上州治乱記(大正四年)

上州治乱記 巻之一二

箕輪城主長野家来由井小幡等事績、武田信玄
上州発向箕輪城攻

 上野国箕輪の城主長野信濃守業政は、在五中将業平の末葉にて、智仁勇を兼備せる勇士なり。
管領上杉憲政の老臣にて、地戦には千騎の大将にて、弓矢打物取っては、度々名を顕したる大剛の士なり。
然るに管領憲政愚将にして、長野業政が諫を用ひず、菅野上野介・上原左衛門が勧めに依って。
非議の政道多かりしかば、諸氏背き民恨みて、終に小田原北条氏康に、関八州を奪れ、去る天分二十年、
越後の国へ逃行き、先祖の家臣長尾景虎を養子として、上杉の號竝(号並)に関八州の管領を譲りし事、
前代未聞の珍事なり。

 憲政、上州平井の城を落ちて後、箕輪城主長野信濃守業政一人、
踏留り、武田家と、八ヶ年の間戦えども、其所領を奪われず。
然るに今度長尾景虎、越中にて合戦と聞こえしかば、武田信玄、能透(よきすき)と思立ちて、
上州箕輪の城を攻抜かんと、大軍を引率して、上野へ向ひけり。

 先(ま)づ長野業近(政?)の婿、西上州和田の城主新兵衛尉朝富・厩橋の城主長野弾正忠忠景・嶺の城主小幡尾張守信定。
岡本兵部少輔持村・小幡図書助景定・木部宮内悅輔・倉賀野淡路守一興・安中の城主左政太夫忠成
・松井田の城主安中越前守忠政、是等(これら)は皆長野業政の婿なれば、箕輪の城に楯籠る。

 其外長尾新治郎景考、同新五郎景忠・小幡尾張守が一族小幡三河守景宗・葦田下総守幸成以下、上杉家の侍共、
皆心を一致して、箕輪の城にぞ籠りける。
然るに武田信玄、一万二千の軍勢を以て四方を囲み、持楯・畳楯、大手・搦手揉合せ、先陣戦疲れぬれば、
後陣の新手を入替え入れ替え、息をも継がせず攻立つる。抑(そもそも)此城々、榛名大明神の山の尾崎を
堀切りて、築揚げたる城にて、城の南面、箕の手に似たればとて、箕輪と名付けたり。故は三輪と書くなり。
要害尤(もっと)も堅固にて、殊(こと)に籠れる諸大将は、上杉家譜代の四臣にて、悉く名を顕したる、一人当千の剛兵なれば、
敵多勢にて攻むれども、少しも気を屈せず、遠き敵
をば、鉄炮にて打殺し、近き敵をば、矢を放ち射倒し、櫓門塀下へ近付く者をば石母弓(石火矢カ)を発して打殺し、
塀を乗るをば、走り木を構えて突落としける程に、敵兵是に色めき立つ時、門を開いて打つて出て、
鑓を構えて突立て、敵退けば城に入る。

 其身体機変、殆ど神の如し。甲州勢、是が為に、手負討死する者、五百余人に及ぶ。
されども塀一重をも破り得ず、退屈してぞ居たりける。城中には兵糧多く、その上箭玉薬沢山にて、
絶えず打出す矢石は雨の如く、甲を貫き鎧を砕き、寄手は是に射噤められ、楯の影に隠れ、背をくぐめて馬影に廻り、
或いは人を楯とせり。

 萎ゆる所を見済し、小幡三家長尾父子と、和田・岡本の諸大将、替々突出で突出で戦ひしかば、甲州勢、
毎度の軍に利を失ひ、力攻には落つべからず。年を積んで攻戦ひ、勇気を挫き、城を抜くには如(し)かじとて、
甲州へ軍を入れ、夫より後永禄六年、三年も絶えず此城を攻めたりける。
(永禄三年の出来事だろうか?)

小幡尾張守信定・同図書助不和、武田信玄公
嶺の城を抜く、甲州帰陣

 南上州嶺の城には、小幡尾張守信定、千騎にて楯籠る。渠(彼)も長野の婿にして、上杉第二の長臣にて、
忠義を守りし大将なれども、相婿図書助と不和なり。然るに図書助景定を折々、謙信へ讒言(ざんげん)しければ、
長野業政も、尾張守を悪み、去る永禄三年五月、信定湯治の留主に、嶺の城を攻抜きて、信定を追放し、
嶺の城へは図書助を入置きける。

 尾張守も力及ばず、妻子を連れて甲州へ逃行き、武田信玄を頼みける。信玄、本より上野国に心を懸け、
攻取らんと思ひ巧む最中なれば、手引きの為と悦んで、信州日向といふ所にて、五千貫の所領を給わり、
同九月上旬、信州上州の境南牧といふ所に、砦を築き。尾張守を入置きける。

 時に永禄六年二月十二日、上野国を攻めんとて、一万三千人を引率し、甲州を雷発あつて、余地崎(峠)を超え、
南上州南牧の砦に着陣遊ばされ、尾張守信定を招き、信玄尋ねられけるは、足下の相婿図書助が気象は、
如何ぞとありければ、信定申上げるるは、抑図書助が儀は、器量も力も人に勝

れ、武勇等倫を恥じざる大剛の者にて候へども、事に驚き周章(しゅうしょう)仕る天性にて候と申しける。

 信玄聞召して、扨(さて)は術こそあらんとて、内藤修理亮昌豊に下知を加え、小
荷駄一疋に、挑燈二つ宛附けさせて、馬追の人夫にも、松明一本宛持たせ、旗本に
ては、竿の先に挑燈を結付けて置き、此挑燈に火を附けて、旗本差上げなば、汝
が請取の小荷駄の松明に、火を附けて、高き所へ追上ぐべしと示し合わせ、既に軍勢の
手分けをして、松井田・安中・箕輪三ヶ所に配当して、後詰をさせじと押へ置き、旗本服
備へ、数千の兵を進ませて、嶺の城に押寄せて、相図の桃燈差上げしかば、内藤修理
亮之を見て、小荷駄共の挑燈松明一時に燈させて、高き所へ追登せて、鬨を噇(どつ)と揚げ
しかば、図書助大に驚き、敵若千の大勢なれば、防ぐとも叶ふまじと、城を開いて落行きける。

 甲州勢追討乱放、終に嶺の城を乗取りけり。翌日信玄、嶺の城を巡見
あつて、信定を召出し、是は足下の本領なればとて、尾張守に授けられ、名を改めて小
幡上総介信定と號し、信玄、甲府帰陣し給いける。扨(さて)其頃信州には、真田弾正忠幸隆
入道一徳斎、上州には小幡上総介信定、一向に信玄へ忠を盡(つく)し、譜代の老臣、間然に

仕えしかば、或時信玄、内藤修理亮・原隼人助両人を使にて、小幡上総介を召寄せら
れ、信玄宣ひけるは、小幡は数代上杉家の旧臣なり。然れども当時予に属し、忠義私
なし。予是を知る故に、他に異なる賞を興ふ。されば当家伺候の上は、予に敵対す
る長野信濃守業政が娘を以て、足下の妻とせし事、家に附き身の為といひ、其理なき
に似たり。早く其妻を離別して、譜代の者の中にて、然るべき縁組の事、相叶ふべし
とありしと気、信定座を退き、修理亮が方に向ひ、返答しけるは、我等誠に上杉譜代の
者にて候得共、憲政の行跡、人望に背きし故、家運傾き、北条が為に荒凶し、越後へ逃
走りて、管領を景虎に譲りて、北条家を討たんとする事。甲斐なき振舞口惜く存じ、
氏康・氏政を退治せんと、長野・太田等と心を合わせ、数度合戦を相励む。

 然るに某が相婿図書助、私欲の讒(そしり)を構え、長野業政と一致して、謙信へも悪ざまに申なし、其
上嶺の城を追放す。然るを君の恩顧に依って、本領に帰住す。厚恩更に譬ふるに者
なし。信定、粉骨砕身すといも、飽足らず候へども、当家の御大事に臨んでは、一命を
奉らん事、鵜毛よりも軽かるべし。況や其外の事、如何なる仰を蒙るとも、争(いか)でか

否とは申すべき。さり乍ら、此女は信定が□妻にして、二十七年相馴れ、子供数多育て
候。一旦嶺の城を出でし時、父業政には勘当せられ、彼方此方力なく、私と共に流浪
し難儀困窮の労を遂げ、漸(ようや)く君に召出され、適々本領安堵して、愁の眉を開き候。年
来此女、内外の事に付きて、露計も身落したる不行跡なし。今日迄添へ来たり、唯今離
別仕らば、父長野には勘当せられ、憐むべき夫には捨てられ、帰るべき宿もなく、道の
邊に倒れ伏され、餓死仕るは必定。此女の恥は、小幡が恥にて候へば、御免を蒙りな
んとぞ申しける。信玄甚だ感じ給ひ、誠に信定が志、情あり義ありとて、小幡が娘を、
右典厩信繁の息子左馬助信元の妻女となし、一家の好を結ばれ畢。

長野信濃守子息業盛へ遺言 卒去、武田信玄公
再び上野発向、城々落去

 斯(か)くて長野信濃守業政は、箕輪に籠城して、上杉憲政を、平井の城へ再び帰住の運を
謀り、忠戦の功を勤めども、覚に本意を達せず。剰へ永禄三年の冬霜月下旬より、老病に責められて、治療験なし。或時子息右京進業盛を招き、遺言して曰、吾年来身命
を顧みず、敵を四方に請けて、怨を国に退け、主君上杉殿を、再び還住せしめんと願ひしに、其有增(増)も空しくなりぬ。然れども此憤、未来際を極めても盡(つく 尽)くべからず。
我死せば、ひとつかみの塚ともなして築込め、卒都婆をも立つべからず。仏事をも営むべ
からず。穴賢、敵に降参する事なかれ。敵に向つて心よくよく討死せば、我が為の孝養な
るべし。嗚呼苦いかなと、大息継ぎ歯を喰ひしばり、竟(つい)に永禄四年六月二十一日、死去
せられける。
其形成こそ恐ろしけれ。嫡子業盛、家老藤井豊後守と密談して、翌年の
秋迄、深く隠すと雖(いえど)も、竟(つい)に信玄へ聞こえしかば、信玄大いに悦び、武州には太田資正入
道三楽斎、上野□長野業政、上杉棟梁の臣として、武威を振ひ、上杉既に没落すれど
も、両臣諸将と心を合せ、吾と北条とに敵對(対)す。

 然るに太田は、勢力疲れ、岩槻の城
を退き、江戸の城に蟄居す。長野業政、獨(独)り箕輪に堅住し、猛威を振ひ、吾数万の勢を
以て、度々攻むれども、更に落城せず。業政病死して、子息右京進も、父に劣らぬ勇
士なれども、諸将の尊敬、業政には似べからず。此時上野国を取らずんば、いつの時

を期すべき。若し油断せば、北条に先をせられなん。急ぎ上野に発向して、城々
を攻抜かんと、其勢都合二万余人引率し、永禄六年二月十一日、甲府信発あり。先づ
安中越前守が楯籠る松井田の城へは、飯富兵部少輔虎昌・浅利式部少輔義胤・小宮山
丹後守昌友・城の伊庵・同舎弟忠兵衛尉・原興左衛門尉勝重・市川梅印、此六頭ぞ向ひ
ける。又安中左近太夫忠成が楯籠る安中の城へは、甘利左衛門尉晴吉・小幡上総介
信定・原美濃守虎胤・曾根内匠助正清・此四頭ぞ向ひける。又長野右京進業盛が楯籠
る箕輪の城へは、内藤修理亮昌豊・山縣三郎兵衛昌景、小山田弥三郎昌教・馬場美濃
守信房、此四頭ぞ向ひける。一度に三ヶ所へ押寄せ、鯨波・鉄炮の音、天地も崩るる
計打出し、旌旗(せいき)は武蔵の尾花が末に等し。息をも継がせず攻立つる。安中の城
主左近太夫忠成、爰(援)を先途と防ぎ戦ひけれども、敵多勢、荒手を入替へ入替へ攻付く
る。城中は小勢にて、入替えるべき兵なければ、終に勢力疲れ、降参すべき由申しけれ
ば、甘利左衛門尉取次にて、信玄へ申しければ、則ち渠(みぞ)を免し、安中の城へは、小宮山
丹後守入置きけり。爰(援)に松井田の城主安中越前守忠政は、矢・鉄炮を飛ばせ、或は突

出で、命を惜まず防ぎしかば、寄手若干討たれしかども、敵大勢なれば、死人の上を乗
越えて、二の郭迄押破る。されども忠政、猶(なお)此所にて防戦す。爰(援)に平尾何某といふ
者あり。旧は武田家の侍なりしが、去頃より信玄の勘気を請け、浪々到しけるが、此
城に籠る城の伊庵と鑓を合わせ、互いに鎬を削り戦ひしが、平尾申しけるは、如何に城の
殿、此度の一番乗り、此城の一番乗、貴殿に任せ申さん。某が忰(せがれ)信州相木方に預け置き、当年七歳に
罷成(まかりなり)候。是を君へ、宣敷御取成奉るといふより早く、城中へ引入りけり。其時城の伊
庵大音に、此城の一番乗りなりと、呼ばはりければ、甲州勢、はや城の殿、三の郭迄乗入
りたり。

各續(続)け各續とけと、攻鼓を鳴らし、透もあせらず攻立つる。城兵次第に打死し、
残兵力疲れ、或いは痛手負ひて、今は防ぐべき様もなく、城主越前守降参を願ひける。
飯富兵部少輔虎昌、此信玄公へ申上げける。城へは、浅利式部少輔入置きける。
斯くて武田信玄公、安中越前守を御前へ引出し、其元事、敵を大勢討たせたるのみな
らず、降参する事尤も遅しとて、遂に誅伐せらる。實に惜しき士なり。是信玄の不道と
いっつべし。左近太夫は、早く降参したればとて、安中の城升に本領を返し輿へ、甘



利左衛門が妹婿にぞせられける。既に安中・松井田落城すれば、両勢合せて一万余
騎、烏川を渡り、雑子崎をば越え、箕輪の城へ押寄する。

上州治乱記
  那波無理之助働、箕輪落城

 扨も武田信玄の先手那波無理之助、手勢二百余人にて、秋間山をはね越え、烏川を渡
り、鷺坂常陸助長信が砦を攻立つる。常陸助は、箕輪に籠城故、留主の家人防戦す
と雖(いえど)も、敵目に餘る大軍なれば、防ぐに術なくして、書く箕輪の城へ引く、無理之助、
鷺坂が砦を放火して、城岩山に至る。然る所に、箕輪より安藤九郎左衛門、百騎計
にて助け来り、白岩山にて、那波と大に戦ひ、三度迄敵を追崩し、深入して安藤終に
討死す。直垂の裏に、血に一首の歌あり。
   老いの身は何國の土となるとても君が箕輪に心とどまる
是を見る人、感賞せずといふことなし。既に那波無理之助、鷺坂の砦を攻潰し、白岩山
の合戦に打勝ち、坊合を放火す。寺僧等、仏像鑑巻を抱いて、箕輪の城へ逃げ入る。
依之長野の先陣青栁金王、百五十騎前後に従へ、城岩山に来り。大に那波と戦ふ。
無理之助打負けて、軍を秋間山へ引き、青栁も箕輪の城へ入る。同二十日、両軍若田原
にて、勇を争ひ大に戦ひ、青栁金王、内藤修理亮が備を突破る。小幡上総助信定三百
余騎にて、青栁が勢を切崩す。白河五郎満勝・下田大膳昌勝二百余騎にて、小幡が備
を切崩す。甲州勢の内三牧勘解由・井伊弥四右衛門、三百余騎を以て、横合より白河・
下田を切崩す。藤井豊後守友忠五百余騎にて、甲州軍の中へ駆入るを、縦横無尽
に切崩す。甲州勢、人雪崩をついて、右往左往に敗軍す。其時内藤修理亮昌豊下
知をなし、悉く軍を安中へ引く。城兵も労れて箕輪へ引入る。斯(かか)るに松井田・安中
の寄手一つにあんり、総軍勢二万余人、箕輪の城の四方を圍む。南は、波櫻・林馬・内子
森。東は保度田・中里・今宮邊。西は高浜・白岩・愛岩の原。北は防蘇山・相馬嶽・舟尾山・
桃井の里。夜は篝火天を焦(こが)し、野にも山にも充満して打圍み、鬨の聲矢叫の音、百千
の雷より恐し。されども小城なりと雖(いえど)も、籠れる人々は、長野家譜代の者にて、一
騎当千の剛兵なれば、甲州勢見侮って楯に離れ、城近く押寄せ、木戸・逆茂木を引破
らんと、我先にと爭ひける。城兵は、本より萬死に極めたれば、敵の大勢をも恐れ
ず、静り返って追々と引付け、鉄炮五千余丁、一度に打出せば、甲州の先陣百五十余
人、忽(たちま)ち打伏せられ、先陣色めく所を、城兵一同に矢を放せば、人雪崩を突くを知ら
ず。後陣の大勢、唯一揉と押懸るに、切岸に馬の鼻をつかせ、或は馬より押落され、
どよめき騒ぐ所を、城兵之を見て、屈竟(くっきょう)の射手八十余人、塀裏なる武者走りに差顕
れ、散々に射立つる。鉄砲の軽率は、矢狭より、玉薬を継替へ継替へ打出せば、手負い死人
六百余人出来たりけり。本より城兵は、今日を限りの事なれば、親打たれども、子顧
みず、主討たるれば、死骸の上を乗り越え乗り越え、死生知らずに戦へば、寄手の大軍、怺(こら)へ
兼ねて引退く。其時城兵、時分は能きぞと、四方の城門を開き、二百余人、無二無三に
突出でたり。爰(援)に山縣三郎兵衛、遥に之を見て、あれ城兵を切崩せと、下知をなす。援
に山縣の武者所大熊平蔵といふ者、真先に懸かり、城兵を捲(まく)り付くる。続いて猪子才
蔵、二番に鑓を入れ戦ひけるが、鉄炮にて、脇腹を打たれて倒れしを、城兵五十余人、
首を取らんと競い懸かるを、甲州方に広瀬郷左衛門、猪子を引立て退く、其時三料傳(伝)
右衛門、進む敵を突伏せ首を取る。大熊平蔵、其間に敵五人と突合ひ、一人突伏せ首
を取る。此時敵来つて、指物を取って引退く。大熊平蔵・彼敵を追懸け行き、終に指
物を取って引退く。援に又榛名山の方へ、信玄の二男伊奈四郎勝頼、初陣にて向ひ
ける所に、城中より、長野右京進の老臣藤井豊後友忠、初見えとして出けるを、
勝頼生年一八才なりしが、藤井を目懸け追かけ、相馬嶽の麓にて追付き、大音揚げ、
夫へ見ゆるは藤井殿ならん。返し合せ勝負せよといひければ、藤井も、本より望む
所と取って返し、馬上にて、無手と暫しが間揉合ひしが、何とかしたりけん、両馬の
間に落ち重り、上になり下になり、暫が間争ひしが、藤井は聞ゆる大力にて、勝頼を
取つて押へ、既に斯(か)くと見えける所へ、原加賀守國房、諸鐙(諸角)を合わせて馳せ来たり、馬より
飛下り、藤井を引倒し、勝頼に首を取らせける。援に又搦手の陣に、城の伊庵が舎弟
忠兵衛は、味方の勢、敵の爲めに突立てられ、進み兼ねるを見て、此の小城一つを攻む
るとて、大勢の者共、猶豫するといふ事やあるべきぞ。續けや人々と、真先に進め
ば、百余人曳い曳い聲にて攻上る。城中の櫓より、矢・鉄炮を飛ばす事雨の如し。是
に依って、寄手多く討たれ、野白になって進み兼ねたる所に、城中より木戸を颯と開
き、矢嶋久左衛門、真先に進み、鑓の穂先を揃え突出でければ、甲州勢突立てられて逃
ぐる中に、忠兵衛独り踏止つて、城兵百余人と暫く戦ひしが、終に討たれける。兄の
伊庵、弟を討たせ、安からずと思ひければ、大勢群りたる中へ馳せ入り、十文字に破
り輪違に乗廻り、従ふ十余人、伊庵に劣らず働きしかば、城兵捲り立てられて、城
中へ逃げ入り、伊庵は首七つ討取り、鑓の柄の撓(たわ)みたるを、膝にて押直し、突出づる
敵を待ちかけたる形勢、大剛の士かなと、敵も味方も感じける。甲州勢気に乗りて、
夫れ伊庵を討たすな、続けやとて、同勢残らず鬨を作り、太鼓を打って攻懸れば、城中
より雨の如く、箭(矢)を放ち鉄炮を打出す。寄手是を事ともせず、木戸・逆茂木を引破ら
んと揉合ひけるに、兼て構へおきたる大木数十本、釣縄切って落しかけ、塀に乗るを
ば、走り木にて突落とし、或は石弩を発したれば、鱗の如く重なりたる甲州勢、甲の鉢打
挫がれ、手足を打損じ、手負い死人四百余人出来たり。されども敵は大勢にて、城中へ

込入りければ。さしも二心なき長野家の者共も、今は叶わじと思ひ、落行く者多し、
流石義を知り名を惜む譜代の郎党被官計り、残り止りける。城の大将長野右京進
業盛、今は郭外おば攻破られ、詰の城に籠り、猶(なお)も稠(おお)しく防ぎけり。生年十九才な
りけるが、心も剛に、力も強かりける。今を限りの死物狂ひと、大長刀を横たへ、多
勢が中へ割って入り、死生知らず戦ひけるが、敵二十八人、馬より真逆様に切って落し、
其身も、鎧に立つ所の矢をも抜かず、疵口より流るる血は、白糸の鎧を朱の血汐に
染めなしぬれども、見事に士卒を左右に従ひ、本城へ引入りけり。斯(か)くて永禄六年
二月二十二日、長野右京進業盛、生年一九才なれども、父の武勇を習ひ、僅か五十足ら
ぬ軍勢を以て、甲軍二万余騎の大勢を、度々突崩しぬれども、蟻の群立つ如くにて、
味方僅か百騎には過ぎず。依之父の教を守り、死する時に死せざれば、死に勝る恥あ
りとは古人の金言と、残兵を本城に招き戦ふ。此所落ちんと思はば、切抜けて落つ
べかりつれども、父業政が遺誡もあるなれば、命存へて、頼む世と覚えず。暫の
命を惜み、後に不慮の横死せば、父の遺誡も背き、先祖の名も穢すべし。所詮自害
して忠義を全くせん。各は何國へなりとも、身を隠し給へと申しければ。誰あって
落行かんといふ者もなし。皆君と共に殉死せんと願ひける。其時業盛大に悦び、
然らば一先づ防矢たるべしおいひ捨て、其身は持仏堂に入り、父の遺灰を三禮し、鎧
脱ぎ捨て、一首を書く。
   春風に梅も桜も散りはてて名のみ残れる三輪の山里
念仏三遍唱え、惜しや一九才を名残りの花として、終に腹掻切って伏したりける。防
矢射たる人々も、痛手薄手を負ひければ、是迄なりと、互に刺違へ刺違へ、おなじ枕に伏し
たる人々には、白川五郎満勝・青栁金王忠家・道寺左近信方・下田大膳昌勝・高橋隼人一乗・
道寺次郎範安・鷺坂常陸助長信・梶山因幡盛吉方・岸出雲守信安・利根木内蔵助昌安・今浜六郎業方
・小澤次郎友信・細谷新藏俊方・田口兵庫業祐・大久保民部成安・八木原伊勢守為範・舎弟源太郎左衛門尉為永
・山田輿九郎茂方・田島源六郎・其外北爪・島屋・首藤・石原・清水・内山・志村・里見
・長根・中村・中島・岡田・広木・小暮・新井・橋本・宮澤・島方・後閑・森山・新波・桜井井伊等、
残らず自害す。他に花形民部・道寺久助・町田兵庫
・上泉伊勢・寺尾豊後・長沼長八郎・八木波伝七郎・久保島十藏・矢嶋久左衛門、此等は皆浪々す。

  武田信玄不道

抑此箕輪の城は、去る永禄二年の秋より、信玄此城に心を懸け。数度攻めしかども、要害稠(おお)しく構へ、殊(こと)には城主長野業政。武勇智謀相兼ねたる大将、上杉へ忠義を盡さんと、金石の如く心を凝し、相従ふ輩も似たるを友とする事なれば、死を善道に守り防ぎし故、終に陥らず、然るに業政逝去あって、其子業盛、父に劣らぬ勇士にて、義機を勵(はげ)みしかども、宿運爰(ここ)に極りけるにや、永禄六年二月二十二日に至って、落城するこそ悲しけれ。
業政の一子、二歳になりけるをば、藤井孫治郎忠安、安部孫左衛門清勝抱きかかへて、行方知らずなりにける。爰(ここ)にまた業盛の室、一八才になりけるをも、殺したる其故を尋ねるに、其頃隠れなき美女なりければ、生捕って甲州へ連行き、色々と語らひけれども、貞女の道を守り、信玄が心に従わず。是に依って信玄大に憤り、汝予が心に従わずば、忽(たちま)ち命を失はんといひけれども、業盛の室申しけるは、自ら事、疾にも殉死せんと思ふ折説なれば、殺されんこそ幸なれといひければ、信玄彌(いよいよ)怒り、家来原左四郎に申付け、終に誅しけるとぞ、信玄の不道、尤も情なき事共なり。
其後長野の侍の中、武勇の誉ある浪人二百余人、甲州へ召抱へて、内藤修理亮に預けられける。其中にも、花形民部左衛門・道寺久助範兼・町田兵庫好信・神尾図書助吉景・上泉伊勢守豊成・寺尾豊後守長歳・長沼長八郎道方・八十原伝七郎家方・久保田十藏時景・矢島九左衛門貞勝、此等は皆、長野家武功の侍なり。修理亮此時迄は、五十余騎の大将なりけるが、今度二百五十騎になり、手の者には、三百余騎の大将となり、箕輪の城を預り、保度田の砦に居住して、西上州七郡を職取り、足利・武蔵筋の先手とせり。今度預る侍共、在々の砦に分置き、箕輪の城番とす。是等は、勢ひ修理亮に属して、保度田に居住す。
抑西上州を御手に入れんと、信玄八ヶ年の間、度々出張すれども、落城せざる事は、偏に長野信濃守の鋒先、強かりし故なり。今年上野国七郡、
漸(ようや)く御手に入りしかば、先づ和田の城主和田新右衛門尉朝連、三十騎にて降参す。其外白倉城主左衛門尉宗純五十騎、高山の城主四郎高定五十騎、倉賀野城主淡路守熙時三十七騎、大戸城主左近兵衛尉十騎、井田の城主八郎四十騎、後閑城主長門守宗繁六十騎、藤岡城主澄井右馬亮以下、悉く甲州へ降参す。此時擧つて上杉譜代忠義の輩、絶え果てける。盛なる者は衰ふるの世とはいひ乍(なが)ら、淺ましかりし事共なり。

長野右京進業盛事績

爰(ここ)に法如といへる諸国修行の行脚の沙門来つて、内藤修理亮一相見えて曰、愚僧は業盛と、別けて知音にて、竹馬の友なり。いま爰(ここ)に来つて、里人問へば、悲哉や、業盛宿因とはいひ乍(なが)ら、未だ二十才に満たずして、刃に命を失ふ。定めて修羅の苦を受けん。庶幾くは業盛が死骸を弔ひ給はらば、何地にも葬り、追福をも致し度由望みければ、修理亮も、哀れ彼僧の心任せにせよとて、家士に命じて、死骸を彼僧(僧)に渡しける。
法如悦び、死骸を受取り、里人を語らひ、井出野といふ所に葬る。
弘稱院殿箕山法輪居士と石碑を建て、経と念仏を唱へ、懇に弔ひける。悲哉信玄の為に滅び、一族門葉散々に成行き、名は青竹の露に摧(くだ)け、勢は白河の流に没す。抑比城は、大永の頃、長野伊予守築き居住し、夫より僅父子三代にして断絶す。宿因とはいひ乍(なが)ら、上杉憲政愚将にして、政道不正故なりと、皆人申合へり。今武田信玄威を振つて、西上州の神社仏閣等、悉く焼失す。
昔平の重衡、南部大仏殿を焼拂ひ、武威を四海に振ふと雖も、厳罰遁れず、平家の一族、終に西海の浪に沈んで、悉く滅亡せり。今武田信玄、猛威を振ふと雖も、仏閣寺院を焼失す。其罪、終には遁るべからず。子孫断絶遠かるまじと、人々止む事なし。殊に忠義を専にせられし長野業政が最後の一念、恐しき事共なり。

  • 最終更新:2019-09-14 02:16:43

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