平井城

上州平井城(ひらいじょう)関東管領山内上杉家の上野の拠点
Wiki最終更新 2016年1月25日より本サイト内に取り込んだもの
  場所 :群馬県藤岡市平井
  築城年:永享10年(1438年)

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 ●第21代関東管領:山ノ内上杉憲実の時代
  • 永享元年(1429)
   足利直家臣の長尾佐衛門景忠が上野・越後守護代。
   4男の長尾忠房を上野国府を支配。長尾忠房は国府跡を蒼海城を城郭化
   元の総社神社を今の場所に移築。~以後、総社長尾氏の本拠地。
                    (上野国守護代総社長尾景行入城説あり。)
 鎌倉公方足利持氏が越後守護代長尾邦景の取り込みを図り、邦景から通報を受けた
   将軍足利義教は清方に対して邦景に協力して持氏に対抗するように命じた御教書を
   下している。
  • 永享3年(1431年)
   憲実は、古河公方足利持氏が幕府の改元を無視すると、謝罪の使節を派遣した。
  • 永享4年(1432年)
   鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還し、同年に幕府で将軍・義教の富士下向が
   協議されると、憲実は警戒して関東情勢の不穏を理由に下向の延期を促し、幕府の
   醍醐寺三宝院門跡満済らに進物するなど、憲実は一貫して鎌倉府と幕府との調停に
   努めている。一方で、幕府は憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようとしていた形跡が
   見られ、義教への対抗姿勢を続ける持氏と穏健派の憲実は確執が生じるようになって
   いたと考えられている。
  • 永享8年(1436年)
   幕府の分国である信濃守護小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、持氏は
   鎌倉に支援を求めた頼清を助けて出兵しようとするが、憲実は信濃は関東公方の管轄外
   であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原政康が勝利する。
 ●信濃の戦い
    信濃守護:小笠原政康(★武田系の源氏)
       VS
    村上頼清(★村上源氏)
   
   足利持氏は鎌倉に支援を求めた村上頼清を助けて出兵しよう
   とするが、上杉憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして
   諌め出兵しなかった。、
   結果・・・小笠原政康が勝利した。
箕輪初心師のブログより
  • 永享9年(1437年)
   持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、憲実
   方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。持氏は憲実の元を訪れて会談するが、憲実は
   相模藤沢へ下った。
  7月に嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。持氏は在職を望むものの憲実は管領職
   を辞任する。
  8月には一旦は復職するものの、武蔵国の文書への署名を依然として拒否しており、確執は
   解消されないままとなった(武蔵国は鎌倉公方の領国とみなされ、関東管領がその代官
   として守護職を務めていた)。
 ●足利持氏 VS 上杉憲実
   上杉憲実は相模藤沢へ下り、嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入った。
   足利持氏は在職を望んだ。
   しかし、上杉憲実は管領職を辞任した。
箕輪初心師のブログより
   上杉清方は兵庫頭に任じられている。
  • 永享10年(1438年)
   通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。
   持氏が憲基の従兄で関東管領上杉憲実を討伐しようとして永享の乱を起こすと、長尾忠政
   は憲実を上野平井城に迎え入れて持氏討伐の兵を挙げる。この戦いで景仲副将格として
   出陣して、忠政が持氏を捕らえた際にも功績があった。続く結城合戦でも功績を挙げる。
  6月に持氏の嫡子・賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領
   を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して
   「八幡太郎」の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃には持氏が
   憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している(元服式に
   出席してしまうと、義教の偏諱を受けなかった義久を容認してしまうことになり、幕府
   への立場が悪くなってしまうことを危惧したとも)。持氏に嫌疑をもたれた事に対し、
   不本意として自害を試みたが制止させられた。
  8月には、難を逃れるために鎌倉を出奔して領国の上野平井城に下る。通説ではこの時期に
   憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。なお、京都の足利義教は憲実は
   必ず自分を頼って京都に赴いて持氏打倒を訴えると考えていたらしく、既に駿河の今川
   範忠に憲実を庇護を命じていたため、この対応に困惑したと言う。
   持氏は憲実討伐のため8月に一色氏に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。幕府は関東
   での事態に対して、持氏討伐の兵を下すとともに、信濃国の小笠原政康に憲実救援を命
   じている。
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  9月末には小笠原軍は上野国板鼻に入って北上する鎌倉軍を打ち破った。
  10月憲実は武蔵分倍河原に着陣し、先鋒の一色軍を破る。憲実自身は旧主を攻めること
   をよしとせず、自らの軍の兵を進めることはなかったが、家宰の長尾忠政が代わりに兵
   を進めた。鎌倉軍は幕府軍に敗れ持氏は出家して永安寺(鎌倉市)に入った。

   結果・・・足利幕府軍&上杉軍が鎌倉公方軍に勝った。
        足利持氏は出家して鎌倉の永安寺に入った。

   憲実は幕府に持氏の助命と義久の関東公方就任を再三再四(『日本外史』によると
   "使者十余反")嘆願するが、義教はこれを許さず憲実に持氏を殺すよう命じ、憲実が
   持氏・義久父子の成敗を固辞している姿勢を、逆に持氏の翻意に荷担していると嫌疑が
   かけられた。憲実はこのままでは義教に自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれる事
   を覚悟して足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進して一旦は身辺整理を行
   うものの、相国寺の柏心周操の説得に応じた。
  • 永享11年(1439年)
 ◆上杉憲実の出家・隠遁
   上杉憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した。
  ※永享の乱が集結した。 
   永享の乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家した。
   そして雲洞庵長棟高岩と称した(伊豆遁世前に持氏の墓前にて自害を試みている)。
   上杉憲忠は父の憲実が出家したとき、共に出家した。
   清方はこの時に山内上杉家当主に就任したとみられ、関東管領も譲ろうとしたが幕府は
   認めなかった。このため山内上杉家が当主不在となった。
 足利持氏が自刃し、鎌倉公方が滅亡した永享の乱の後、清方は隠遁した憲実によって
   関東管領と山内上杉家の家督を継承した(なお、関東管領は武蔵守護を兼ねる慣例が
   あったため、同職も譲られた事になる)。
 室町幕府は憲実への引退を認めず、清方をその代理として位置づけた。一方、山内上杉家
   の家督に関しては継承を認められ、同家の家臣は「清方被官」として認識されるように
   なる。また、同家家宰の長尾忠政や武蔵守護代の長尾景仲も清方の命令を受けて文書の
   発給や実際の政務を行うようになる。

 ●第24代関東管領:山ノ内上杉顕定の時代
  • 文正元年(1466)
  2月、上杉憲実は長門大寧寺で死去。享年57歳。
     ★「大内氏実録」 ちょっと寂しい人生であった。
       上杉憲実の墓・・・山口県長門市大寧寺
  ●上杉顕定平井城を拡張した。3の丸・総曲輪も増築した。
  ★上州平井城に移ったのはこの時期かもしれない。
   また、長野氏の箕輪城鷹留城が同様な関係で
 参考に・文明9年(1477)~長尾景春の乱以前に築城されていたと考える説は私だけである。
   尚、久保田順一先生は
   「長野郷広域説から、鎌倉時代に長野氏が、箕輪にいた説を採っている。」
   山内上杉氏の居城として五十子が築かれたが、土地が狭かったので、上杉家は
   上州平井城へ移ったものと考えられる。 
   平井城に在城していた家臣:赤松則村(円心)の裔孫:有田豊後守定基を
   雉ヶ岡城主として配備した。
   城主となってからは夏目定基と称した
   夏目氏は定基、定盛の2代に渡り在城した。
                     (★『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』)

  ※この年に、関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。
   古くから、平井城が関東管領であった山内上杉氏の拠点であったかのように記す史料も
   あるが、実際には永正9年(1512年)の永正の乱もしくは大永年間(1520年代)以降の
   拠点で、16世紀前半の短期間のものであったとみられている。これは関東管領がこの城
   に在城した期間の事であり、憲実の頃から関東管領の重要な拠点の一つであった事は
   間違いない。

 ●第28代関東管領:山ノ内上杉憲政の時代

   第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
   よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
   関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

  • 享禄元年(1528)12月27日 古河公方家嫡男:足利晴氏が元服した。
   
  • 享禄2年(1529)
   安房里見義豊が古河公方足利家当主として、足利晴氏を挙げた。
   古河公方:足利高基と晴氏の抗争が始まった。

   5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した。
   8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。
                            (★『続本朝通鑑』黒田基樹)
   9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房子憲政、時称竜若、
    継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之」
                          (★『続本朝通鑑』:久保田順一)
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
   ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。

   上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。
                           (★『続本朝通鑑』黒田基樹)
  ※山内上杉家の派閥争いであり、台頭する長野家に脅威を感じた安中・小幡等諸氏が
   憲政を担ぎ上げて対抗したのではないだろうか?ただ長野氏と安中氏の争いに憲寛が
   出張ってきて、しかも管領職を脅かされるなんて考えられない。 棟治

   長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS
   小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

   安中城付近で交戦
   上杉憲寛は長野方業(業政)を随行させながら
   安中城から程田(高崎市保渡田)に後退した。負けた?やらせ?
   憲寛に管領職を辞してもらうための陰謀とか勘ぐってしまう。もし白井長尾景誠が長尾
   八郎に謀殺されるとこから、憲寛引退までの内乱が方業の欲に起因する計略だとしたら、
   誠にもってあっぱれである。是非もなし我らがじっちゃんである。これはないな 棟治
                                 (★『続本朝通鑑』)
  • 享禄3年(1530)
   1月21日 長尾景虎(上杉謙信)誕生。
   4月 氏綱が甲斐郡内に乱入。
   4月23日 小山田信有が防戦するが敗れる。
   この年、信虎は上杉憲房の後室を側室とする。
   5月 
   「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた。
   棟治はここを長野業政(左衛門尉)が、小幡攻めした時に意地悪しないよと
   禁制を与えたんじゃないかなと考えた。

   甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。

   5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の戦勲に対して
   感状を発給した。

   10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官
   三富平六に与えた。

   吾妻の戦いにて、長野憲業が戦死説。長野業政40歳?が家督相続した。
                            (★箕郷町誌・みさとの歴史)
  • 享禄4年(1531)
   28代関東管領に上杉憲政が就任、家宰は足利長尾憲長
   1月21日 栗原兵庫・飯富虎昌らが、信虎に叛く。
   2月2日 信虎、大井信業・今井尾張守らと戦い敗死させる。
   4月12日 信虎、諏方頼満・栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌と塩川端で戦い大勝する。
   6月1日 
   足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討した。
   足利政氏から足利基頼宛の書状が届いた。
   6月6日 足利晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、
   足利政氏の治療を指示した。
   6月9日 足利高基が小山小四郎に対して隠居を知らせた。
   9月3日「享禄四年(1531) 九月三日の条 山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト
          成ル、憲広、晴直ト改ラル、宮原ノ祖ナリ」
                           (★『喜連川判鑑』:久保田順一)

   上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して
   晴直と名を改めた。
  • 天文21年(1552年)
   北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の
   上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで北条に寝返って
   いたためである。

  • 永禄3年(1560年)
   長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)
   に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた
   北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。

  • 最終更新:2017-03-04 18:22:42

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