上野の戦国いい話

長野家

 ◆丙が降伏の議を説いたのは 2014年07月06日 18:52
「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」様より

 長野業盛
  248 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/05(土) 18:59:59.57 ID:NnkLvtji
  名将長野業正の死後、武田信玄による箕輪城攻めの際の話

 箕輪城方は1500ほどしか兵士が集まらず、若き城主の長野業盛は諸将を集め、防御の方法を議した。
 甲は「城を固守して上杉謙信に救援を乞うべきだ」と主張した。
 乙は「属城がことごとく敵方に落ち、将兵は死ぬか背くかした。そのような中で謙信に助けを乞うのはかえって世の笑いを受けてしまう。万死を期して決戦あるのみ」
と主張した。
 すると日頃城主の信任が厚かった丙が
 「我が先君(業正)は上杉氏のために最後まで身命を賭して尽くした。しかし憲政は愚者であり、先君を用いず、遂には国を失い、謙信を頼る様となった。かような次第なので、今我々の幼君(業盛)も犬死することがあっては先君に申し訳ない。むしろ武田家に降りお家を残すのが適切だろう」
と主張しだした。

 皆はこれを聞いて驚き、
 「昨日まで我が主家の棟梁豪勇の忠臣であったのが、なぜにわかに臆病者になったのか!」
と声をあげ涙を流し、甲などは憤然として刀に手をかけ丙を斬ろうとした。
 すると業盛は諸将を制して、そのまま奥の間に行き、業正の位牌を奉じて上座に安置して拝礼したので、諸将もこれに従い拝礼したが、どういった意味なのかわからなかった。業盛はその様子を見て、おもむろに
 「丙が降伏の議を説いたのは皆の心底を知ろうと私が命じたものだ。
今、皆の心が鉄石の如く堅いのを見ることができ、これ以上喜ばしいことはない!」
と言ったので、皆再び驚き、業盛の用意周到なるに敬服したという。その後業盛率いる箕輪衆は、若田原へ打って出た後に箕輪城に立てこもり、そこで業盛は散った。享年19歳

アカツキ9巻12号(1934)より


 ◆和歌と嫁(長野業正は和歌や連歌が上手だった)

   長野業正は和歌や連歌が上手だった。
   ある時、家臣の男が百姓の家から妻を娶った。
   ある日のこと、この妻が髪を結んでいると庭を5,6尺ほどの蛇が這っている。
   妻は夫である男を呼び、「見て、オウコ(肥桶を荷う棒)みたいな蛇よ」と叫んだ。
   それを聞いた男は、このような下品な言葉を使う田舎者な妻と一緒にいると、笑いもの
   にされると、この妻を親元に帰した。
   妻は去り際に「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじ」
  (万葉集の歌の言葉さえ無ければ、このような別れはなかっただろうに的な)
   と和歌を1首残していった。

   男はそのわけがわからず、いろいろな人にそのことを話した。
   それが業正の耳に入り、早速男は業正に呼ばれた。
   そして男がその経緯を業正に説明したところ、業正はこう言った。。

   「これは恥ずかしいことだ。『陸奥(みちのく)の 千引の石と わが恋を 
       になわばオウコ 中や耐えなん』
    と万葉集にも出ているように、オウコという言葉はけして下品な言葉ではない。
    それなのに下品な言葉を使ったとして離縁したとあれば末代までの恥だ。
    早く仲人に頼んで呼び返すべきだ。」

   そして男は業正の言葉通り妻を呼び戻して、復縁しましたとさ。

 ◆赤石豊前守と土肥実吉(サイカチの木、武田勢を退ける)

   ある時、上州箕輪の長野業正の軍勢が、武田信玄の軍に撃ち負けた。
   この時長野業政の家臣で、隠れなき勇者と呼ばれた赤名豊前守が殿となって退いて
   いたが、その途中、自分の旗指物を道の傍のサイカチの木に引っ掛けてしまった。
   ※他の文献では、赤名ではなく赤石となっているので以後赤石豊前守とす

   赤石は取ろうとするも枝葉が茂り、そのうえ刺が生えているので取ることが出来ない。
   しかしこのまま捨てていくのは武士の名折れ、家の恥であると難渋している所に、同僚
   である土肥実吉が引き返してきた
   ※土肥実吉の名は、長野家家臣録にある。

   「何をしている!?早く城へ戻れ!」

   そう怒鳴ったが赤名は退こうとしない。
   この上は木を切り倒すより仕方がないと、二人は馬から降り、その馬の尻を叩いて城の
   方に駆け去らせると、サイカチの木を切りにかかった。

   もし敵が追撃してくれば、ここで斬死する他ない。やっとの思いで木を切り倒し、旗指
   物を取り戻すことが出来たが、その時にはもう敵の甲州勢4,50騎が直ぐ目の前まで
   迫っていた。

   しかし、さすがは勇者である、赤名豊前守と土肥実吉は少しも動じず槍を取って構えた。
   ところが、どうしたことであろう、敵は目の前5,6間ほど先でピタリと止まり、掛かっ
   てこようとしなかった。

   彼らは、道に意味ありげに倒れているサイカチの木に、なにか仕掛けがあるのではと
   警戒したのである。その時、先に追い返した馬をみた城兵が、赤名と土肥が危ないと
   見て、10騎ばかりで引き返してきた。
   その騎馬の足音を聞いた甲州勢はやはり罠だと思い

   「すわ!反撃してきたぞ!」

   と、口々に叫んで逃げ去った。
   こうして赤名と土肥は危ない命を全うし、箕輪城へと戻ることが出来た。
                                 (関八州古戦録)
  ※他の文献として『武田三代軍記』(上州法坊寺口合戦)に似た話が載っている。

  ◆似た話(土井大膳、大木を切る)

   土井大膳は元は北条氏の被官であったが、北条氏に背き長野業正の客将となった。
   長野氏と武田氏は長年の抗争状態にあったが、ある戦で長野氏が武田氏に負けて
   退却することになった。
   殿軍は、土井大膳と赤石豊前の2人が務めることとなった。
  ※土井大膳とは、土肥実吉のことでろう。そして赤名は赤石となっている。

   ところが、運のないことに赤石の旗指物がさいかちの木にひっかかって取れなく
   なった。馬上から手を伸ばしても取ることはできない。
   「お~い大膳。旗指物が取れなくなった。旗指物を捨てて帰るのは末代までの恥。
   何としても取り返したいので助けてくれ。」
   大膳は「よっしゃ、心得た。とにかく貴様も馬から降りろ。その木を切って旗指物
   を取り戻そう。」と言って馬から飛び降り、先に退却した殿軍のいる箕輪城の方向に
   2頭の裸馬を走らせた。
   二人は刀を抜いて「えっさほいさ」とさいかちの大木を切り始めた。
   そして、やっとこささいかちの木を伐り、大木は道をふさぐ形で「どうっ」と倒れた。

   豊前が倒れた木から旗指物を取り戻している間に、武田軍の追っ手がやってきた。
   「武田の侍は多勢。こちらはたった2人じゃ。存分に働いて討ち死にせん!」
   と死を覚悟したころに、先ほど引き揚げた殿軍の一部の10名が2人の元に引き返してきた。
   聞けば、大膳と豊前の裸馬だけが追い付いてきたので、
   「さては大膳と豊前は討ち死にしたか。心配だから様子を見に行こう。」
   ということで引き返してきた、とのことである。
   そして、「われも俺も」ということで、続々引き返してきて総勢100人余りになった。

   武田軍は大膳らを打ち取ろうとするも、さいかちの大木が道をふさいでおりしてなかなか
   先には進めない。さりとて、さいかちにはびっしりとトゲが生えており乗り越えていく
   こともできない。

   大膳と豊前はさいかちを盾にして、「ござんなれ!」陣を組み両軍はこう着状態となり
   やがて日が暮れ始めた。とうとう武田軍の追っ手は追跡をあきらめて引き上げ、大膳と
   豊前は無事に箕輪城に帰還した。

   業正は二人に対して、
  「敵を我が城に寄せ付けず、途中で踏みとどまった大膳と豊前の働きは莫大な功である。」
   として大いに褒めたという。
                                (続武者物語)

  ◆長野業正、真田幸隆への手紙

   真田幸隆への手紙

   村上義清との戦いで所領を失った幸隆は箕輪城主の長野業正を頼り暫く滞在してた。
   山本勘助の紹介により武田信玄の元へ仕えることになった幸隆は一計を案じる。
   彼は病を患ったと言って出仕を止めた。
   これを聞いた業正は使者を遣わし、さらに馬までも与えた。
   幸隆は驚いたがいつも通りに使者をもてなし、その夜の内に箕輪から出ていった。
   下仁田にさしかかったころ、続いて来る馬の背には家具が積まれ、その後には妻や家僕
   がやってくる。

   これはと不審に思い聞いてみたところ、幸隆の出立後に業正の老臣がやってきて、これ
   を我らの追い及ばない所で幸隆殿に渡されよと、一通の手紙を手渡した。
   手紙を開けてみるとこう書かれていた。
   「甲斐に武田信玄あり、まだ若いがまたとない弓取りである。しかし、箕輪にこの業正
    がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせようと思ってもらっては困るぞ・・・」

   幸隆はこれを読んで恥ずかしく思い、こんなことなら腹を割って話し合うべきだったと
   幸隆は立ちすくんだ。
 
 ◆真田幸隆と長野業正の、「その後」

   真田幸隆と長野業正のお話、「その後」

   永禄四年(1561)、名将、長野業正も七十一歳(現在の有力説は63才)。
   老齢からの体の衰えは隠しようもなく、体調を崩し、人に会うことも少なくなり、屋敷
   に籠もりがちの日々を送るようになっていた。
   そんなある日、業正が家人に突然このようなことを言い出した。
   「そろそろ客があるだろうから、迎える用意をしておくように。」

   不思議に思いながらもその準備をしていると、程なく、その頃、羽尾に引退した真田幸隆
   が旧恩のお礼の言上にと、業正の元を訪れた。

   真田幸隆殿がいらっしゃいました。そう聞くと業正は「そうだろうと思っていた」と、
   手を打って喜んだ。そして幸隆と二人で語り合った。

   「幸隆殿、貴公が箕輪にいた頃、誰もその言を用いることがなく、ついに武田家の謀臣
    となり、信濃もとうとう切り取られてしまった。この上野も、いずれそうなるであろ
    う。私ももう、七十を過ぎた。同じ切り取られるなら、どこの誰とも知れぬものより、
    気心のわかる貴公に渡すことが、憂いの中の喜びというものだ…。

    さて幸隆殿、ここに吾妻郡に続いた地に、利根郡という地がある。
    私の養女の夫で、沼田上野介景康という者がここを治めておる。色に溺れるような、
    思慮のない男ではないのだが、最近、金子美濃守の姪とかいう、素性の知れぬ女に産
    ませた子を平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久をないがしろにし、廃嫡せんとす
    る気配が見受けられる。これでは沼田の家も、長くあるまいよ。

    私が盗ってやろうと思っていたのだが…、もう、寿命も尽きるようだ。
    かと言って、わが子の力ではまだまだ及ばぬ。
    よってこの沼田、貴公に進上しよう。ははは、まあ疑いなさらぬことだ。」

   幸隆は形を正して座を降り、業正に深々と頭を下げた。

   「拙者、これより沼田において方便を駆使し、必ず奪い取って見せましょう。」

   そう言って、箕輪を後にした。

   後、この沼田は幸隆の子、昌幸が攻略するのだが、これは業正の教えに従った幸隆が、
   十分に布石を打っていたからこそ出来たのだ、ということである。


  ◆業盛の血気

   名将長野業正の死後、武田信玄による箕輪城攻めの際の話
   箕輪城方は1500ほどしか兵士が集まらず、若き城主の長野業盛は諸将を集め、防御
   の方法を議した。

   甲は「城を固守して上杉謙信に救援を乞うべきだ」と主張した。
   乙は「属城がことごとく敵方に落ち、将兵は死ぬか背くかした。そのような中で謙信に
      助けを乞うのはかえって世の笑いを受けてしまう。万死を期して決戦あるのみ」
   と主張した。
   すると日頃城主の信任が厚かった丙が「我が先君(業正)は上杉氏のために最後まで
   身命を賭して尽くした。しかし憲政は愚者であり、先君を用いず、遂には国を失い、
   謙信を頼る様となった。

   かような次第なので、今我々の幼君(業盛)も犬死することがあっては先君に申し訳
   ない。むしろ武田家に降りお家を残すのが適切だろう」と主張しだした。
   皆はこれを聞いて驚き、
   「昨日まで我が主家の棟梁豪勇の忠臣であったのが、なぜにわかに臆病者になったの
    か!」と声をあげ涙を流し、甲などは憤然として刀に手をかけ丙を斬ろうとした。

   すると業盛は諸将を制して、そのまま奥の間に行き、業正の位牌を奉じて上座に安置し
   て拝礼したので、諸将もこれに従い拝礼したが、どういった意味なのかわからなかった。
   業盛はその様子を見て、おもむろに「丙が降伏の議を説いたのは皆の心底を知ろうと私
   が命じたものだ。今、皆の心が鉄石の如く堅いのを見ることができ、これ以上喜ばしい
   ことはない!」
   と言ったので、皆再び驚き、業盛の用意周到なるに敬服したという。

   その後業盛率いる箕輪衆は、若田原へ打って出た後に箕輪城に立てこもり、そこで業盛
   は散った。享年19歳
                        アカツキ9巻12号(1934)より
 

武田家

 ◆太刀と脇差(高坂弾正、武士の職分を解らせるには)
武田家において、ある時土屋昌続が高坂弾正に尋ねた

「武を勤めるのは武士の職分と言いますが、家臣たちに、武道に励め、と言うと
喧嘩ばかりするようになり、作法を良くせよと言えば、武道をおろそかにして
武士の職分を果たしません。これはどういう風にすればいいのでしょう?」

高坂、これを聞いて
「それは、各々が腰に差している刀、脇差のようにせよ、と言えばよいのです。」

土屋、しかしその意味が良くわからない
「それは一体どういうことなのでしょうか?」

「刀や脇差を磨いで、これを差しているのは人を斬る為です。
ですが、常に鞘に入れていなければ差す事ができません。

人を斬るものだからと言って、抜き身のままで差せば、差す人の身も傷付け、
刀脇差も錆びて使い物にならなくなります。
だからと言って刃を付けない刀を差しても、それは人を斬る事も出来ないなまくらですよね。
磨いで刃をつけて鞘に入れて、それで初めて刀、脇差と言うものは、携帯する
武器として機能するのです。

武士の家の者だからといって、武道を嗜み過ぎて喧嘩ばかりするのは、刀を抜き身で差すのと
同じ事、そして武道に無関心になるのは、刃を磨いでいないなまくら刀と同じ事。

よって、家臣たちに武士としての職分を解らせるには、腰に指す刀、脇差のようにせよ、
と言えばよいのです。」

高坂弾正の、武士の本質を表した言葉。

  武士が喧嘩で一度刀を抜いたら殺すか殺されるかのどっちか
それを仲裁に入られるようでは武道の心得がなっとらんから
両方成敗する法律あったよね 本当武士は半端ないぜ


 ◆真田幸隆・長国寺縁起

真田幸隆

真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった

ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。

のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。

『長国寺記』

悪い話

羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。

本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。

この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。

幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。

この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。


 ◆村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末

真田幸隆

天文15年(1546)、武田晴信の配下である真田弾正幸隆の元から、二人の武士が村上義清の元に逃げ込んできた。
彼らは須野原若狭・惣左衛門兄弟。元々海野家の家老筋の一族であり、武勇に優れ、智慧と才覚があり、
戦の技術をよく身につけていた。

義清もたちまちこの兄弟を信用したが、そこで兄弟は
「我々は真田の城の事を良く知っており、これを奪って差し上げたいと思います。そのために、優秀な武士を選んでお貸しください」
と提案した。

義清はこれに乗り、旗本の騎馬武者まで出して、有能な武士500人を選んだ。
そして充分に用心し、慌てぬようにと言い含めた上で、須野原兄弟に引きあわせた。
そして兄弟には、乗馬、鞍、太刀、脇差、朱印の付いた知行の目録を添えて出した。

兄弟は太刀と脇差だけを受け取り、他の物は返して
「近いうちに作戦を成功させた上で参上し、重ねて頂戴いたします。」
と申し上げ、義清の言うとおりに熊野の牛王の起請を書き、そして村上家選り抜きの武士たち500人を率いて
真田の城へと向かった。

侵入は成功し、彼らは二の郭まで入った。

その時、前後の門が突如閉ざされ、本城と三の郭より挟み撃ちにして、村上勢500人は、一人残らず討ち取られた。
味方の死傷者は皆無であった。

これは真田幸隆の謀略であり、これによって、翌年の上田原の戦いで、武田晴信は勝利を治めたのである。

(甲陽軍鑑)

村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末である


戦国のライアーゲーム


2010年03月05日 00:04

真田幸隆

942 名前:戦国のライアーゲーム 1/2[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 07:29:22 ID:lqbrK2+A
天文の終わり頃、越後路で道を聞いて回る山伏に、老婆が声をかけた。
「昨日、お前様のように春日山への道を問うた人がおったが、この先でお侍に斬られてしもうた。
悪い事は言わん、戻ったほうがええ。」
「わしは、春日山の毘沙門天へ参詣せんと、願を立てて来たんだがのぅ…」

そこへ眼光鋭い騎馬の侍がやって来て、山伏に問い質した。
「御坊は武田の間者であろう?本当に参拝客ならば、毘沙門天への供物など持参しておろうが。
ここへ出してみよ!」
山伏は、懐から小粒金の入った袋を取り出して見せた。
「…なるほど、どうやら言っておる事は真実らしい。お詫びに、拙者が春日山まで案内しよう。」
山中の毘沙門堂に案内された山伏が、金を奉納すると侍は、
「遠方からの参詣ご苦労ゆえ、この城でも見物して帰りなされ。なに、わしについて来れば問題ない。」
と言って、城中くまなく山伏を案内した。

「いや、念願叶って満足にござる。あとは柿崎・鉢崎を回り、羽黒山に参詣せんと考えております。
引き続き、案内して下さらぬか?」と頼む山伏に侍は、
「越後は目の見えぬ者ばかりではござらぬぞ?化けるのも大概にされよ。」
と言い放って、山城に駆け戻った。

驚いた山伏が逃げ去ると案の定、数人の兵士が追いかけて来た。とっさに山伏は付近の畑に隠れ、
立っていた案山子から野良着と蓑笠を剥ぎ取って着替えると、山伏の装束は池に投げ捨て、小唄など
歌って平然と歩き出した。
兵士たちは山伏(?)の思惑通り、池の装束を見て山伏が逃げ損なって入水したと考えて去った。

943 名前:戦国のライアーゲーム 2/2[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 07:30:05 ID:lqbrK2+A
「…という訳で、危ないところだったわい。」
居城に帰り着いた山伏こと戸石城主・真田幸隆は、側近にグチをこぼした。
「間諜のお勤め、大変にございましたな。ところで、殿あてに越後より書状と包みが届いておりますが…」
「越後より?どれどれ、誰からの書状じゃ……?」

“山伏の姿に似せてわが国への潜入、ご苦労にござった。こちらも、そちらに合わせて春日山に
似た山城をご案内させていただいた。毘沙門堂もニセモノなので、奉納された金はお返しいたす。

真田弾正忠幸隆どのへ  上杉弾正少弼輝虎より ”

「…!!おのれ…このままでは終わらんぞ……」

数日後、野尻の近くで幸隆あての輝虎の書状と、もう一通書状を持った斬殺死体が見つかった。
二通の書状は春日山に届けられ、輝虎は書状を読んだ。

“このような書状が届きましたが、幸隆は未だ戸石に戻りません。手筈通り、柿崎・与板などを探った後、
そちらで休息するものと思われますので、幸隆が参りましたら、この書状を渡して下さい。

宇佐美駿河守どのへ  真田家中より ”

「報告いたします!一週間経ちましたが、真田が宇佐美殿のもとへ来る様子はございません。」
「…そうか、ならば監視を解いて良いぞ。」
文箱から密書(?)を取り出した輝虎は、怒りに任せて偽手紙を引きちぎると、息も荒く吐き出した。
「この輝虎が、騙されて手足たる老臣を疑うとは…!
わしは弓矢を取っては真田ごときに劣りはせぬだろうが、智謀においては、かの者大いに恐るべし。
どんな手を使ってでも、彼奴は殺さねばならん!」

山伏が持っていったのはおそらく甲州碁石金
真田はさりげなくスパイだとばれるようにして、謀略をしかけた。

  • 最終更新:2021-02-14 23:25:04

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード