天分19年軍

景虎越中出陣之時目付之事
   天分十九年庚戌三月十一日牛の刻に晴信甲府を御立あり上野松枝の城へ取つめ給ふ所に小笠原長時公、木曽殿と組、下の諏訪へ打出て、こちやうの城を攻め取申す由晴信公聞召し上野口の事をば指置三月二十一日に諏訪へ御馬をむけられるる是をきき木曽小笠原早々引いるる晴信公四月六日に桔梗ケ原へ御馬を向給ふ
   松本、木曽両方より敵出向ふ然れば木曽の押へをよくおき小笠原と有無の一戦と相定らるる處(処)に五月朔日に越國の景虎龍出て今度は地蔵到下を越、佐久の郡迄も働申べき備定と風聞の儀申来る是を聞召晴信公、木曽、松本を打捨て景虎に向ひ給ふかくありて五月十日申の刻
景虎より晴信公へ使をたて明る十一日に一戦をまいるべき由申さるる、
   晴信公尤と被レ仰十一日卯の刻に打出て右の御先は飯富殿、左は小山田備中、中は眞田弾正何れも信州先方衆を組あはせ、三手ながらほうやに備を建てる御旗本前は典厩穴山殿せいに備をたて給ふ右は浅利、馬場、内藤、日向大和左は諸角、甘利殿、勝沼殿、小會殿此八頭を考うに備を立る御後は郡内の小山田、栗原此二頭は御旗本一手のことく組合せ、はうやうに原加賀守是もはうやうに、たててはるばる御跡に居扨又景虎は一万の人数を一手のごとくにくみあはせ、一のさきの二の手に我旗本をたて既でに合戦はじまる時晴信公御旗本の上に黒雲の、まろきやうなるが景虎の旗本の上へ吹きかけ、しかも景虎衆惣人数の上にて此雲散りたるを見、景虎さいはいをとつて早々引あげ我旗本の備を人先につれて引いれ給ふ、
   天分十六年末の秋より戌の五月まで四年の間に景虎此時初めて軍をまはさるるなり、晴信公惣軍は其日末の刻迄備を立合戦を持て、甲の刻に陣屋へ入景虎十二日卯の刻に越中能登へ発向仕由、たて文を、晴信公へ進上申早々景虎退散なり、
   晴信公其御返事にも村上殿を本城へ帰参の義思ひ止給へ左候へば景虎と晴信と弓節はなき物をといかにもゆるやか成る御返礼なれば猶以て景虎悦び引いるるさありて、山本勘介晴信公へ申上る、景虎越中能登の敵にあひ申候様子御目付をつかはされ附召候へと申上るにより晴信公、馬場民部、内藤修理、両人を召して山本勘介申上る儀を分別仕候へと被レ仰馬場内藤両人ながら一ツ心にして、馬場民部申上るケ様の御目付には他国の案内を不レ存して成がたし目付とあらはれ敵にとらへられ様子を申候へは景虎をふかく思召し候様にて晴信公御威光あさく成申候間、何と拷問せられて白状仕らぬ兵の分別ありて才覚有饒舌たらふて弓矢に巧者能(よき)武士を指越比レ成よと申上る、
   晴信公比レ仰は加賀能登両国の案内は曹洞家の出家大盆をあて越し候はん、又目付には此方にても馬場民部と内藤修理と山本勘介と此外一切さたなく越候はば馬場民部かいぞへに付たる小幡日(山)城が六番目の子、山城が弟小幡弥三郎左衛門を、こせと被二仰付一候て大盆と申出家と小幡弥三郎左衛門越中へ行みききて帰り申上るは晴信公に向ひ奉りての様子か区別かはりいかにも大事に仕られ、かまりにて、敵をころし或は切所の物かげをかたとり、はんとをうちて敵をうち取り能敵の体をみきり少人数なればそこにてかろき働きをいたされ、いかにも弓箭(きゅうせん:弓矢)のもやう、しめてみへ申候と大盆を証人に立まいらせ、弥三左衛門申上る、此大盆その時分関東の事は不二申ニ及一日本にかくれなき會下僧なり、
   其上小幡弥三左衛門兄の山城におとらぬ弓箭巧者の武士なり両人の言上を、山本勘介承り扨は景虎、晴信公を能き相手と奉レ存負て不レ苦と景虎思はるると我等のつもり毛頭違申さず候間必ず謙信と御対陣の時そそけたる御備なき様にと馬場民部、内藤修理を以て山本勘介申上る、晴信公珍重に思召すことなり是は信州猿が馬場と申所にて晴信公三十歳の御時なり、後の五月中かいづに御馬を立られ境目要害とも堅固に被二仰付一六月中旬に御帰陣なり

一 晴信氏康和睦之事
天文十九年九月九日

  • 最終更新:2019-11-03 00:24:36

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