長野郷の歴史 中世

参考文献『長野業政と箕輪城』(久保田順一氏著 戎光祥出版)

一所懸命の地を苗字とする武士団の出現

 ◆白河院の時代(中世の始まり) ~浅間山の噴火と在地武士団
   久保田順一先生28年8月27日の講演会にて初心氏は、その内容の一部を次のような
   項目にまとめた。

 (1)中世の概念
    「通説は武士の時代とされていたが、今は、院政期から中世と考えられている。」
 (2)武士も貴族の一部である。・・・・軍事貴族
 (3)荘園=私領・公領=郷の違い・・・院政期に成立(荘園公領制)
    荘園・・・新田荘・桃井荘は私領である。
     郷・・・長野郷・甘楽郷などは国が支配した。
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   鳥羽上皇:崩御 保元元年(1156)

 ◆浅間山の噴火からの復興と、女堀、長野堰

 ◆榛名神社と戦国武将 かみつけの里博物館 第25回特別展 『榛名山に祈る』より
久保田順一氏著
  はじめに
   榛名神社は延喜式内社として登場し、「上野国神名帳」に「正一位榛名大明神」とみえ、
   古代から上野を代表する神として位置付けられていた。

   その後、同社は神仏習合によって榛名寺とも称された。
   建久元年(一一九〇)十一月五日の【留守所下文】によると、寺領への健児・検非両便の
   入部が停止され(「榛名神社文書」)、鎌倉期においても地域の有力な宗教勢力として
   の地位を保っていた。

 ◆【上野国留守所下文(榛名神社文書)
   平安時代の榛名神社の様子を示す資料として、
   こうずけのくにるすどころくだしぶみ「上野国留守所下文」 が残る。
   上野国留守所が榛名神社の諸領内への国衛両使の入部を停止する。

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  ※漢字の読みが分らず正しく表示されてません

  留守所下
    可令早任旧例、任宿願、榛名寺領内停止
              健兄井検非両便事
   右、十一月五日御庁宣、同年十二月七日到束僻、榛名
   御山云垂跡云本地、穿以鎮護国家恒化修良之霊地云々
   者、且任旧例、且任宿願、可令停止健児井検非両便、
   於榛名寺領内之由、御庁宣明鏡也、彷府内国中
   諸人、宜承知、勿遠矢、以下、
    建久元年十二月  日
                惣検校石上 (花押)
                 散位石上 (花押)
              日代左衛門尉藤原(花押)
 【解説】
   国衝から榛名神社へ、健児(こんでい)・検非違使(けびいし)
   (ともに軍事警察権力)の不介入を認めたもので、
   文書に名前の残る藤原氏は、都から派遣された役人、
   石上氏は現地の豪族で国衛の役人である。

 ◆荘園公領制(長野郷)

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  ●長野一族の活動の舞台は、榛名山の東・南麓に広がる長野郷である。
   平安時代には、有力貴族や寺社の私領として荘園が形成されたが、
   一方で国司が支配する国衛領の郷の再編成も進められた。
   その結果、荘園・国衛領制が成立する。

   長野郷は国衛領の一つで、上野府中(前橋市元総社町)の西側にそれを支えるように
   成立した。現在の市町村でみると、高崎市の北部域であり、国街領としては上野国有数
   の規模をほこる。

   長野氏は、長野郷を管轄する郷司であり、石上を姓としていた。
   石上氏は古代上野で各郡司を排出した有力豪族で、その一族がここに入って長野氏と
   なつたのであろう。

   一方、長野氏は上野国衛とも関わり、国司の代官(目代)を支える国衛の現地役人
   (在庁宮人)でもあった。 (久保田2016)

 7.鎌倉幕府と長野氏
 ・吾妻鏡にみる長野氏、三原の巻狩り
   鎌倉時代には鎌倉幕府の御家人ともなり、長野刑部丞が活躍した(「吾妻鏡」)。

 8.長野郷と上杉氏
 ・関東管領上杉氏と榛名神社及び長野郷
 ・足利氏書状(木部入同金)
 ・榛名神社下文

  ●南北朝の内乱以降、長野郷は上野国守護職となった山内上杉氏の所領となる。
   そのことを考慮すると、長野氏ほ南北朝内乱でいったん没落し、
   長野郷の支配権を失ったことがうかがえる。

   室町期以降に再び登場する長野一族は、その一族が復活を遂げたか、
   別の氏族が上杉氏の被官として入ったかのいずれかである。

   長野一族は、室町期から戦国期までこの地を支配し続け、戦国期にはその支配領域を、
   中心となる城名に因んで「箕輪領」とも称されるようになった。

   箕輪城が築城された西明屋は、榛名山東南麓の長野郷を見下ろす高台の地で、山側に
   偏っているようにみえるが、そうとはいえない。

   足利尊氏は、戦乱で倒れた後醍醐天皇をはじめとする人々の供養のため、全国に安国寺
   ・利生塔を造営したが、上野安国寺は当初、ここに設けられた。

   同所が足利方の拠点で、安国寺を造営するのにふさわしい、聖なる場所と考えられたた
   めであろう。西明屋にほ上宿・裏宿・西宿などの宿地名もあり、中世の宿が存在した。

   ここは坂東三十三観音霊場めぐりの白岩観音から水沢観音へと至る参詣路が通り、榛名
   神社参詣の入り口でもあった。

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   水沢からは、越後へ向かう道も想定される。さらに、西明屋の周囲には、鎌倉期以降の
   元号を刻む石造物も多く残っており、有力者が拠点(箕輪)を構えていたことがわかる。

   長野郷の中心の一つとして上杉氏がここに拠点を構えたと考えられ、それが長野氏に引
   き継がれたのかもしれない。長野郷内でもうーつの重要拠点が浜川である。
   ここには御布呂や本宿の字名がある。御布呂は石上氏ゆかりの大和国石上神宮
   (祭神‥布留御魂剣)に関わる地名で、ここには石上寺があったともいう。

   また、本宿の字名から中世の宿が存在したこともわかる。
   ここを奥大道(中世の東山道)から分岐して府中へ向かう通が通っており、付近には
   長野氏の始祖に関連する乙業館や隆業館(浜川砦)をはじめとする城館が密集し、
   鎌倉期に開かれた時宗の来迎寺もある。ここを長野氏発祥の地とする説もあり、後述
   するように、ここには浜川長野氏がいた。 (久保田2016)

  • 最終更新:2017-03-31 23:28:20

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