十二年ともいう)、長窪城へ押し寄せた。

   氏康は長窪の後詰のため援軍を送ろうと軍議をしている所に、憲政・扇谷上杉朝定らは
   上野・下野・北武蔵・常陸・下総から六万五千余騎の軍勢を集め、平井城を出発した。
   彼らはまず河越城を攻め落とし、次に長窪に向かおうとして、九月二十六日には入間郡
   柏原に進み、先陣は河越城をびつしりと囲んだ。

   上杉方の武将はまっ平らな武蔵野に、城戸を設けて家ごとに陣を並べて旗や陣幕を張り
   めぐらせたが、その様はキラ星が連なるようで、人々の目を大いに驚かせた。
   城主福島綱成と副将朝倉能登守・師岡山城守ら三千の兵は堅固な意思を持ち、命を捨て
   て防戦に努めたため、寄せ手の損害も多く、城兵は屈する気配はなかった。

   河越城危急の報に接した氏康は、長窪への出陣を見合せて武蔵への出陣を検討したもの
   の、病に倒れたため近日中の出発が困難となり、北条方は対処に窮してしまった。
   ここで、古河公方晴氏は憲政に使者を送り、講和を進めた。
   憲政はこれに応ぜず、紀州高野山の僧芳春院を晴氏の許に遣わし、次のように伝えさ
   せた。

  「この度、晴氏様に援助を頂いて氏康を攻めるのは、北条一家を全滅させ、
   晴氏様を鎌倉にお迎え申しあげて、当家も昔のように管領の職に復して、
   君臣ともに栄えんがためであります。今を逃しては復活の機会はありません。」

   これを聞いて晴氏は、上杉は代々の旧臣、氏康は妻の実家でどちらを取るか決めかねた。
   晴氏の動揺を知った氏康も古河に使者を送って、

  「両上杉が言上したことに惑わされてはなりません。いやしくも氏康は縁続きの身であり、
   公方の地位にある晴氏様に対して少しの野心もありません。
   どうして北条家に村して憤りの気持ちをもたれたのでしょうか。
   今度の戦いではどちらが勝っても公方としての御政道を左右しかねず、国家安泰のため
   には一方につくのはよろしくない。よくよくお考えになることが大切です。」

   と申しあげさせた。
   北条家の使者が事細かに説明したため、晴氏も「そうか」と思われたのであろう、
   憲政への加勢の話はそこで止まってしまった。
   これに対して、難波田弾正左衛門・小野因幡守は晴氏の前に進み出て、
   次のように言上した。

  「今回の氏康の申し入れについて、憲政への合力を引き延ばすとの御様子ですが、
   これは再考の余地があります。およそ、関東管領上杉家は初代基氏様以来の股肱の家臣
   であり、上杉家に代わるものはいません。北条家は一時縁組したとはいえ、早雲以来、
   その本心は公方を欺いて足利家の御運を傾けようとしており、氏康は憲政との戦いに
   晴氏様の権威を借りるためだけに足利家を持ち上げているのです。
   上杉家が滅亡すれば、足利家の威光は奪われることは明らかです。
   どうか、熱慮によって憲政をお助け下さい。」

   晴氏は再三の諌言に押されて上杉の援助を決断し十月二十七日、二万余騎にて古河を
   出発して河越に動座した。
   河越では憲政は兵糧攻めを進めており、長陣となつていた。

   一方、北条方は相州の風間小太郎の配下の二曲輪猪助という忍びの者をひそかに柏原に
   入れて、上杉方の陣立てを細かに調べて通報させていた。
   猪助らの動きはやがて露顕し、扇谷家の手の者が彼らの居所を襲った。
   猪助はとっさに逃れたが、追手の中で太田犬之助という足の早い男が五・六里ほどその
   跡を追いかけた。

   猪助は手柄や高名は必要ない、命ばかりが大切と、また氏康の下知を受けた身であれば
   復命のためには何としても逃げ延びなければと、ただひたすら急いだ。
   つかれきってここまでと思った時、海辺の方の農家に馬がつながれて草を食べているの
   が見えた。彼はこれは天の助けとばかり馬の手綱を太刀で切り、跡をも見ずに小田原に
   駆け込み、ようやく命を全うした。

   この日、何者のしわざか、扇谷の陣の前に落首があった。
   駆け出され逃れたる猪助ひきよう者よくも太田か犬之助かな

   暮れて天文も十五年(一五四六)の春となつた。

 ◆福島勝弘、川越城に入る
   河越城は兵糧を絶たれたまま時が過ぎ、しだいに苦しくなってきた。北条方では援軍
   を送って城兵を救おうと策を練っていたが、ついに氏康は奇策を考え出した。
   城を持ちこたえさせてその策を成功させるため、大軍に囲まれた河越城の中に氏康の
   下知をいかに伝えるかが評議にかかった時、福島伊賀守勝広が進み出て申し上げた。

  「お話を聞くと、危急存亡の時を迎えたようです。もし使者となった者が囚われの身とな
   り、薄何によって自白し、この策が敵に知れたら味方の損害は大きい。そうは言っても
   城中にこの密計を知らせないと、援軍を送る前に降参して城を明け渡すか、討ち出て切
   り死にをするか、はた又援軍が到着した所でこれ幸いと打ち出るか、そうでなければ飢
   えの余りうろたえて何もできないか、のいずれかでしょう。某は味方の秘策を知らせる
   ために、身命をなげうって無二無三に城中に駆け入り、秘策を伝える所存です。

   ただし、運が尽きて捕らえられ、どんな拷問を受けても、弓矢八幡にも照覧あれ、決し
   て白状はしない。これは幼い時からうけた主君の恩に報いるため、また兄の綱成に運
   を添える気持ちから出たもので、心からの気持ちです。他人には任せられない事です。」

   勝広は福島兵庫頭が甲斐西都で討ち死にした時、生まれたばかりの赤ん坊で、家臣らの
   養育によって兄綱成と共に小田原に赴き、童の形になったが、姿形も美しく育ったため、
   氏康の寵を得て、傍輩の中でも出世頭となった。氏康はしばらく答えなかったが、

  「お前の望みに任せて河越城に遣わす。生涯の働きはこの時である。才覚によって無事に
   城内に入ってしてほしい。」

   氏康はハラハラと涙を流し、これが最期とばかり盃を与えた。福島は今年二十六歳、もと
   もと美男でほっそりしているが、武勇は兄の綱成に少しも劣る所はなかった。氏康の密命
   を受けて座を立ったが、宿舎に帰らず、忍びの者を招いて敵方の合言葉を確かめた。

   腹巻の上に直垂を着て、小田原を立って河越に向かった。敵陣の近くに着くと、家臣・
   若党を小田原に返し、ただ一騎で敵の陣中を通り抜けて、難なく城門まで着いた。
   軍神が忠義に感じて加護を加えたのであろうか、数万の敵兵のうち一人として咎め怪し
   む者もなかった。

   綱成配下の木村平蔵が外張の柵の内側からこれを見つけ、城戸を開いて迎え入れた。
   すぐに綱成が対面して策略の手だてを聞き、氏康の命を城兵に伝えると、城内はたちまち
   沸き返えり、城兵は意気揚々として元気を取り戻した。

   異説に、河越の夜戦は氏廉二十四才の天文七年(一五三人)七月十五日のことという。
   福島勝広も弁千代丸と称して十人歳で元服前の小姓であったという。今考えると、天文
   七年の戦は河越の近くの三木において上杉朝定と氏綱が戦ったもので、北条方が勝って
   河越の城も奪い取り、朝定は松山へ逃れた。その後、福島綱成が河越に入った。この年
   丙午(一五四六)四月二十日が真説であろう。

   そうであれば、弁千代丸の年齢やその父兵庫頭が大永元年(一五「二)に討ち死にした
   ことも問題はない。同じ大永元年、武田信玄が生まれ、父信虎はこれを喜び、幼名を
   勝千代丸と名付けている。

 ◆川越の夜軍
   さて、氏康は小田原の留守はいうまでもなく、韮山・長窪・三崎・荏柄などの要害にも
   五百三百、又は百・二百騎の人数を振り分け、不慮の事態への備えを万全にして、天文
   十五年(一五四六)四月一日、八千余騎を率いて武蔵入間川の辺、砂窪に出陣した。

   敵陣をみると、公方・管領両家に属する軍勢はおよそ八万六千余騎、足の踏場もなく
   野山に充満していた。敵と味方を比べれば九牛の一毛、大きな蔵の一粒の米で、剛力の
   韓信・李広にもどうにもできなかったと考えられる。

   しかし、氏康は大軍を恐れず小敵をあなどらなかった光武帝の度量を持つ良将であったの
   で、少しもわるびれず、

   「戦は軍勢の多少によらず、上杉方の武将のお手並は面々が知り尽くしている。
   すぐに一戦して勝利すべし。」

   と広言して、士卒を励ました。
   まず、計略の一つとして、公方を混乱させようと、晴氏に属して出陣している常陸下妻
   の多賀谷下総守家重に使者を送って、氏康の内意を申し伝えたところ、家重にはこれを
   拒否された。

   次に、武蔵寺尾の住人諏訪右馬介を仲介にして、小田民活の陣代を勤める常陸突倉の
   城主菅谷隠岐守を通じて晴氏に次のように言上した。

  「河越城に籠もっている家臣どもはどうしてよいかわからない。御慈悲を賜わって助命が
   あれば、城から退いて明け渡します。氏康も今後は家臣の礼をとって忠節に励むことで
   しょう。」

   と、まことしやかに申し入れ、憲政にも使者を送り、次のように伝えさせた。

  「公方がお許しになって情けをかけてくれれば、氏康も憲政と同様に晴氏様につくし、
   関東は丸く納まるでしょう。」

   これに対し、両家とも全く承知しなかった。

  「氏康の申し入れに耳を貸すな。ここに足を留めさすな」

   と、城を囲んだ兵の中から、成田・萩谷・木部・白倉・上原・倉賀野・和田・難波田・
   大胡・山上・那波・彦部ら二万ばかりに城攻めの包囲を解かせて、北条方の本陣である
   砂窪に向かって押し寄せさせた。

   これを見た北条勢は法螺を吹いて武蔵府中へ退いた。憲政は刃に血を塗らずして敵を
   蹴散らしたことに満足し、笑いののしった。

  「氏康は臆病な大将だ。はるばると後詰めに参りながら、何もできず、合戦もせずに
   ただ恐れ、鬨の声を出しながら逃げ去った体たらく、言語道断の結果だ。」

   氏康は忍びの者からその噂を聞いたが、知らぬ顔で再び砂窪に出陣した。上杉方は好機
   とばかりまた大懸りに攻めかけた。氏綱は今度も軍を引いて府中へ退いた。この時、憲政
   に戦略についての方策があれば、河越城を囲む兵を引き上げて、一万ばかりを柏原の攻
   め口に残し、もし城中より打ち出てくる者共があれば、横から突いて駆け散らし、すぐに
   城中へ攻め入れよと命じておき、七万余りの軍勢は氏康を追って、府中を攻め取ってさ
   らに小田原まで押し詰めれば、勝利は疑いないものであった。

   そうでなくても、公方と管領の二旗が揃っているので、八万余騎を二手に分け、一手
   は入間川端に堅陣を敷き、氏康が来たならば一気に討ち果たす形を見せ、一手は城へ
   向かって短兵急に攻めれば、みな敗走して北条氏は滅亡したはずである。踵を回しては
   いけない所であったのである。

   晴氏は暗将で、憲政は考えが幼稚である。上杉方は東国の面々が集まって威勢は高いが、
   北条氏を弱敵と見て侮り、氏康の軍勢の配置を子供の遊びとみて、しかも攻め込むとす
   ぐ逃げたことから、これ以上の力を奮うこともない。攻め返してきたら十倍の大軍で
   四方八方から取り巻いて、一兵も漏らさず根切りにして、めでたく凱旋すべしとあ
   ざけり、ゆうゆうと構えていた。

   氏康はこの間笠原越前守を間者として用い、敵陣中に入れて様々なうわさを詳しく聞き
   まわり、迷いを捨てて決戦を決めた。

  「勝利の時が来た。者ども、攻めよ」

   と再び砂窪に現れた。
   時は天文十五年(一五四六)卯月二十日、宵闇の月が山の端に差し登る頃、空は曇って
   薄暗い中、氏康は八千余を四つに分け、一備は遊軍として多米大勝亮に預け、戦いが終
   わる時まで見物して見守り、備えを乱すなと命じ、三備は戦いに向け、その一備は先陣
   として突き進み駆け抜ける、その時二備が進み乱れる敵を切り巻いて駆け通り、先備と
   一つになって三備が懸かるのをみて、引き返して全体で鬨をあげて縦横無尽に敵を切り
   崩す。

   夜戦なので深追いせず、敵の頸は大将頸以外は討ち捨てにせよ、味方の印は白なので、
   たとえ敵と見受けても白物を着たものは避けて討つな、もし敵を切り倒した時も、味方
   から引き揚げの法螺が吹かれれば、捨て置きにして引き上げ言所に集合せよ、などと
   軍律を厳しく下知した。

   また、重い甲腎や鎧をやめ、合言葉を決め、松明を手に持ち、楢原に控えた両上杉陣に
   子の刻(午後十二時頃)頃開の声をあげて攻めかかつた。

   上杉方は油断していたので、寝耳に水のように慌てて、刀は槍はと上へ下へと探す所に
   北条軍が隙間もなく駆け入って刃を振り回した。同志討ちする者、真っ裸で迷う者も多
   かつた。氏康も自身で長刀を取って勇猛果敢に戦い、獅子奮迅の働きによって左右に
   十四人までなぎ倒した。大将がこのあり様で、清水・小笠原・諏訪・橋元・大藤・荒川
  ・大道寺・石巻・富永・琳和・内藤以下の勇士が十文字や巴の字のように動き回わり、
   我を忘れて攻めたてた。

   この猛攻によって、上杉方の旗本は蜘蜂の子を散らすように乱れて崩れた。
   扇谷上杉朝定も討たれ、難波田弾正左衛門は灯明寺口の朽ちた井戸に落ちて死んだ。
   その他、倉賀野三河守・本庄藤九郎・難波田隼人正去間近江守・小野因幡守以下の名の
   ある侍三十四人は、大将憲政を逃がそうと踏みとどまって奮戦したが、雑兵らに切り伏
   せられ屍を野にさらす結果となつた。その際に憲政は平井城に向かつて落ちのびた。

   北条方は勝勢にのって追いかけまくり、討ち取った者の数は知れない。この時、北条方
   の遊軍にいた彩加厳封が引き揚げの獣賢を吹き、全員を前に進めながら、千余人を丸く
   密集させ、周囲に注意を向け、新手で氏康の旗本を守りながら、総人数をまとめて、
   勝鬨の声をあげた。

   また、彼は氏康を諌めて、

  「敵の敗北ははつきりしましたが、さすがに彼らも恥を知る東国武士です。もし、兵を
   押し戻すことがあれば、疲れた味方は抵抗できません。勝って兜の緒をしめよという
   言葉もあります。夜が明けた所で、新手を先陣に立て、もうひと合戦を行うべきで
   しょう。」

   と言い、芝の上に旗本を集め、堅い陣を張って夜を明かした。
   この時、城中の福島綱成は敵方の旗・指し物がなびき、裸馬が東・西と逃げ去るのを
   城の櫓の上からみて、味方が勝ったことを知った。

   綱成は運を開くのはこの時とばかりと、城門を開いて例の黄八幡の小旗をひるがえして、

  「勝った。勝った」

   と叫びながら馬に乗って駆けだした。付き従う三千余騎馬も負けじと全力で喚声をあげ
   ながら駆けだし、晴氏の陣所にまっしぐらに討ちかかつた。
   古河勢は管領家の陣に夜討ちがあるとみて、その場合に備えて陣を立て直し、氏康の軍
   へ向けて待機していたが、思いも寄らないことに、明け方になつてから城中から攻め
   かけられたので、狼狽の余り全く支えることもできず、右往左往するばかりであった。

   城兵は勝ちに乗じて追い立て攻めれば、築田二色・結城・相馬・原壷谷・和知・二階堂
   などは晴氏を先に逃がしたが、散々に討たれて敗退した。綱成は深追いはせず、速やかに
   城内へひきあげた。

   今夜の戦いで、古河公方家と上杉家の戦死者は一万三千人余りという。戦いが終わった
   後、氏康は綱成を招いて旧年よりの長い籠城に対してその辛労をねぎらった。

  「何度も死ぬと思ったが、ようやく生きて会えてうれしい。お前の忠義は有り難い。
   また、弟伊賀守も今度命をなげうって働いた。神・仏の助けがなければ、今度の結果は
   なかったであろう。これはお前たちの忠義の賜物である。」

   と、氏康は何度も何度も繰り返して感謝した。綱成兄弟は大いに面目をほどこし、謹ん
   で応答し、また城にもどっていった。

 ◆氏康の平井城攻め
 天文二十年(1551)辛亥の春、氏康は上州平井城を攻めようと、
北条綱成の嫡子善九郎康成(後に常陸介と称す)・次男福島市郎頼季
・同伊賀守勝広・同新六郎・横井越前守らを中心に二万余騎を率いて小田原を立った。

武蔵と上野国境の神流川まで進むと、平井にも通報があり、太田美濃守・長野信濃守
・曽我兵庫頭・金井小源太・安中越前守・小幡・白倉・沼田・厩橋・新田・赤井・
佐野・足利・桐生・渋川・大胡・山上・後閑・長野などの諸将が先陣・後陣と分かれて出陣した。
上杉勢は途中でくい止めるため三月十日にまず一戦した。

 この戦いでは上杉方が勝利し、北条方は引くかにみえたが、氏康が指揮を取って陣頭に進んで下知をすると、
伊豆・相模の若武者らが互いに目と目で合図を送り、一歩も引かずに奮戦して急場をしのいだ。

北条康成は十八歳であるが、真っ先に駆け入り、右左の敵十三人を切り倒した。
また、叔父の福島伊賀守は強力の武者であるが、筋金をつけた樫の棒を振り回し敵をなぎ倒した。
これで上州勢は混乱し、両翼も崩れ始め、ついに総退却して平井城に逃げ帰った。

氏康はなおも敵に迫ったが、北条勢の疲労も深く手負い・死人も多かったので、これ以上深追いは禁物と引き上げた。

 同年初秋、氏康は再び上州発向を決めて、領国内に陣触れをした。
しかし、憲政の人望は益々失われ、さらに今春の戦いで敗北したため、北条への恐れからか軍勢は集まらなかった。

その上無二の寵臣であったはずの上原兵庫介は逐電しで行方不明、菅野大膳亮は甲州へ逃げ落ちたと知って
近習・小者までもが我も我もと逃げ去り、今や平井城に集まった者は五百騎を越えないほどであった。

憲政もあきれはて、岩築に逃げるか箕輪に龍もるかと悩んでいる時、曽我兵庫介・三田五郎左衛門
・本庄宮内少輔らが憲政にこう進言した。

 「長野・太田はまたとない忠臣で、公を迎え入れて守護することは間違いありませんが、
  少ない兵で勝ち誇る大敵を防ぐのは難しい。越後の長尾平三景虎は辺境にあってまだ若輩ではあるが、
  知勇にすぐれるとの噂があります。かつて信州更科の村上義清を助けて、武田晴信と義戦に及び、
  恩をきせなかったと聞きます。勿論、その父信濃守為景は上杉顕定公・房能公兄弟を殺して国を
  奪った逆臣ですが、もともとは上杉家の譜代、今回罪は許して筋を通して頼めば、二の足を踏むことは
ないでしょう。再び関東に戻る日もないとはいえません。」

 曽我らが強く進言したので、憲政は「お前らの計画に任せよう」と、曽我・三田・石堂・野村・
小野以下五十余名を召し連れ、夜陰にまぎれて平井を出た。
旅支度もそこそこに越後に向かい、頸城郡春日山の城下の上条山城守走春の館に到着した。
景虎は喜んで城内に迎え、礼を以て接待に努めたので、憲政は家運が衰えたことを述べ、
永享の乱の時朝廷から下された錦の御旗・関東管領職補任の輪旨・藤原鎌足以来の系図・
御所作りの麻呂の太刀・飛雀の幕などとともに、上杉の名字と自分の名の一字を与えた。
景虎はこれらをうやうやしくいただき、
「秘計をめぐらせて御敵を退治いたしますのでご安心下さい」と言上した。
春日山の二の郭に館をつくり、三百貫の厨料を献上した。

 上杉龍若丸の最後

 同年八月上旬、氏康はまた上州に攻め入り、平井城を囲んだ。
平井城では憲政はすでに逃げ去っていたが、御恩を重んじる譜代の家臣らが集まって龍城した。
もともと無勢のため攻め口が次々に押し破られ、すぐに落城した。
氏康は大いに喜び、外曲輪を焼き払い、北条長綱に屈強の勇士を添えて本丸を守らせ、上州の支配を命じて帰国した。

 この時、平井に置き去りにされた憲政の長男龍若丸(龍王丸ともみえる)という十三歳の若君がつかまえられた。
乳母の子の目賀田新助兄弟三人と彼らの叔父九里采女正・同与左衛門など近江出身の者供が保護していた。
北条勢が攻め来るとの知らせをうけて民家に匿っていたが、このまま幼君を隠し通すのは難しい、
幼君を差し出して命乞いをすれば許されて所領も与えられるのでは、と相談をまとめ、
龍若丸を駕寵に乗せて小田原まで連れていったのである。
 氏康は彼らの話を聞くと、笠原康朝に龍若丸を受け取らせ、
伊豆の修善寺に送って神尾治郎左衛門に介錯をさせて謀殺させた。
また、石巻隼人正に主君を裏切ったのは不忠不義の悪逆であると、
見せしめのため日賀田の一族八人を高小手に縛り、小田原内を引回し、
一色村の松原で礫にして晒した。
見物人の中で彼らを憎まないものはいなかった。
また、龍若丸を討った神尾治郎左衛門も間もなく狂い死にをしたという。

 長尾景虎の関東越山
 長尾景虎は上杉憲政の譲りを受け、上杉越後守政虎と改名し、越山して関東に旗を翻すとの志を発した。
天文二十一年(一五五二) 三月二日、断髪して不識庵謙信と称し、同八日に信州小県郡常田に出陣し、
武田晴信と地蔵峠において一戦し、越後に戻ってしばらく人馬を休め、四月に関東に出陣した。

 先陣は蔵王山の長尾弾正入道謙忠、後陣は赤田の斎藤下野守朝信、小荷駄奉行は甘槽近江守景持、
遊軍は直江大和守実継と決め、柿崎和泉守景家・河田対馬守親章(後に豊後守と称す)を旗本の前後とし、
八千余騎の人数で信州鳥居峠より西上野松井田の宿に着陣した。
上野の武士安中越前守春綱・その子左近太夫広盛を案内として、平井へ向かい昼夜をいとわず攻めたてた。

城代北条三郎兵衛長綱は戦に手慣れた大将であったが、城中に疫病がはやって困っていた時でもあり、
形ばかりの戦いをした後、五月雨の暗夜の中松山城へ落ちていった。

そのため、越後勢は何の苦もなく城を奪い取ることができた。
これ以前、安房の里見義尭は上総・武蔵を切り従えようと、毎年のように謀略を企んでいたが、
北条方が生実領の有吉城に北条綱成を入れ、千葉利胤と攻守同盟を結んだため、義尭の立場は悪くなつた。

義尭はこの年二月下旬に安房・上総の兵を率いて長陣を張って数十日間有吉城を攻めた。

綱成は人数を集め、小田原にも援兵を頼んだが、十分にはいかなかった。
この時、綱成の配下の朝倉能登守は所用があって福島勝広の相模大庭の屋敷に来ていたが、
有吉城の危急を知り、すぐに馬で馳せ帰った。

里見方はこの様子を見誤り、後詰の兵が来たと考え、包囲をといた。
綱成はこれを見て城から討って出て、遮二無二に戦ったので、里見方は散々に打たれて、上総に退いた。

 この機会を逃さず里見をたたきつぶそうと、氏康は二万七千余騎をもって小田原を出発した。
この時景虎の西上野越山の報が届いたので、氏康は総州への出陣をとり止め、軍勢を中武蔵へ向けた。

さらに平井落城の知らせが入り、氏康は上野には一兵も送らず松山城に入城して、守りを固めた。
 景虎はめでたく平井城を落として所期の目標を達成し、憲政はまずこれで国を奪われた恨みを晴らした。
この時、白井長尾・足利長尾・太田・長野・藤田・大石・佐野・小幡・白倉などが景虎の下に参陣した。
景虎は長尾入道謙忠・北条安芸守長朝・同弥五郎長国・夏目豊後守走盛・毛利丹後守・萩田備後守
・潮田酒税助ら三千余人を平井城に留めて、六月初旬に一旦帰国した。
  • 太田資正は天文17年~永禄3年までの12年間、北条氏に服属しているのですが、江戸期の軍記物ではこの時期も反北条の旗手であったと描かれます。『関八州古戦録』もその例に漏れませんね。後で書き出してみようと思います。ツイッター:太田資正と中世太田領の研究様より

 ◆武田信玄上州板鼻で合戦する

 同年九月中旬、信玄は一万余騎を率いて、信州余地峠から西上野の碓氷郡に侵入して、
松井田・安中の間に着陣し、近辺の様子をうかがい、内通した武将達を集めた。

和田・高山・平(多比良)・甘尾などが参降した。
 この時、宮原荘の倉賀野党は金井小源太秀景を中心に福田加賀守・須賀佐渡守・富田伊勢守
・須田大隅守・田沼彦左衛門など十六騎が集まり、
この中から一人が松井田に赴いて信玄に面会しようと決め、一人を選ぼうとしたが決められなかった
ので、くじ引きによって金井となつた。
金井は手の者を引き連れ、信玄に面談を遂げ、先陣の列に加えられた。
板鼻表での一戦で見事な手並みを発揮し、信玄からお褒めの言葉を頂いた。
戦が終わって帰陣した時、信玄は倉賀野淡路守と改めさせ、16騎の旗頭にすえた。
証文に加え、今着けていた鎧一領を与えた。
 信玄はこの時も箕輪より東道を一里半離れた板鼻の宿まで進出した。
長野左衛門太夫業政は白井・箕輪の兵を加えて広野で待ち受け、ここで支えようと合戦に持ち込んだ。
長野勢が不利となり、武田勢は勝ちにのつて攻め込んだ。
長野方の老巧な侍大将たちが地形をみながら敵方を引き止めようと工夫し、
ここかしこで応対したが、野原の戦では礫からも身をかくす場所もなかった。

しかも敵は戦いをよく知る武田勢、へたな武略はかえつて怪我のもとと、
長野方はどうしたらよいか方法を探しあぐねた。

 この時、土肥大勝亮実吉は十六歳であったが、
槍を取り出して退こうとする人々に「某が一槍仕らん」と言って、追って来た最初の敵と渡り合って、
しばらくは攻め合ったが、ついに突き伏せて首を取った。
続いて来た馬上の武者も二・三人をたたき伏せ、なぎ払ったので、
武田方も「油断して探追いはするな」と兵を引いた。

これによって、実吉の働きは万兵の勇気に勝っていると、
感激しない者はいなかった。

実害の曾祖父土肥又太郎は相州足下郡江浦の郷士として豊かな暮らしをしていたが、
北条早雲によって滅ぼされた。
その孫和泉守は長野家の被官となって箕輪に移住したが、武功をあげ、業正の秘蔵の武士といわれるほどであり、
その子実吉も父に劣らない剛の者であった。

 業政の時代に板鼻において武田家と二三度戦いがあり、その中で箕輪勢が打ち負けた時、
長野家でも勇猛と評判の赤名(石)豊前守が殿を務めた。
豊前守が引きあげようとすると、どうしたわけか茜の吹き流しの指し物が街道の端に生えていた
さいかちの木の枝にからまったので、取り離そうとしたが、
枝葉がしげりとげもあってなかなか外すことができなかった。

捨てたまま引きあげるのは恥辱と思ったのか、実吾が一人で引きあげて行くのを止めて、
 「予の運はこれで尽きたのだろうか、こんなことになってしまった。
吹き流しを取らないことには箕輪には帰れないので、取れるまで見届けてほしい。」

と言うので、実吉も「心得た」と言って踏みとどまった。
両人は馬から降りて、
 「この上は太刀で伐採するほかにない、もし敵が来たらそれこそ最期だ。」

と言いながら、二匹の馬の尻を槍の柄でたたいて、味方の方へ走らせた。
これで落ちついてやれると例の木を伐採して街道の真ん中に押し倒し、
ようやく指し物を取りあげ、鎧を脱いで休憩していたが、
そこに敵四・五十人が「逃がさん」と叫んで追いついてきた。

実吉と赤石は少しも騒がず、槍を取って待ちうけた。
敵が駆け寄って路をみると見知らぬ二人の前に大木が切り倒されていたので、
何をしたのだろうかと不審に思って簡単には近づけなかった。
その間に、二人が逃がした馬が一直線に戻ってきたのを見た味方は、不思議に思ったが、
まだ実吉と赤石が後ろに残っていると考え、

 「二人はしっかりしているので粗忽の死はないと思うが、何かあったのだろう。
  戻ってみとどけよう。」

と十騎ばかりが引き返して例の場所に着くと、武田勢は、

 「やはり、策があったのだ。夕陽も傾いたので、引き取ろう。」

と互いに引っ張るように引きあげた。両名は危ういところで命を全うし、箕輪に戻れたのである。

  • 最終更新:2019-05-14 10:35:57

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